「忍耐の日にキリストから授かるもの」1/24 隅野瞳牧師

  

  月24説教 ・降誕節第6主日礼拝
「忍耐の日にキリストから授かるもの」
隅野瞳牧師
聖書:ルカによる福音書21:5~1
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 本日の箇所では、苦難の中でもご自身を信じる者の魂を守り抜いてくださるというキリストの約束が記されています。3つの点に目を留めて、ご一緒に神の御言葉にあずかりましょう。

1.永遠に変わることのない、見えない神を見つめる。(5~9節)
2.言うべき言葉と知恵は授けられる。(15節)
3.信仰に留まる者は、永遠の命に入る。(19節)

1.永遠に変わることのない、見えない神を見つめる。(5~9節)

本日の箇所は、終わりの時について主イエスがお語りになった教えです。この世界には終わりがある、そこに向かう歩みにおいて私たちが何を見つめ、なすべきかを教えておられます。神の創造のみ業によって始まったこの世界は、同じく神によってその使命を終え、完成する時が来るのです。

先週は主イエスがやもめの献金の姿を目に留められたことを聞きましたが、今日の箇所である人たち(マタイ・マルコの並行箇所より弟子たちと考えられます)は、エルサレム神殿の見事な石や豪華な奉納物に目を奪われていました。エルサレム神殿は500×300mほどの大きな城壁に囲まれ、中心には高さ30mほどの大理石造りの聖所・至聖所がありました。その大きさ、美しさはローマ世界に広く知られ、多くの巡礼者が訪れていました。当時のエルサレム神殿は、主イエスの誕生の際に登場するヘロデ大王が、何十年もかけて改修工事をした大変壮麗なものでした。

さてそのような立派な神殿の建物に感心している人々の言葉をお聞きになった主イエスはこう言われました。「あなたがはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」(6節)つまりこの神殿が徹底的に破壊されてしまう日が来るということです。このお言葉はおよそ40年後の紀元70年に現実となりました。当時イスラエルを支配していたローマ帝国に対してユダヤ人たちが反乱を起こしたものの、圧倒的な力を誇るローマ軍によってエルサレムは陥落し、神殿も徹底的に破壊されてしまったのです。

 ユダヤ人たちにとってエルサレム神殿の崩壊は、自分たちの培ってきた伝統、信仰、文化、生活全体の崩壊です。それはこの世の終わりをも意味するような事柄でした。エルサレム神殿の崩壊の予告によって終わりに直面させられた人々は、「それはいつ起るのか」「どんな前兆があるのか」と問いました。すると主イエスは「惑わされないように気をつけなさい。」(8節)と言われました。神殿の美しさに目を奪われたと思ったら、天変地異におびえる。私たちは目に見えるものに心を奪われやすく、本当に大切なものを見失いがちです。しかし主イエスは永遠に変わらないものを見ておられるのです。

 新型肺炎を通して私たちは、「本当に大切なもの」について考えるようになりました。教会においてもそうです。礼拝や伝道の本質とは何だろう。多くのものが変わったとしても、そこに残るものは?私たちが努力を重ねて教会や神を守るのではない、私たちがどうなったとしても神は変わることなくここに、信じる者のただ中におられるのだ…。私たちが信じお伝えしている主、私たちを救い生かしておられる神はそのようなお方であることを、あらためて知らされました。そして一つひとつの集会を大切に行い、お会いできる恵みに感謝しました。共に集まれない状況がこれからあるかもしれませんが、それでも私たちは決して失望しません(Ⅱコリント4:8~10)。私たちはいつでもどこまででも祈りや愛でつながることができ、御言葉を伝える道は必ず開かれていくからです。

恐ろしいことが起こると、世の終わりを叫ぶ人がいつの時代にもいます。けれどもこれらの苦しみは歴史上いつの時代にも起こるもので、安易にすべての終わりに結び付けてはならないのです。主イエスは言われます。「こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである」(9節)。 

主イエスの復活の後、弟子たちの伝道を通して始まった初代教会には、世の終わりが近いという信仰が強くありました。そのため仕事や礼拝をおろそかにしたり、世の終わりがなかなか来ないために信仰に失望する者もいたようです。しかし「世の終わりはすぐには来ない」。一時的に盛り上がってすぐにしぼんでしまうような信仰生活ではなく、日常生活の中で、落ち着いた、継続的な信仰生活をしなさいと主は呼びかけておられます。信仰は息をしたり食べたりするのと同じく重要で日常的なものです。今日は忙しいから呼吸はやめますとか、年に一度だけ食事をしますという方はおられないですよね。教会に来た時だけでなく、聖書の言葉に養われ、礼拝をささげ、自然や隣人を通して神とともに生きることすべてが信仰生活です。

主イエスはまず、自分こそキリスト、救い主であると名乗る人々が大勢出現すると警告されました。社会が不安の中にある時には必ず、私たちを惑わそうとする者たちが現れます。不安や怖れにつけこんで「ここにこそ救いがある」と主張するような偽りの情報や教えがわたしたちの周りにもたくさんあります。しかし世の終わりについての聖書の教えは、そういうものとは無縁です。主イエスは人々の恐怖心をあおるために御言葉を語られることはありません。戦争や暴動、災害や疫病の苦しみが降りかかり、天体に異変が起こります。しかし主イエスはそれらに「おびえてはならない」と言っておられます。恐れに捕われてしまうことによって、私たちは惑わされ、物事を正しく適切に判断できなくなるからです。

しかしそうは言われても、おびえずにはおれないような現実があります。主イエスが「おびえてはならない」とおっしゃることの根拠は何なのでしょうか。9節の後半には、「こういうことがまず起こるに決まっているが」とあります。「決まっている」というのは、必ずそうなる、避けられない必然である、ということです。主イエスは理想論を語るのではなく、人間の現実を冷静に見ておられます。戦争や災害による苦しみをなくすよう努めることは、すべての人にとって大切なことです。しかし主イエスは人間に罪がある限り、その努力だけでは戦争はなくならないことを知っておられます。また自然災害も長い年月の中でくり返されてきました。

主イエスがおっしゃりたいのは、必ず起こる災いにいつも備えなさいということではなく、これらのことが起きても世の終わりではないということです。終わりは主イエスが大いなる力と栄光を帯びてもう一度来られることによって来ると、聖書は語っています。キリストが語っておられる終わりの日は、完成の時です。古い過渡的な時代が終わり、完成された新しい時代が到来する、希望に満ちた日です。戦争や自然災害、死…すべての嘆き悲しみを神がぬぐいとってくださる日が、必ずやってきます。まさにその日から、本当に新しい時代が始まります。その日を信じて生きていく時に、平安が与えられます。見えないけれども、見えるものより確かで永遠のお方である神と、その救いの約束を見つめるよう、主イエスは願っておられるのです。

2.言うべき言葉と知恵は授けられる。(15節)

 主イエスは戦争や災害に先立って、御自分に従う者たちがその信仰のゆえに、社会から、また親しい関係にある者からも苦しみを受けると予告されました(12節)。弟子たちがその信仰のゆえに捕えられ、尋問や裁判を受けることになるのです。「会堂や牢」はユダヤ教側からの、「王や総督」は異邦人側からの迫害です。家族・友人・親族からの迫害は、クリスチャンを孤独の極みに置くでしょう(使徒言行録4~5章、24章以下参照)。

しかし同時に2つの恵みが与えられることも約束されています。「それはあなたがたにとって証しをする機会となる。…どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。」(13,15節)1つは、信仰のゆえの苦しみを受ける時も、そこが証しをする機会となるということです。証しとは、主イエスは私をこのように救ってくださったという喜び、その救いの確かさを人々に語り伝えること、つまり伝道することです。もう一つはその証の機会に、主イエスご自身が弁明の言葉と知恵とを授けてくださるということです。

 主イエスが授けて下さる証しの言葉と知恵。それは単に雄弁に語れるようになることではありません。論争に勝つこと(=自分を正しいと認めさせること)が証しになることはないのです。主イエスによる救いの恵みが示され証しされる、まことの知恵ある言葉。それは前もって準備し、勉強して知識を得ることによって語れるようになるものではありません。主の者として生きることで紡がれ備えられていくのです。

以前牧していた教会に、とても口数の少ない姉妹がいました。ペトロのようにシンプルで、難しい表現はなさらない方でした。しかし一言ひとこと思いを巡らしながらの彼女の祈りは、何者も揺るがすことのできない信仰に根ざしていて、身震いがしたものでした。ご主人から激しい反対を受けながらも教会に献身的に仕え、家の務めはもちろん、誰も見ていないようなところでのご奉仕も黙々と、心をこめてなさる方でした。ああ、この方にはウソがない。この方の信じている神はここにおられ、その愛は真実だと感じられる生きざまでした。

 滅びを超えた本当の命に至るために、何としてでも神の愛に踏みとどまってもらいたい。ですから主は、迫害はあると前もってお伝えになりました。それと同時に主は、私も共に戦うと約束してくださっています。主イエスが私たちに代わって戦ってくださる、というほうが正しいでしょう。苦しい時を共に乗り越えてきた家族や友人との絆は、とても強いものですね。苦難の時にいつも伴ってくださる主により頼むことを通して、私たちの信仰は深められ、主との結びつきがより堅固なものとなります。「あなたがたの髪の毛一本も決してなくならない。」(18節)髪の毛一本も…とは、それほどまでに完璧に、私たちを守り切ってくださるということです。16節では迫害によって殺される者もいると言われていますが、それと矛盾しているわけではありません。どんなに危害を加えられ、命を落とすことがあったとしても私たちの魂、神と共に生きる最も大切な本質的部分は奪われることがないということです。忍耐して踏みとどまった人は、この世の命を超えた、神の前での新しい命を生きるのです。

3.信仰に留まる者は、永遠の命に入る。(19節)

 「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(19節)信仰のゆえの苦しみにおいて主イエスが私たちに勧めておられるのは、忍耐することです。これは自分の力で勝利し手に入れるという意味ではなく、忍耐によってあなたがたが永遠の命を得ることができるという約束です。ここでの「忍耐」は、何かの下に留まっている、つまり迫害にあっても主イエスを信じつづける、ということです。

「愛は忍耐づよい。」(Ⅰコリント13:4)聖書における忍耐は神がお与えになる愛の性質の一つであり、救いの完成を待ち望むという明確なゴールがあります。まず神が私たちを罪から救うために、そして私たちが神の子として祝福のうちに成長していくように、忍耐してくださっています。どんなに私たちがご自身に背いても投げ出さず、救いの御手を差し伸べ続け、悔い改めを促されます。救いの確かさはただただ、神が私たちを救うという恵みのご意志と忍耐の態度にあります。その確かさを望みとし神の愛を受けて、私たちも忍耐をもって歩みゆくことができます。誰も知らないところで忍耐し、涙を流している私たちのことも、神は知っていてくださる。なんという慰めでしょうか(黙示録2:19)。

 この「命」は生き物が持っている地上の命のことではなく、原語では「魂」という言葉です。主イエスを自分の救い主と信じる時に、神と共に歩む人生が始まります。それが永遠の命、神がお与えになる新しい命に生まれるということです。永遠の命は一回限り受け取って終わるものではなく、神と愛し合って生きる人生そのものです。ですからある面で忍耐、そこに留まり続けることが必要です。この世において主イエスを自分の救い主として信じ救われた時から永遠の命の歩みはスタートし、完成の時までのすべての過程が命なのです。

 忍耐によって命をかち取る。とは言え、簡単なことではないと思います。キリストを信じるゆえに迫害を受けている方々が、現在も数えきれないほどおられます。日本でも戦時中にこのような試練がありましたし、今まさに家族や職場において苦しんでいる方もおられます。そのような状況になったら信仰を捨ててしまうかも知れない。自分や家族を守るために、友を裏切ってしまうかも知れない。そういう弱さを抱えているのが私たちだと思います。しかしその弱さをご存じだからこそ、主イエスはここで「あなたがた」と語っておられます。あなたを支える教会の仲間がいると。共にキリストを礼拝し、弱さをもつ自分をさらけ出して祈り支え合う中に主はおられ、必要な言葉や力を与えてくださいます。神と兄弟姉妹に支えられ背負われるとき、気がつけば私たちは忍耐する者に変えられているのです。今日の箇所を読みながら「フットプリンツ(足跡)」という詩が思い出されましたので、ご紹介します。

『ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
 これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜわたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」
 主は、ささやかれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」(マーガレット・F・パワーズ)』

遠い先のことについてすべてがわからなくても、心配しなくてもよいのです。必ず神が勝利を与え、命を完成させてくださるという希望を抱いていましょう。すべての苦しみが終わり、すべてが新しくされて救いが完成する日が来る。そのゴールがわかっていることで、安心して大切に今日を歩むことができます。思えば今当たり前のようにできていること、乗り越えた苦しみも、小さな積み重ねがもたらしてくれたものでした。御言葉によって照らされて、今日一日、主とともに歩みましょう(マタイ6:34、詩編119:105)。

 最後に、先ほど「証しをする機会」についてお話ししましたが、主イエスは自分の信仰を堂々と力強く語る、ということだけを言われているのではありません。むしろ主イエスを信じる信仰のゆえに苦しみを受けつつも、信仰に留まり続ける姿そのものが、どんな雄弁な言葉よりも主イエスこそ救い主であると証しするものなのです。相手を打ち負かして自分の信仰を守るということを越えて、迫害する相手の命をも主イエスに救っていただく道が開かれる。忍耐によって命をかち取る本当の勝利とは、そういうことではないでしょうか。神の救いはすべて、御子の命がささげられた尊いものです。自分では「こんな証」と思っていたものが、多くの人を励まし、キリストに導くことがあるのです。欠けだらけで罪深い私だからこそ、神の救いが力強く証されるのです(Ⅱコリント4:7、Ⅰテモテ1:15~16)。自然体で主と共に生きてまいりましょう。

≪説教をPDFで参照、印刷できます≫

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