「恵みを伝える者を育てていこう」10/11 隅野徹牧師

  10月11日説教 ・聖霊降臨節第20主日礼拝・神学校日礼拝
「恵みを伝える者を育てていこう」
隅野徹牧師
聖書:マタイによる福音書9:35~38
   テモテへの手紙Ⅱ2:1~3

説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 本日の礼拝は「神学校日礼拝」としてもちます。「神学校日」とは、これからの献身者を養成する「神学校」の働きと、これから世の中に出て「福音を宣べ伝えるために」研鑽をつんでいる、そんな神学生のことを覚えるために、10月の第二週に日本基督教団の各教会が守っています。

 日本の神学校をとりまく状況が近年どんどん悪化している…そのことの耳に入っていることでしょう。財政などの運営の面もそうですが、とくに「献身者の激減」がどの学校でも起こっていて、働き手の不足が顕著です。 私や瞳牧師が神学校に行っていたころには、ここまで減るとは全く想像もできなかったです。夫婦でもそんな話をしています。

 献身者同士が、切磋琢磨する、祈り合う、励まし支え合う…そういうことがほとんどできないので、結果キリスト教界全体が疲弊しています。そのことで「献身を志す人がほとんど生まれない」という悪循環を生みだしています。

 先週の火曜日、私たちが所属する「日本基督教団ホーリネスの群」の「信徒・教職共同セミナー」がオンラインで行われました。そこでホーリネスの群が運営する「東京聖書学校」のこれからについて講演や協議が行われました。大変恵まれる内容であったので、皆さんにお分かちします。

 現在の献身者不足、教会の疲弊衰退という状況を変えるには、これまでの常識を見直し、顧みた上で、原点にもどることが必要だということが確認されました。原点とは…「誕生したばかりの初代教会の姿」です。教職と信徒の境目なく、皆が救いの喜びを周囲に「自分の言葉で生き生きと伝えていたあの時の教会の姿」に立ち返ることです。

 神学校の役割も「ただ献身者を育てる場所」ではなく、「各教会の信徒一人ひとりが伝道者として用いられるためのサポートをする場所」としての役割を担うようになっていることも確認されました。

 ぜひこれからのメッセージを「ご自分に直接関係する話」として受け止めていただいたらと思います。

 まず、聖書の言葉を深く見る前に、最近なされている「日本の伝道の振り返り」からなされた「考察」の内容についてお話しします。

 火曜日に行われた「ホーリネスの群・信徒・教職共同セミナー」で講演してくださった、前関西聖書学院の大田裕作先生によりますと、最近、ある伝道研究団体が「日本の教会は考え方が硬直化している。これを変えないと衰退に歯止めがかからない」との提言を出したそうです。

 海外のプロテスタント教会と比べて見られる「硬直した考え方」とは一体何かというと、「日本の教会には、会堂と牧師が必ず必要だ」という考え方のようです。「教えを乞う場所と、教えてくれる人がないと教会は成り立たないという考え方だそうです。

 しかし、これは本当でしょうか?

 海外では、牧師や宣教師が何かの事情でその地を離れなければならなくなったときも、残った教会のメンバーがなんとかして御言葉を語り、伝道しようと試みるそうです。教会として使っていた建物が使えなくなっても、次の場所が与えられるように必死に祈り、そして実際に探すそうです。

(※祖国に帰った私たちの仲間の例)

 日本のクリスチャン、教会には正直こういう粘り強さが欠けていることを素直に悔い改めねばならないと私は感じます。 毎年、教会の解散のニュースが飛び込んできますが、「牧師がいなくなったから教会は続けられない」とか「会堂が古くなって傷んできて、建て替える体力がないから、教会を閉じてしまおう」となるケースが非常に多いそうです。

 教会を成り立たせているのは「会堂と定住牧師だ」というこれまでの固定概念を一旦捨てて、「教会の中心は聖霊のお働きと聖書の御言葉だ」という、ペンテコステに誕生した初代教会の姿・考え方を覚えたいと願います。

 思えば私たち山口信愛教会も、誕生当初「会堂も牧師もない状態」から始まっているのです。最初に種まきをしたケイト・ハーラン女史は牧師ではありません。信徒伝道者です。建物もはじめはありませんでした。ハーラン女史の借りた八坂神社前の家は、周囲からは「英語、裁縫、料理教室」として認識されていました。

 ハーラン女史は英語、裁縫、料理を教えながら、聖書の福音を伝えました。その熱心な証しに心打たれ、洗礼を志す人が12人与えられたため、メソジストの監督「蘭バス」は、シメオン・ショウ宣教師を遣わし、洗礼式が執行されたのです。

 その後、現在の山口信愛教会の原型が形作られるわけですが、このようにもともとは「聖霊に導かれた信徒が、会堂も何もないところでキリストの福音を宣べ伝えた」ことで誕生したのが私たちの教会だ!ということを忘れずに歩みましょう。

 初期の教会の伝道も、そのような形でなされたことを聖書は示しています。今日の聖書箇所の2か所目のⅡテモテ2:1~3の言葉を掘り下げます。

 (※読んでみましょう)

 テモテへの手紙Ⅱは、使徒パウロが記した「最後の書」だと言われています。ローマの牢獄の中から、偽教師の出現などで苦しい状況にあったテモテに宛てた手紙です。このとき、教会はやっとその制度が整い始めたころでしたが、テモテは「エフェソの教会で伝道をしていた」と考えられています。

 1節、3節では「イエス・キリストによって罪赦され、救われた恵みにいつでも堅く立って、苦しみを忍ぶことが勧められています。そしてこの間に挟まれた2節が「非常に大切な教え」なのです。これから2節を掘り下げます。

 ここでは、ただ伝道牧会にあたる「テモテ一人」が忍耐強く、立派なキリストの兵士になればよいのではないことが教えられているのです。後継者育成に力を入れ「群れ全体、神の国全体が成長するように」パウロは教えているのです。

 2節のキーワードは最後に出る「ゆだねなさい」です。自分でなんでもかんでもするのではなく「ゆだねることの大切さ」が教えられます。

 3節でパウロは「わたしと共に苦しみを忍びなさい」と言っています。パウロは「自分の働きを道半ばで止めて、他の人に委ねなければならない苦しみ」を何度も味わってきましたが、それは苦しいけれども結果的に「福音が広がっていくことに繋がった」ことを知っています。テモテにもその経験を伝えようとしているのです。

 では何を委ねたのか、それは2節の最初です。「多くの証人の面前で、パウロから聞いたこと」を指します。この頃まだ新約聖書はありませんので、これは「使徒信条のような信仰告白」だと考えられています。

 これを、自分だけで握らず、「他の人々にも教えることのできる人に委ねなさいということが教えられるのです。特殊能力を持った人に委ねなさいと言われているのではありません。誕生して間もない、教会の信徒たちに委ねなさい、と教えられているのです。

 このように初代の教会は聖書の専門知識をもったり、特別な訓練を受けた人ではなく、産声を上げたばかりの信徒たちに「福音が語られること」は委ねられたのです。この時期が歴史上で一番福音は広がったのですが、それは使徒信条のような形で福音をシンプルにコンパクトに語った、そして事あるごとに「イエスの名で祈った」ことが要因だと考えられています。

 みなさんお一人お一人にも福音伝道は委ねられています。ぜひご自分のシンプルなことばで「キリストの救い」を語っていただきますように。

 最後に今日のもう一カ所の聖書箇所、マタイによる福音書9章35~38節を味わって神学校日礼拝のメッセージを閉じます。 この箇所は「コロナ禍になってから、語られることが増えた箇所の一つ」と言われます。 読んでみます。

 ここから分かること…それは、イエスが寝る間もなくあちらこちらを回って、会堂で教え、神の国の福音を宣べ伝え、病気や患いを癒された…しかし、それでも「群衆は飼い主のいない羊のように弱りはて、打ちひしがれていた」のです。その様子を見て、イエスは深く憐れまれたのです。変わらない現状を嘆かれたのではなく、怒られたのでもなく「深く憐れまれた」「かわいそうに思われた」のです。

 そこで弟子たちに言われたことは「神が働き手を送ってくださるように祈り願いなさい」ということでした。イエスがもっと無理をして働くことではなく、弟子たちが働く量を増やすことでもなく「神が働き手を送ってくださることを願う」ことです。

 祈って働き手を求める…それは人間的な努力で「役に立ちそうな人を探し出してくる」のとはまるで違います。神に祈って与えられた働き人には「神にあって信頼し、委ねることがしやすい」と考えます。

 今のこの世は、コロナのことで多くの人が弱りはて、打ちひしがれています。何を信じていけばよいのか分からなくて絶望している人も多いです。そんな中私たちも、イエスの教えられた通り「祈った上で、働き人を神が与えて下さることを求め、その方に福音を委ねる」ことをしていきましょう。

 それは、ただ他人事のように「神学校に入る人が増えるように祈る」ことではありません。もっともっと広い意味で「福音を委ねられる、次の人が与えられるように真剣に祈る」ことです。その人はみなさんのすぐ近くにおられるかもしれません。まだ教会に来たことのない人かもしれませんし、必ずしも「神学校にいってフルタイムで伝道にあたる教師」ではないかもしれません。もっともっと視野を広げて「今のこの時代に福音を委ねられる人が与えられる」ように祈りましょう。

 各神学校も、フルタイムの献身者の養成所というだけでなく、多くの人が「個人伝道をしていくための拠点」としての働きを広げています。コロナのことで、遠隔地で授業を受けたり、講座を受けたりする手段が広がりました。出版物も充実してきました。ぜひ皆さんも神学校を支えるだけでなく、その活動の恵みを受けていただくようによろしくお願いいたします。「教える側と教えられる側に分かれずに」、皆さん一緒に福音の種を蒔いてまいりましょう。(祈り・黙想)

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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