3月14日説教 ・受難節第4主日礼拝
「救い主を捨てる人々」
隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書23:1~25
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今、教会の暦でいう「受難節」を過ごしております。1年の暦の中でも、とくに「イエス・キリストのご受難」を覚えて過ごす期間に入りました。今朝も、続けて読んでいますルカによる福音書の続きの箇所から、御言葉に聴いてまいりたいと思います。
前回の箇所から今回の箇所の流れを簡単にお伝えします。
先週の箇所22章の47節以下の部分で、イエスはユダの手引きによって近づいていた「宗教的指導者たち」に逮捕されます。その後、彼らが主要メンバーである、イスラエルの最高法院、別の言い方で「サンヘドリン」でイエスは裁判を受けられるのですが、それが全くのでたらめなで、最初から「有罪であること」を決めてかかったような裁判がなされたことが記されていました。そして宗教的指導者たちは、当時イスラエルを統治していた「ローマ帝国の総督、ポンテオピラト」のもとにイエスを連行するのです。そして今回の箇所がはじまります。
中央から派遣されたユダヤ総督はかなり大きな権限が与えられていました。その代表的なものとして「税金を集める権限」と、「人を死刑にする権限」が挙げられます。この二つの権限は支配されているイスラエル人には許されていませんでした。
だからイスラエルの宗教指導者たちは、最高裁判を開いて「イエスをピラトのもとに連れて行った」のです。ピラトによって死刑判決を下してもらおうとしたわけです。彼らは、原告として主イエスをピラオに訴えたのです。
2節をご覧ください。ここに「イエスをローマ帝国に訴える理由」が記されています。
「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」とあります。民衆の扇動、納税の禁止、王と自称する‥そういう「ローマ帝国の体制を揺るがす政治犯」としてイエスを訴えたのです。
けれども4節、ピラトは「わたしはこの男に何の罪も見だせない」との判断を下します。そしてイエスがガリラヤ出身であることを知ったピラトは、イエスをガリラヤ州の領主ヘロデのもとに送って、何ら政治的な罪がないことを証明させようとするのです。
ここの部分から私たちが心に留めたいこととは「責任のがれをする人間の罪深さ」です。
2節で宗教指導者たちが言っている「イエスを訴える内容」は、そっくりそのまま彼らの主張してきた「政策」だったはずです。 ローマ帝国を惑わし、ローマ帝国への納税に反対することも、ローマ皇帝ではない自分たちの民族の王を立てることも、全てそうです。
しかし彼らは、「ローマに対して自分たちがしようとしてきた」ことをすべてイエスになすりつけ、犯罪者として訴えているのです。
ピラトもまた、毅然とした対応ができずに、「ピラトに任せよう」と考えて逃げるのです。
なんとずるいのか!と怒ってしまいそうですが、これがすべての人間のもつ汚さなのです。
つづいて6節~12節を見ましょう。ここではヘロデのイエスに対する尋問が記されています。
ヘロデはピラトからイエスが送られて来たことを喜びました。そのことはとくに8節で見て取れます。ヘロデがイエスを見たいと望んでいたのは、単なる興味本位ではありません。
ルカによる福音書9章では、「ヘロデが首を切って殺した洗礼者ヨハネがイエスとなって復活してきたのだ」とうわさしていることを聞いて「この人はいったい何者だろう」と思い、イエスに会ってみたいと思ったということが記されています。
ヘロデは「恐れている」がゆえに、相手がどのような者か確かめたいと思っていたのでしょう。そして初めてイエスと会うことが叶ったのです。
しかしヘロデがいろいろ尋問したことに対してイエスは何もお答えになりませんでした。もちろん目の前で奇跡もなさらなかったのです。
その結果ヘロデは、11節にあるように、「自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した」のです。
権力者の自分の前で何も答えず奇跡の一つもやらないなんて…と屈辱感を覚えたヘロデは、イエスに対して「王らしく立派な衣を着せてやろう」という侮辱を加えてピラトのもとに送り返したのです。
わがままで自分の欲求を満たすことしか考えていないヘロデは、イエス・キリストと直接会いながらもそこで自分の罪を悔い改められませんでした。 謙り、素直にならなければ、いくら主の前に出ても悔い改めることができない…ヘロデを反面教師として学んでまいりましょう。
そして13節以下では、ピラトのもとにイエスが送り返されてきて、再び裁判が行われるのです。14節、15節ではイエスには罪は見当たらなかったと宣言するピラトですが、その主張を強くはできません。16節にはイエスを「鞭で懲らしめて釈放しよう」と一歩引いたような裁定を下してしまいます。
集められた民衆は、腰の引けたようなピラトに対し、容赦なく怒声を浴びせます。それが18節です。「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫びました。
バラバがどんな人物で、どんな罪を犯したのかは各福音書とも若干違うので確定はできません。しかし一つ言えるのは、このときピラトのもとに詰め掛けていた人たちには「人気があった」ということです。それで「釈放するのはイエスではない!バラバだ!」と叫び続けたのです。
ピラトは改めてイエスを釈放しよう呼びかけますが、人々は「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫びつづけます。最終的に23節、「その声がますます強くなった」ことでピラトは屈してしまうのです。そして24節、25節で彼らの要求どおり、イエスの十字架刑が決まり、バラバは釈放されたのです。
ピラトはイスラエルの民衆に「弱みを握られていた」と言われます。民衆が不満を言い始め、ローマに対して密告されたら失脚してしまう。それだけは絶対に避けたい…そのような保身の思いが「見え見え」です。
弱みを握られると、とたんに弱腰になり、真理さえも曲げてしまう。そして「自分の立場を守るためならば、どんなことだってする」聖書はピラトをそんな人物として描きます。
でもピラトが特別ではありません。十字架に向かって揺れることなくお進みなるイエス・キリストに対して、人間がどんなに弱いのか、改めて胸に刻みましょう。
このように今回の箇所を見てまいりましたが、はっきりといって「善い事」は全く出てきません。それでも今回の箇所から2つ大切なことが読み取れる…そのように私には示されています。
最後にこの「2つの大切なこと」をお話しして、メッセージをとじます。
①つ目が、すべての人がイエスを十字架に追いやった、ということです。
ピラトに対して「十字架につけろ」と執拗に怒声をあげたのはいったいだれでしょう?祭司長たち、長老たち、律法学者たちなど最高法院の議員たちに加え、ピラトが呼び集めた、かき集めた一般人たちです。13節にしか記述がありませんのでその素性はよく分かりません。
聖書は敢えて、こういうぼかした表現をしたのだと理解されています。そのことでイエス・キリストを十字架につけたのは、特定のだれかではなく、すべての「人々」なのだと訴えているのです。そして、その「人々」の中に“あなた”も入っていると読者に語りかけているのです。
ここに登場する当時の宗教指導者たちだけがイエスを十字架につけたわけでなく、イスラエル・ユダヤ人だけが十字架につけたのでもない、もちろんローマ帝国の人々でなければ、ピラトがつけたのでもありません。すべての人間が、神が送ってくださった救い主を受け入れずに、邪魔者扱いし、そして「殺した」のです。
神を邪魔者扱するとき、心には必ず「自己中心的な思い」があります。自分の欲望や憎しみ怒りも、すべてを自分に都合のよいように正当化する。だから本当の救い主にして審判主である神の子が邪魔になるのです。このようなすべての人々の罪の心がこの場面に溢れているのです。
「自分に罪はない」とか「自分の罪があるかどうか、よく分からない」と私たちはよく言いますが、この場面の「人々」のような心は本当にないでしょうか?
説教の後、讃美歌306番の歌詞を朗読で味わいますが、その歌は「あなたもそこにいたのか」です。
「あなたもそこにいたのか。主が十字架についたとき。ああ、いま思いだすと 深い深い罪に
わたしは震えてくる」というのが1番の歌詞です。
一人ひとりが、自分の罪のために、イエス・キリストが十字架に架かってくださったことを改めて覚えましょう。
そして今日の箇所の②つ目の大切なことは、人類の歴史の中で確かにイエス・キリストは十字架に
かかって死んでくださったのだ、ということです。
今日の箇所出てくる人物名のうち、私たちが「毎週」その名を口にしている人がいます。それが「ピラト」、つまり「ポンテオ・ピラト」です。
今日もメッセージのあとに、「使徒信条」を信仰告白として唱えますが、そこに「主は…ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」という文言が出るのです。
なぜわざわざ「ポンテオ・ピラト」という名が出るのでしょう。先ほどお話ししたように、イエス・キリストを十字架につけることを決めたのは「すべての人々」であって、ピラト一人の責任ではありません。
では教会が使徒信条で「ポンテオ・ピラトのもとに」と名を出し続ける理由は何かというと、教会が「イエス・キリストの十字架と復活が歴史上の事実であったことを確かなこととして伝え続けるため」なのです。それで、敢えて「歴史上の実在の人物であり、古代の歴史書にも名が出てくる」ローマ総督ピラトの名を挙げたのです。
使徒信条を通して、罪のないお方であった神の子イエス・キリストが「人間たちが行った身勝手な裁判」によって死刑を宣告され、そして十字架刑に処せられたことを覚え続けているのです。
世の中には、イエス・キリストの十字架と復活を信じないばかりか、この世で実在したことすら信じないでいる人がたくさんいます。そのような中で、私たちは「人類の歴史上に確かに身を置き、十字架に架かって死んで、人々の罪を贖ってくださった」イエス・キリストを救い主だと固く告白し続けましょう。人間の欲望がうずまくこの世にあって、それでも自ら犠牲を負ってまで私たちを罪から救い出そうとしてくださる、キリストに希望を置いて歩んでまいりましょう。 (祈り・黙祷)
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