
1月25日 降誕節5主日礼拝
「愛し、信じ、喜びにあふれる」 隅野瞳牧師
聖書:ペトロの手紙一 1:3~12
(画像が開くのが遅い時は「Reload Document」または「Open in new tab」を押してみて下さい。)
Loading...
本日は、救われて、見えないキリストを信じるすばらしさについて、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉に与りましょう。
1.朽ちず、汚れず、しぼまない天の財産を受け継ぐ。(4節)
2.試練の中でも、キリストを見なくても喜んでいる。(8節)
3.預言者や天使たちが待ち望んでいた救いが来た。(11節)
1.朽ちず、汚れず、しぼまない天の財産を受け継ぐ。(4節)
「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者にしてくださいました。」(3~4節)
ペトロの手紙は、教会に対する迫害が激しくなってきた時代に、小アジアの信徒たちを励ますために記されました。迫害でなくても苦しみは、未来に期待して待ち望む心を奪っていきます。ペトロは苦しみの中にある人々に「生き生きとした希望」、直訳すれば「生きている希望」を語ります。永遠に続き、きよく、枯れることのない、命にあふれた希望です。その希望は死者の中からのイエス・キリストの復活によって、すでに私たちに与えられているのだと。その希望に生かされている信徒たちは、実際に喜びにあふれて信仰を守っていました。主を信じる者は誰でも、そのような人生を送ることができるのです。
神はわたしたちを新たに生まれさせてくださり、私たちは神の命に生かされています。ちょうど赤ん坊が家族の中に生まれてくるように、神を信じた者は神とその家族の中に、新しく生まれるのです。新しい命の誕生という大きな喜びが、天にわきあがります。努力してクリスチャンらしくなったから新しく生まれるのではなく、神の憐れみによります。人は二度生まれることができると聖書は言います。二度目の誕生、それは信仰により神のお与えになる命に生まれることです。すると私たちは父なる神を、天の父とお呼びし祈る者となるのです。
ペトロは、救いの将来的な面について語ります。私たちが地上で持つ希望は、どれも大切な生きる力ではありますが、いつまでも変わらずにあるものではありません。しかし救われて神の子とされた者は、主イエス・キリストの復活によって希望を与えられています。それは天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者とされているという希望です。これは罪赦された者に与えられる復活の命、父なる神とともに永遠に生きる、喜びの交わりです。新しく生まれた者は主イエスの復活の命に生かされていますから、死は私たちに対して何の力も持ちません。
主イエスが捕らえられた時、ペトロは自分を守るために、主を三度知らないと、主と何の関係もないと言ってしまいました。キリストをお守りする、それができなくてもご一緒に果ててもよいと思っていたのにです。そして主イエスは十字架に死なれます。ペトロの絶望はどれほどのものであったでしょう。しかしそのようなペトロが再び立ち上がることができたのは、死者の中から主イエスが復活して彼に出会ってくださり、赦し、新しく生まれさせてくださったからです。復活の主に出会った弟子たちは皆、聖霊を受けて変えられ、迫害を恐れず福音を宣べ伝える教会の歩みが始まりました。十字架の死、人の希望がすべて途絶えたところにも、神は新しい命をもたらすお方です。
新しく生まれるということはまた、神が天に蓄えてくださっている財産を受け継ぐ者とされることでもあります。この世の相続財産はいつかなくなります。また本当の意味では私たちの「所有」とはならず、この体がなければ用いることができません。私たちが本当に受け継ぎ所有することができるのは、神の国において受け継ぐものだけです。ただ神の愛によって救われて子とされた者なのに、私たちは御父が天に備えられた財産を受け継ぐのです。5節で、生き生きとした希望は「終わりの時に現されるように準備されている救い」として表現されています。私たちは主イエスを信じた時にすでに救いに入れられていますが、見える体では救いという天の財産を完全に受け継ぐことはできません。救いは過去一度で終わりではなく、今ここに生かされ、未来に完成していただくものなのです。
新たに生まれる神の救いは、私たちが立派なことをした報酬として与えられるのではありません。弱く神に逆らってしまう私たちであっても、神に向き直る時に、救いは与えられます。本日の箇所ではこのことを憐れみ(3節)、恵み(10節)と表しています。主の憐れみは、私たちの苦しみを見ていることができないもので、罪から私たちを必ず救い出す御業となりました。神が独り子イエス・キリストを私たちのもとに遣わし、御子が私たちの罪の裁きを担って十字架にかかってくださったということです。そして御子はよみがえり、その命を信じるすべての者にお与えになりました。誰であっても、神の子として神と共に生きることができるのです。受け継ぐ」というのですから、自分が蓄えたものではありません。自分の行ってきたことに対する報酬でもありません。に神が備えてくださっているものなのです。
春を待って準備している花たち、親しい人と会えること。あたたかい言葉、病気が治ること、よりよい世界にきっとなるという思い。これがあるから今日も喜んで生きられるというものがあるのは、素敵なことです。しかし変わることのない希望、生きておられるキリストご自身が心の内に住んでくださるなら、何ものにも動かされることはありません。ぜひこの恵みにあずかってください。
2.試練の中でも、キリストを見なくても喜んでいる。(8節)
「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、賞賛と光栄と誉れをもたらすのです。」(6~7節)
次にペトロは、救いの現在的な面について語ります。救われた者が何も問題なく日々をすごせるわけではありません。むしろ神と共に、人と共に生きようとするならば必ず闘いがあり、痛みや重荷を負うのです。ここでは試練が火による精錬にたとえられ、信仰が純粋で強く、主に喜ばれるものとなると言われています。私たちは、神と人を愛する信仰へときよめていただくことが必要です。自分勝手な都合で信じたり信じなかったりするのではありません。主を第一としてお従いするというのはそういうことです。
「試練」は、信仰が合格か不合格かのテストではありません。主にお取り扱っていただく中で罪や不従順が取り除かれ、私たちは用いやすい器に変えられていきます。不純物を取り除き純粋にしていく過程ですから、自分がなくなってしまうことはなく、主が再び来られる時に、最も自分らしい輝きが回復されます。そこにおいて私たちは確かに神の力によって守られることを経験するのです。主が私たちのうちに始めてくださった信仰は、主が責任をもって完成してくださいます。兄姉と祈りを合わせながら、ゴールを楽しみに、信仰の道を自分らしく走りぬきましょう(ヘブライ12:1~2)。
ペトロは信徒たちに、試練がいつまでも続くのではない、天の永遠の御国が待っていると語ります。ペトロ自身もまた迫害の中にあります。けれども先にキリストの希望を知り、将来の希望を主が見せてくださっているから、このように励ますことができるのです。復活の主はペトロに愛をもって臨み、わたしの羊を飼いなさいと新たに召命を与えて、生きた望みを与えてくださいました。自分の信仰が満たされ完成するというだけに留まらず、ペトロは福音を宣べ伝えました。信じる者たちの魂を養う務めを担ったことで、彼は一段と主の恵みを知ったのです。関わる方に主がさまざまな恵みで満たしてくださっていることに気づき、さらに信仰が、愛が、喜びが満ち溢れました。そのような尽きぬ喜びに、私たちも招かれています。
「信仰によって試練を乗り越える」私たちはそれを願いますが、試練を乗り越えなければ証ができないのではありません。現在進行形でいいのです。お一人おひとりが、とても大切な信仰の道を主とともに歩んでいます。変わらないように思えても必ず、きのうより一歩先に進んでいます。神はその過程を尊いものと見ておられますし、実は私たちの周りにいる方も、そのままの私たちに働く主の命を見ておられるのです。私たちは試練の中で自分の内側にあるものに向き合い、神との深いやりとりに入れられます。神への怒り、悲しみをぶつけ、祈れない苦しみの中で、祈られていることを感じます。ぼろぼろの私たちを通して、キリストの命が輝きます(Ⅱコリント4:11)。涙をもって御顔を仰いできた人だけが映し出すキリストの輝きは、誰かの灯となるのです。救われた者の歩みは神の力により、信仰によって守られています。私ががんばって耐えるというのではなく、主が私たちを一切の悪しき力から守り、信仰を保たせ、やがて与えられる天の財産を受け継ぐにふさわしい者としてくださいます。
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」(8節)
ペトロは主イエスと約三年間寝食を共にし、その愛と御力を肌で感じてきました。しかし信徒たちは一度も主イエスを見ていないのに愛し、信じ、言葉に言い表せない喜びに満ちあふれています。彼らは主イエスに霊的に出会いました。救いの御業が成し遂げられて、信仰によって救われる時代に生きているあなたがたは、大きな幸いの中にいるのだとペトロは語ります。
私たちもまた聖霊によって、目で見ることを超えたところで主を仰ぎ、誰よりも「在る」方だと実感しています。主イエスを信じるという時、存在しているかどうかを信じるというのではありません。もちろんそれも含みますが、もっと深い関係の中で、キリストというお方を「わたしの主」と、人格的に信じているかということです。この信仰の内にある時、主は決して私を見捨てることはない、必ず御言葉の通りになる。このお方にゆだねていれば大丈夫、という平安があります。主の真実と御力と愛を私たちは信じます。礼拝や祈り、日々の黙想は主との交わりです。見えないキリストを信じるといいますが、私たちははっきりと聖書を通して神にお会いし、共におられる主を感じることができます。また小さく、助けを必要とする方を愛することを通して、私たちは主を愛するのです(マタイ25:40)。
神の救いは私たちが説明できない、内からあふれるものです。苦しみがある時、かえって集まって祈る時となります。結果がどうであっても主に仕えられたのなら喜びがあります。状況によって奪い去られない、天からいただいた霊的なたましいの喜びを、求めてまいりましょう。
3.預言者や天使たちが待ち望んでいた救いが来た。(11節)
「預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。」(11節)
最後にペトロは、救いの過去的な面について語ります。新約の時代に生きる信徒たちは、旧約の預言者たちが知り得なかったことを知らされました。それは使徒たちによって伝えられた福音です。旧約の預言者たちは、やがて来られる救い主がどのようなお方か、その十字架と復活、昇天、そして再臨について、キリストの霊(聖霊)によって示されていました。人となって来られる前にも、天地創造の時からキリストはおられました。主イエスを信じる者は罪から救われ、永遠の命を得る。この福音は預言者たちにではなくずっと未来の、世界中の人々に告げ知らされるものでした。
私たちもまたこの恵みの時代に生まれ、当たり前のように信仰による救いを受けました。しかし私たちが旧約時代に生きていたとしたら、どうだったでしょうか。新約の時代とどこが違うのしょう。それは主イエスが人として来られていない、そして十字架と復活による救いが成し遂げられていないということです。つまり、どんなに努力しても求めても、自分の罪を取り除き、神と親しく歩むことができない。心の満たしと平安がないのです。どうしたら神の国に入れるのか、永遠の命を実現するのはどなたなのか。
これは私たちが主イエスを信じる前の思いとも重なります。自分がよいと思うことをやっているけれども、何が本当に正しいことかわからない。反省してもまた、傷つける言葉を言ってしまう。どこに助けを求めていいかわからず追い詰められている…。救いの確かさが見えない中で、預言者たちは神の御言葉を追い求め、注意深く調べたのでした。旧約聖書は、罪あるままで神の前に立ち得ない人間の姿がはっきりと描かれます。どうしようもなく罪深く、すぐ神から離れる弱い者。どれほど力があって、神を信じている人であっても、過ちを犯します。神から離れるとこのようになる、そして自分では神のもとに帰る力はないということを、教えてくれます。イスラエルの民の繰り返される罪は、私たちのことなのです。そのことを、自分の罪の部分を見なかったら、どんなに主イエスの救いがすばらしい、信じられないほどの恵みなのかがわからないのです。どれほど主が立ち帰れ、立ち帰れと、民のために心を痛め、御子をどんな思いでお送りになったか、旧約を読む中で示されてまいります。
天使たちまでもこの救いを見たいと願った。それほどの御業が私たちに明らかにされ、手渡されました。神の御子が人となり、罪人のために十字架にかかってよみがえられる。こんな私が救われる、それは天地創造に以上の御業ではないでしょうか。主に感謝し、あらためて救いの恵みを受け止めましょう。この救いをすべての人が受け取ってほしいと、主は旧約聖書全体にわたって預言を与え、備えさせてこられたのです。
この恵みについて神は旧約聖書全体を通して、あなたがたを救うために救い主を送るという約束をお示しになりました(ルカ24:25~27)。旧約聖書にはやがて来られるキリストについて、多くのことが示されているのです。特に具体的な預言はイザヤ書53章を挙げることができるでしょう。ここには主の僕がすべての人のために苦しみを受けて死なれ、それを通して人々が救われて僕が満足することが記されています。聖霊によって目が開かれた者にははっきりと、この僕が主イエスを指しているとわかりますが、そうでない者にはわかりません。解き明かす人が必要なのです(使徒8:35)。ですから聖霊を受けた使徒たちによってこの福音が伝えられたことがとても大切です。それをペトロはここで思い出させ、あなた方も次の誰かのために福音を伝える者となってほしいと願っているのです。
迫害の中にあっても信仰の目で主イエスを見、大きな救いの喜びに満たされて、アジア地方の教会は信仰の火を燃やし続けました。私たちもまた、この喜びで満たされますよう祈ります。困難の中にある方を覚えて祈り、仕える者となりましょう。主に再びお会いする時を待ち望みながら、こんなにも主に愛されていることにただ感謝あふれて、キリストの希望を伝えてまいりましょう。
