「救い主である神」12/8 隅野徹牧師


  12月8日 降誕前第3主日礼拝・聖餐式
「救い主である神」隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書 1:39~56

 

 

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 今日は、「クリスマスの出来事が記された聖書箇所」のうちルカ1章後半の「マリアとエリサベトが会う場面」そしてその後の「マリアの賛歌」を取り上げます。

ここは、先ほどの「子どもメッセージ」の場面の最後にも少し出てきた聖書の場面です。

マリアは、受胎告知の場面で「自分はまだ婚約者ヨセフと一緒に暮らしていない、それなのに子供が生まれるなどということがどうしてありえようか?」と答えます。

それに対して天使は、「マリアの親戚エリサベト」のことをいうのです。「不妊の女と言われていて、もう年を取っているのに、今や妊娠六か月目に入っている」ことを話したのです。そしてマリアはそれに対して、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えました。

天使が告げた言葉が自分に起ることを受け入れた…ように感じますが、ことはそんなに簡単ではありませんでした。天使の言葉を受けたマリアがどのようにして「救い主を産む決心を固めたのか」そして「心の中でどんなことを感じていたのか…」を考えながら、みことばを味わっていただけたら…と願います。

まず39節、40節をご覧ください。

「急いで」とあります。マリアは、エリサベトのもとに急いだのです。

「急いで山里に向かい、ユダの町に行った」とあります。マリアが住んでいるのはガリラヤの町ナザレです。一方で向かった先である「ザカリアとエリサベト夫妻の住むユダの町」と書いてあります。実際どこ町なのかは正確には分かりませんが、しかしザカリアはエルサレム神殿の祭司なのですから、エルサレムからそんなに離れた所ではなかったでしょう。

しかし!ガリラヤのナザレからユダのエルサレムの近くまでというのは、結構な距離です。ちょっと出かける…という感じではなく、数日はかかる徒歩移動での旅だったと予想されるのですが…それでもマリアは出発したのです。

覚悟のいる長旅…そういう意味では、クリスマス物語の「東方の博士の旅立ち」と似ているところがあると私は感じます。

さて…マリアはなぜ「そうまでして」エリサベトに会いに行ったのでしょうか?皆様想像してみてください。 私は大きく2つの理由があったのではないか、と考えています。

1つ目は、「救い主をうみ育てる」というとんでもなく大きな使命」から来るプレッシャーがあったからでしょう。

そして2つ目は…先ほどの子どもメッセージでも話しましたが、結婚を約束しているいいなづけのヨセフに対し「妊娠した」ということを言いだせない…そういう心痛もあったのでしょう。

たとえ「他の男性と関係をもったのではなくて、聖霊の力によって妊娠した」といっても、それを信じてもらえるのは難しい…そんな思いも渦巻いていたことは間違いありません。

そんな悩みの中にいたマリアの支えとなったであろう存在が「親類であるエリサベト」ではなかったでしょうか。神の業は「人間の常識や力を超える…」その目に見えるしるしとして、エリサベトのことが示されたのです。

不妊の女と言われて年をとっていたエリサベトでしたが…神の奇跡によって「こどもを授かった」知らせは親戚のマリアにも入っていたことでしょう。

そしてなによりマリアにとってエリサベトは「ある意味の先輩」だったのです。それは「神の奇跡の業によってこどもの命をお腹の中に宿している…」ということでの先輩です。つまりはマリアがこれから体験しようとしていることを、一足先に体験している唯一かもしれない存在なのです。

だからこそ、その人と直接合って話がしたい…マリアはそのような思いで、エリサベトのもとに急いで出かけて行ったのだと私は理解します。

つづいて41節から45節をご覧ください。

ここで特に注目したいのは43節の言葉です。

「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」という言葉ですが…これは「マリアの胎に宿ったばかりの子が、エリサベトにとっての主である!」とわかっていることの表れなのです。

そのことを示したのは、なんと!「エリサベトのおなかの中にいるの子」洗礼者ヨハネだと聖書は語ります。44節のエリサベトの言葉は「胎内のヨハネがおどった、それは、エリサベトのおなかの中にいる洗礼者ヨハネが、マリアの胎内にいる方がどんな方かを表しているのだ」、つまりは「自分が道備えをする相手である偉大な救い主だ」ということが分かっているのだ…ということが教えられるのです。

そしてエリサベトは、45節の「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」という言葉をいうのです。

さて、46節以下は、いわゆる「マリアの賛歌」ですが、これは45節の「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」というエリサベトの言葉を受けて歌われているものなのです。残りの時間、このマリアの賛歌の大切なところだけをピックアップして語らせていただきたいと願います。

このマリアの賛歌は50節から53節で「社会の変革の実現」の強烈なインパクトのある言葉がならんでいるので、そういう「社会の弱者救済について歌っている詩だ」とよく捉えられます。

 しかし、全体の内容で言うなら「あなたはなんと幸いなのでしょう」とエリサベトにいわれた告げられたマリアが、「そうです、私は幸いな者です」と応答している歌だと言えます。

この「マリアの賛歌」は「マグニフィカート」と呼ばれていますが、その意味は「大きくする」というものだそうです。

つまりは「自分を小さくする、逆に神を大きくする!」ということです。

わたしたち人間は傲慢になりやすい者です。神を大きくせず、自分を大きくし様と生きています。しかし神との正しい関係に歩むためには「自分の小ささを認めてへりくだることが必要」なのです。

48節の言葉にご注目ください。

「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」という言葉の「身分の低い」は「社会的地位が低い」ということよりも「神との関係において、小さな者である自分ということ」の告白だと受け止めたいです。その上で「神と正しく歩めていない小さな私をも神は愛してくださったのだ」という信仰の告白をしているのが48節なのだと理解しましょう。

つまりは、この神の恵みがわかったからこそ!「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」と言っているのではないでしょうか?

マリアの賛歌が教える「幸いな者」は、マタイ5章1節以下の「山上の説教」でのイエス・キリストの教えと同じだと私は捉えます。

「神の前で自分の小ささを認め、身を低くする」

しかし、「その身を低くしたところから、神との関係でも小さな者でしかない、こんな私に神が目を留めてくださった。そして御業のために用いて下さっていることを喜べる者が幸いな者」なのです。50節以下も、このことを教えていると理解します。

53節に「飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」という言葉が出ますが…ここでいう「飢えた人」とは、食べ物が無い人という意味よりも「自分の中に何の富も豊かさも持っておらず、自分で自分を養うことができないと自覚する人」のことをいっています。神に頼り、お願いするしかない…しかしそのような者を神は「憐れみによって養い、育んで下さる」のです。

反対に「富める者」とは…自分が豊かだと思い、自分の持っているものでやっていけると思っている人」のことをいっています。そのような思い上がりは、わたしたち一人ひとりにもあるのではないでしょうか?

しかし、クリスマスにお生まれ下さった「救い主イエス・キリスト」が、そんな私たち心の思い上がりを打ち砕かれ、悔い改めに導いてくださる…その希望が語られていると私には迫ってきました。

私自身、「自分の力に頼り、大きな態度をとっている」ことに改めて気づかされた今日の説教箇所です。マリアも最初は不安でしたし、神の力に頼り切れず、自分の力を頼っていたようにも見えることをお話ししてきました。

しかし!そんなマリアがエリサベトと会い、「自分のそれまでの思いを悔い改めて、自分を小さく低くし、大いなる神にすべてを委ねる」ように変えられたのです。

今日はこのあと「聖餐式」が持たれます。主のご降誕を祝う「クリスマス」を前に、自分の心を小さく低くし、神を大きくする、そのために聖餐式が豊かに用いられることをお祈りします。 (祈り・沈黙)