「正しくない者も復活する希望」7/7 隅野徹牧師


  7月7日 聖霊降臨節第8主日礼拝・聖餐式
「正しくない者も復活する希望」隅野徹牧師
聖書:使徒言行録 24:10~23

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 今朝は、聖書日課の中から使徒言行録の24章を選びました。ここ数年、ペンテコステの出来事以後の「使徒言行録」の箇所から語る機会がなかったように思いましたので、ここから選ばせていただきました。

使徒24章は、ヨーロッパへ伝道旅行にいったパウロが、エルサレムに戻ったあと、神殿で逮捕され、裁判にかけられて弁明している場面です。

多くのユダヤ人たちにが、キリストを宣べ伝える者となったパウロを「裏切者」として憎しみを覚える中で、当時、イスラエルを統治していた「ローマ帝国」の総督フェリクスのもとで裁判に臨むことになりました。その裁判でパウロが弁明している言葉の中でとくに15節の言葉に注目し、そこと関連のある他の聖書箇所を読んでまいりましょう。

今回の箇所がどんな場面なのか流れをつかんでおきたいと思います。

順番が前後しますが、17節から21節をご覧ください。

ここでパウロが言っているように、パウロはヨーロッパの各地から集めた救援金をエルサレム教会に渡すために、エルサレムに戻ってきました。その際、エルサレム神殿にいって「ささげもの」を携えて礼拝をささげようとのですが、その際ユダヤ人たちは「神殿を汚す者」としてパウロを殺そうとしました。それが大変な騒動になったので、ローマ軍がパウロを逮捕しました。その様子は使徒言行録の21章に記されています。パウロはその後、裁判にかけられるのですが、その裁判の尋問の中で21節にあるように「キリストにあって死者が復活するのだ」ということをとくに訴えてきたのです。

パウロは「何か不正をしていたということなら、目撃したその人自らが総督のもとにきて訴えるべきだ!」といっている通り、逮捕されるようなことは何もやってはいません。

それでも取り調べや裁判は続き、今回の箇所である使徒言行録24章の場面では、イスラエルを統括していたローマ帝国の総督「フェリクス」の前で裁判にかけられています。

今回の箇所のまえの24章1~9節では、パウロを有罪にして抹殺することをたくらんだユダヤ人たちが、総督の前で「お世辞を言って」機嫌を取ったあとで、パウロに対する訴えを述べはじめます。

ユダヤ人たちがパウロを訴え出る理由…それが「パウロは世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしているローマ帝国にとっての危険人物だ」ということだと言っています。

この訴えに対して、パウロが「どう弁明したか」が記されたのが今日の箇所です。

その中でもパウロが「自分のことを話したのが」10~16節の弁明の内容ですが、大枠で言えば次のような内容です。

「自分は決して騒ぎを先導してローマの平和を乱すようなことはしていない」「自分は確かにナザレのイエス・キリストを信じる弟子であるが、それは決して異端的な教えではない」と反論します。パウロは決してローマの政治的な転覆を狙う過激派グループのリーダーではない。むしろローマの法も守っているとともに、訴えてきているユダヤ人と同じように「律法にかなうことと、預言者たちが書いていること」を大切にして生きているのだ、ということを主張しています

この中で、私が中心聖句として皆様にお伝えするのが15節です。説教題にも付けた次の言葉です。

「更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています」。

この言葉ですが、「万人救済」や「無条件での罪の赦し」のことをパウロが言っているのではないと私は思います。それは15節の後半に「この希望は、この人たち自身も同じように抱いております」という言葉が合わせて語られることからも分かるからです。

「この人たち」というのは、パウロを訴えている「ユダヤ人たちのこと」ですが、彼らは「神がユダヤ人たちに与えた律法を守る人は正しい人、守らない人は正しくない人」だと分けていました。彼らが「正しくない人」としてレッテルを貼っていた「律法を守らない人」が復活の命をいただくということは、ユダヤ人たちが絶対に納得しないことです。

では…なぜパウロは「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、ユダヤ人が自分と同じように神に対して抱いてる」ということをいっているのでしょうか?

そのことを皆さんと共に考えてまいりましょう。

ここでパウロは、復活する、復活の命をいただく者はすべての人間だと言わずに「正しい者、正しくない者」と二つの対照的な人に分けて話しています。聖書ではローマ書3章10節ほかで「正しい者はいない。一人もいない」とあるとおり、全ての者が神の前では本来「正しくない者」だと教えます。

ですので、ここでパウロがいう正しい者の復活とは、「イエス・キリストの復活のこと」であると理解しましょう。そのように理解するならば、わたしたちすべての人間は「正しくない者である」のですが、神の子イエス・キリストの憐れみによって、特別に復活の命に与ることができる」ということを言っていると理解できます。

正しくない者の復活…この言葉をパウロは「命をかけて宣べ伝えている」からこそ、裁判の場面の「ここ一番!」という場面で発言しているのです。

しかし、「正しくない者も復活する」というこの言葉は、キリストに出会って、人生観が変えられるまえのパウロの口は「決して出ることのない言葉」だったはずです。   

なぜならば、以前のパウロは「神から与えられた律法を完全に遵守することで、神から正しいと認めていただく」ということに何より熱心でした。つまり他のユダヤ人たちと同じように「正しい人になる」ことを目指し「律法を守っている自分は正しい人」そして「律法を守っていない人は正しくない者」だと、差別をし、裁くのがパウロの人生でした。

パウロは目標に向かって、人一倍熱心に努力や精進を行いました。そのようなパウロの近くに「私を信じることによって、永遠の命を得ることができる」と教えられるイエス・キリストが現れました。

パウロは、イエス・キリストのことを「正しくない者」とみなしていました。それは「律法を軽視する教えを広めている」とパウロの目に映ったからです。

実際のところイエスは「律法を守らなくてよい」とは一切教えられていませんでしたが、パウロは「全くひとりよがりなジャッジ」によって、イエスを「正しくない教えを方々で広める、とんでもない悪人だ」と捉えたのです。    

それで、イエスを救い主として信じる者を迫害するという「罪」を重ねていったのです。

しかし、「自分は正しい者だ」と思い込んで、罪を重ねた「正しくない者であるパウロ」にイエス・キリストはダマスコという町で自ら出会って下さいました。

15節の「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています」というこの言葉は、パウロ自身がイエス・キリストに出会って、「自分が正しい者ではないのだ」と分かってから、本当に彼を支える希望となったことを伝えます。それと同時にこれこそが、すべての人間にとって最大の希望なのだ!ということを伝えようとしているのです。もちろんパウロを訴えているユダヤ人たちにとっても「正しくない者の復活」は希望であるのです。

ただ、このとき多くのユダヤ人は「自分が罪人だと認めようとせず、律法を行うという行為によって復活の命を得ようと、もがいている」とパウロの目には見えていました。。

だから「ユダヤ人たちも、この希望を同じように神に対して抱いている」という言葉を使うことによって、パウロはユダヤ人たちに大切な真理に気づかせようとしたのです。

「あなたがたが得ようとして躍起になっている復活の命は私も追い求めているものと同じだ。ただし、それは正しい者になろうとして与えられるのではなく、自分が正しくない者であることを神の前で認めることがあって初めてえることのできるものだ。あなたたちもそのことに気づいてほしい!」そのような思いを込めて語っていると私は理解します。

結びに、パウロ自身が書いた「他の聖書箇所」を開いてみたいと願います。それは「正しくない自分自身が、正しいキリストによって復活する」ということを述べている箇所です。ローマの信徒への手紙の7章の終わりから、8章前半を味わい、「正しい者も正しくない者も復活するという希望」について深く味わい、メッセージを閉じます。

皆様新約聖書P283をお開き下さい

7章の21節から23節を読みます。

パウロは「善を成そうと思うのだけけれども、いつも悪が付きまとっている」といっています。きっと、キリストに出会い「自分は善をなそうと頑張っていたのだが、頑張れば頑張るほど「悪が付きまとう」という自分自身の姿に気づかされたのです。

法則という言葉が使ってありますが、どんなに気を付けても律法の行いを極めようとすると、必ず、まるで法則のように「罪を犯してしまう」自分だということに気づかされます。24節では「自分は何と惨めな人間なのか」という言葉が出ますが、彼自身、キリストと出会ってから、福音を宣べ伝えるまでの間「どれほど、この自己嫌悪ともいえる負の感情に悩まされたのか…」ということが正直に表れていると感じます。

しかし!同時に「こんな罪人の自分が、キリストによって生かされている、新しく生まれ変わらせていただいている」という思いに満たされたことが表されているのです。

 8章では、「正しい人キリストの復活によって、正しくない者である自分が、復活の命にあずかっている」ということが具体的に語られます。

2節3節には、罪のない「神の子が、私たち人間の罪の身代わりとなるために、十字架にかかって死なれた」ことが書かれています。

 4節以下では「神の子の十字架の死は、律法を完全に守ることができないすべての人間に対して、律法の要求が満たされるためである」ということを教えています。

 そしてこの部分で「最も大切な箇所だ」と私が考える11節の言葉が語られるのです。

(11節を読んでみます)

 どうでしょうか?これが今回の聖書箇所の使徒言行録24章15節の言葉と重なって響いたのではないでしょうか?

わたしたちすべての人間は「正しくない者である」のですが、イエス・キリストの憐れみによって、特別に復活の命に与ることができる」が出来るのです。このことをパウロは裁判の場で「強く証しした」のです。

私たちもこの希望に生きてまいりましょう。 (祈祷・黙想)