「教会に与えられる夢」7/23 隅野徹牧師

  7月23日 聖霊降臨節第9主日礼拝・創立記念礼拝
「教会に与えられる夢」隅野徹牧師
聖書:創世記37:1~11

 



 132年前の「教会創立を覚えて礼拝を持つ今朝」は、示されて「創世記37章1節から11節」までを選びメッセージを語ることにしました。

この箇所は「ヨセフが見た夢」について語られた箇所ですが、創立以来、山口信愛教会も、「いろんな夢を神から見させていただき、そこに向かって進んできた」そんな歴史があるのです。

今日は、「神から夢を与えられ、それを通して、整えられたヨセフ」と「神によってビジョンを与えられ、そこに向けて道を整えられた、山口信愛教会のこれまでの歩み」を重ねながら、早速読み進めてまいりましょう。

まず、ヤコブとその息子ヨセフの家庭について、簡単に説明します。

ヨセフはヤコブと妻ラケルとの間に生まれた最初の子でした。ヨセフは長く待ち望まれた子でした。ヤコブともう一人の妻レアとの間には6人の子どもが次々と授けられましたが、ヤコブが愛していたラケルには、子どもが与えられませんでした。

そして、神のみ心が成就した時、ラケルは身ごもり、男の子を生みました。それがヨセフです。そしてラケルはもう一人「ベニヤミン」を生むのですが、その直後、ラケルは亡くなってしまいます。

そのようにして与えられたヨセフを父ヤコブは偏愛するのです。そして、2節で分かるのですが、ヨセフが17歳の頃には、家族全体に不和をもたらす存在となっていたことにことが分かるのです。

兄たちの失敗や悪い行いなどを、父に告げ口していたのでしょう。そのことで家族の中の不協和音はより大きくなっていきました。

3節には、ヨセフは、ヤコブが年を取ってから与えられた子であるので、かわいがって育て、ほかの兄たちよりも贅沢な晴れ着を着せていたと書かれています。

裾の長い着物は労働には不向きです。父ヤコブはヨセフには働かなくてもよいように「えこひいきしていた」という見方もできます。それを見ていた兄たちは父をも憎んだことでしょう。

父のヨセフに対する偏愛が、父親に対する兄たちの憎しみを生み出し、また兄弟同士の分裂を生んでいきます。それは4節で改めて明らかにされています。

このような、歪んだ親子の愛、欠陥だらけの家族が「ヤコブやヨセフの家族」だったわけですが、しかし神はこんな家族をも導かれ、その中で「ヨセフの見る夢」を用いられたのだ…ということを、まず覚えましょう。

さて、今日の中心となる「神がヨセフ見せられた夢」の内容を見てまいりましょう。

聖書では、登場人物たちが見る夢は「明らかに神からの知らせ、啓示である」という形で出てきます。

 私たちは寝ている間にいろいろな夢を見ますが、その夢が「神からのお告げであることは」現在「ほとんどない!」と私は理解しています。

現代の私たちには「旧約に加え新約の聖書」も与えられ、しかも自分の心がけ次第で「簡単に開く」ことが許されています。神の御心は聖書を通して以前より明らかにされています。教会も世界中に出来、礼拝を守ることで「神の御心、啓示」を受けることができています。

ですので、今「わたしたちが寝ている間に見る夢」を通して、神がみ旨が示されるのではないか…と心騒がせるよりも、「夢を見ないほど熟睡し」逆に「神のみ旨を悟るために、しっかりと聖書を読む」ことを大切にしましょう。

今日の箇所ではヨセフの見た夢をとおして、神がご自分のみ心やご計画をお示しになっていますが、大切なのは「どんな方法で示されるか」ではなく「神が、罪や欠けがある私たち人間にも、御心を示そうとして下さること」なのです。

今日の説教題には「教会に与えられる夢」と付けました。山口信愛教会の132年の歩みの中では、「教師にも、信徒にも」様々な幻やビジョンが示されたとことでしょう。後程、ある先達に与えられた「神からの幻」を紹介しますが、いろんな方々が「神から、将来について、この世での現実を超えた希望を、幻という形でしめされ」そして132年もの山口信愛教会の歩むは進んできたのだと理解します。

そのことと「ヨセフの夢を通して与えられた、神の御心」を照らし合わせながら、御言葉を味わいましょう。

まず一つ目の夢である5~8節です。

注目したいのは7節の「畑でわたしたちが束を結わえていると」という言葉です。

ヨセフは父ヤコブから裾の長い着物を着せてもらい、仕事をしなくてもよい贅沢な身分だったはずなのに、この夢の中では「自分が一生懸命に働いている」ことになっています。ここにも、親が年を取ってから生まれ、甘やかされて育った子どものわがままや独りよがりな性格が表れていると言えます。

兄たちは「俺たちは、苦労して肉体労働しているのに、あいつは甘やかされて、働くことさえしていないじゃないか?」と日ごろから思っていたことでしょう。その甘えん坊で、自分に都合のよいヨセフが「自分の束に、兄さんたちの束がひれ伏す夢をみた」と言ってきたので、怒りは頂点に達したことでしょう。

「あの甘えん坊で世間知らずのヨセフにひれ伏すなんて絶対にするものか!」と思っていたでしょう。

しかし、この物語の結末を多くの方がご存じだと思いますが、このヨセフの見た夢は「そのとおりになった」のです。  ただヨセフも兄たちも、神の導きの中で、大きく人格的に変えられるのありますが。

次に2つ目の夢とそれに関連することが、9節から11節に出ます(※よんでみます)

9節にでる、「太陽と月と十一の星」。これはヨセフの両親、それに弟のベニヤミンも含む11人の兄弟たちを指していることは、すぐに分かります。

兄たちと父ヤコブにも、この夢が何を意味しようとしているのか理解できたでしょう。この夢もまた、傲慢で、生意気なヨセフの性格を表していると思って、兄たちだけでなく父親も怒りました。

しかし、このヨセフの見た夢も「そのとおりになる」のです。そのことは後程触れます。

11節に注目しましょう。父ヤコブは「このことを心に留めた」と書かれています。一体何を心に留めたのでしょうか?

それは、兄弟たちだけでなく自分も「怒りを覚えた、ヨセフの見た夢の内容」を「心に留めた」ということです。 つまりは「自分もその夢の内容について、酷い内容だと思う」だけれども「そこに、人間の思いを超えた神の導きがあると感じた」のです。だから「心に留めた」という風に書かれていると理解します。

新約聖書にも似た表現がでます。開かれなくて結構ですが、ルカ2章に、イエスの母マリアが「これらのことを心に納めて、思い巡らせていた」という言葉が2回出るのです。

一つは「イエスを生んだ直後、羊飼いたちが天使に導かれ、イエスを礼拝でき、心が喜びに満たされた」という後にでます。

二つ目は、迷子になったと思ってさがしたら、神殿で学者たちと論じていたという少年イエスの話の最後で、一連の出来事について「これらのことを、全て心に納めていた」という言葉が出ます。

いずれも「マリアには、なぜこのようなことが起こるのか、わからず、不思議でたまらなかった。だけれども!そこに人間の思いを超えた神の導きがあることを感じていた」ということが「聖書のいう心に留める、心に納める」です。

ヤコブも、マリアと同じように「ヨセフがこんな夢をみて、そしてそれをわざわざ言うことで、もともと悪かった家族の仲をさらに悪化させてしまうなんてことが、なぜ起こってしまうのか?不思議でたまらない…」とおもっていたことでしょう。しかしヤコブは、ヨセフの夢に神のご計画が潜んでいることを感じた。だからこそ「心に留めた」のであります。

さて、先ほどから再三繰り返しておりますが、ヨセフの見た夢は、その通りになるのでした。

ヨセフ自身は、この夢に神のみ心はあると気づいてはいなかったでしょうが、また神がどのようにして自分が見た夢を実現に至らせてくださるのかをも全く分かっていなかったのですが、神は確かにヨセフの夢を実現させてくださったということを、わたしたちのあとで読みます。ヨセフが見た夢の実現については42章以下に書かれています。

皆様、詳しくはお家でお読みになっていただければと思いますが、父や兄弟たちが「ヨセフにひれ伏す」ということが実際に起こったのです。

それは、最初に兄弟たちが恐れ、ヨセフ自身も望んだかもしれない「ヨセフが兄たちを支配する。力で押さえつける」ということにおいて実現したのではありません。 そうではなくて!家族皆がいろんな試練を通して、人格的に練られて、「和解し、赦し合う」そのことにおいて実現したのです。

今朝の「創立記念礼拝」において、私たちが「与えられた聖書箇所から感じ取りたいこと」それは私たち山口信愛教会もまた、「ヤコブ、ヨセフの家族のように、神が導いてくださって、ここまで導かれた」ということです。

ヨセフの夢を通して、神が示されたことは「とくに兄たちにとっては」実現してもらったら困るし、起こるわけがない、とおもっていたことでしょう。しかし、全く予想しない形で「導かれ、そして御心がなった」のです。

私たちの教会の歩みも、予想外のことの連続だったと言えるものでしょう。しかし、確かに御心が成ることを覚えていきましょう。

最後に、山口信愛教会の先達の見た「ある幻」を紹介して、メッセージを閉じます。

それは130周年記念誌にも掲載された「日野原善輔牧師の、この教会に来てキリストに出会ったとき」について記されたエピソードについてです。

 当時のわたしたち若者には「出世」とか「成功」という言葉くらいのものが若干の刺激を与えていただけ。わたしたちの前途には何の幻もなかった。

 しかるに、突如「天からくだりし、パン」とでもいうべきか、思いもかけぬ、いのちの糧が、我らのぼんやりした目の前に投げつけられた…」

 私たちの教会の「最初の受洗者」となった日野原善輔牧師が「目の前に天から下りしいのちのパンが投げつけられた」、そのように「幻」のような感じで示されたことは、今のわたしたちの教会の歩みにもしっかりと繋がっています。

 「出世や、財的に豊かになるこの世的な成功」ぐらいしか目標が見いだせなくなっている、今のこの世にあって、「多くの人に、命の糧を提供する教会」として歩みましょう。

 そのためには、コロナのように「思いもかけなかった試練」を通されることがありますが、それでも神を信頼して、日々歩んでいきましょう。(沈黙・黙祷)