「死が滅ぼされる」5/22隅野徹牧師

  月22日 復活節第6主日礼拝
「死が滅ぼされる」隅野徹牧師
聖書:コリントの信徒への手紙 Ⅰ 15:20~34


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 イースターの後、6月5日のペンテコステまでの主日礼拝ではコリントの信徒への手紙一の第15章から聖書のメッセージを味わうことにしています。これまで主に19節までの箇所を皆さんと読みました。

何度かお話ししましたが、この手紙は、色々と問題が起こっていた「コリント教会の信徒たちにむけて」、この教会を開拓した使徒パウロが「何とか神のみ旨に立ち返り、正しい道を歩んでほしい」と愛をもって書き送ったものです。この「書簡全体」から、コリント教会にどんな問題が起こっていたかが見て取れますが、この15章だけでも「その一端」が見て取れます。

今回は20節から34節が聖書箇所ですが、まず後半の29節から34節を読んで、コリント教会に起こっていた問題と、それに向き合ったパウロの苦労を見てまいりましょう。

まず29節をご覧ください。先週学んだようにコリント教会の中に「死者の復活などない」別の言い方で「からだのよみがえり」など無い、と大きな声で叫ぶ人たちがいたことがここから分かります。これに対してパウロは「死者が復活しない。つまりからだのよみがえりが無いのなら、洗礼を受ける意味など全くない!」そのように強く教えています。

コリントの街は栄えた港町である一方で「大変に風紀が乱れた町」として有名でした。32節の2つ目の文をご覧ください。「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」…これは旧約聖書の言葉を引用して、コリントの信徒の生き方の間違いに気づかせようとしたものです。「人生で快楽を与えるものはこの世にいくらでもある」という考え方から「今日を楽しく過ごせればそれでよい。どうせ自分は死ぬ身なんだから…」と考えるような、快楽主義に走った人が教会員の中にいた。そしてその人を震源にして「からだのよみがえり?永遠の命?別にそんなものはいらないよ。」というような感じの意見が教会中に蔓延したと考えられます。             

このコリント教会の荒れた状態に対して、パウロは必死に訴えます。それが33節と34節です。「悪い付き合いをやめて、正気になって身を正しなさい!」そうパウロが強く言う理由は「神から与えられる恵みや約束を無駄にしないように、必ず受けられるように」という愛からなのです。

パウロは「キリストによる罪からの救い、永遠の命」を、数々の危険に遭いながらも「伝え続けたのです。ときには32節にあるように「野獣と戦っているのではないか」と思うほど、激しい攻撃にさらされることもあったのです。

そんな危険な状態にあってまでパウロが伝えたのは「多くの人に、キリストの名によって洗礼を受けてもらい、神の前で罪が赦され、からだがよみがえり、永遠の命をもってもらいたい!」その思いに他なりません。

今この世において与えられている様々な恵みは、「終わりの復活の時に与えられる恵み」とは比べ物にならない、その恵みを一人でも多くの人に伝えるという、神の御心を行うために「死ぬ思いをして」頑張っているパウロの気持ちが溢れているのが29節から34でした。

それでは残りの時間、前半の20節から28節、パウロが「命がけで伝えた、からだのよみがえりの希望」が、どのようなものか、教えられた箇所から学んでまいりましょう。

まず20節から24節の一つ目の文までを読みます。ここには「私達の体が復活する、その順序、秩序」が教えられています。

お分かりいただいたでしょうか?

神は実際、歴史的事実として「死んだキリストのからだを、死ぬことのない復活のからだに変えられる」ことをなさいました。それはまず、ご自分の御子であるイエス・キリストを初穂として復活させるためです。そのことで「私たち一人ひとりに、死の力から救われる希望が与えられる」のです。

その「死の力から救われる、その救い」が待ち望む希望ではなくて「実際に実現するとき」は、23節にあるようにキリスト再臨の時なのです。

その時神は、キリストを信じて死んだ者をすべてよみがえらせます。また来週瞳牧師が語る箇所に掛かれていますが、「キリストの再臨の時にまだ生きている人たちは、生きたまま新しいからだへと変えられる」のです。そして、それから「世の終わりが来る」と24節で教えられます。

さて、今24節の「世の終わりが来る」という言葉を見ました。この言葉「見たくない!聞きたくない!」と思われた方があるかもしれません。 しかしぜひ皆さんに知っていただきたいことがあります。

それは…聖書が語る「世の終わり」とは「世界の滅亡」や「人類の絶滅」のことではありません。そうではなく、むしろ聖書は「神の敵の滅亡のとき」を「世の終わり」と呼んでいます。この世界は滅ぼされるのではなく、神の敵である「悪」から救われるのです。それが「世の終わり」であります。これは聖書の最後に書かれている「ヨハネの黙示録」をはじめ、すべての聖書箇所で一貫されていることなのです。

では、悪がどのような形で滅ぼされるのか…それがおぼろげながら分かるのが、24節の2つ目の文から、28節までです。      

SF映画などが「作為的に描いている終末」とは全く違う、「悪のない世界の到来」そしてそこで生きることのできる「私達の希望」を読み取りましょう。 それでは24節の2つ目の文から、27節までを読みます。

今読んだ箇所には「支配」とか「服従」とか、今戦争がニュースなどで心を痛めている私達一人ひとりにとって「ドキッとする」言葉がでました。 しかし、この世で意味されているところの「支配や服従」とはまるで違います。これは「キリストの支配!」であり、「神がすべてのものをキリストに従わせること!」を言っているのです。

イエス・キリストは愛の救い主です。ご自分を憎む者をも愛され、十字架にかかられるまで「決して復讐することをなさらず、相手が悪から救われるように、徹底的に悔い改めに招かれた」ことを思い出してください。その愛のお方が24節にあるように「この世のすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼして、父なる神にこの世を引き渡される」のです。

今この世は「人間の罪による支配、権威、勢力」が猛威を振るっています。しかし、神は救い主である御子キリストによって、これらのものを「滅ぼし」、キリストの愛による完全な支配へと世を変えて下さる…ということが読み取れます。

そして26節、「最後に死が滅ぼされる」と教えられます。死は「この世において、神に反抗するものの頂点」であります。だから最後の「敵」なのですが、この「神に反する力の頂点である死」が滅ぼされることで、私達は永遠に「死の苦しみを受けない」「永遠のいのちを生きることができる」のです。

ナチスと戦った、ドイツの神学者カール・バルトは「キリストが死を滅ぼす」ということについて次のようにいっています。

「キリストの国の活動の目標は、死を滅ぼすことであります。死は滅ぼされるので、変えられない神的な定めではないのです。キリストにすべてを期待し、「キリストによって死が滅ぼされ、キリストによって神の国で生きられる」それを信じることが信仰の意味であります。

キリストが死に勝利される、死を滅ぼしてくださる、だから私達も「永遠の命をうけることができる」のです。終わりの時の「キリストの勝利」を私たち自身の喜びとして捉えてまいりましょう。                

最後に28節を深く味わって、メッセージを閉じることにします。(※よんでみます)

天地の万物が神の御子キリストに従う時、御子自身も父なる神に従われます。しかしこの「服従」は、抑圧的なものではありません。父なる神と、御子キリストの「深い、相互の愛し合い」に基づいた服従なのです。ですので「服従ではありますが」、実際は「一致である」ことが、後半の言葉から分かります。

「神がすべてにおいて、すべてとなるためです…」

ヨハネ黙示録の最後にも描かれますが、神と人間、そしてすべての被造物が「一体となる」それが終わりの時になされるのです。 すべての者に対し、神ご自身が「全ての者となって一体化する」 愛によって包み込んでくださる!のです。

このように今日は、「この世界を死の支配から救うこと」それが神の究極の目的であることを学びました。そこには「恐怖の支配」ではなく「私達に対する神の愛」があるのです。

キリストのからだのよみがえりは、その世界を救うご計画の先駆けなのです。そのキリストが終わりの時に「死を滅ぼして下さる」のですから、私達は希望を持つことができるのです。死の恐怖に苛まれているこの世にあっても、希望を持つことができる…この素晴らしい知らせを私たち自身もう一度確認し、そして一人でも多くの人に伝わるように祈ってまいりましょう。(祈り・黙想)

 

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