9月1日 聖霊降臨節第16主日礼拝・聖餐式
「清められた人」隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書 11:37~44
(画像が開くのが遅い時は「Reload Document」または「Open in new tab」を押してみて下さい。)
今日、山口信愛教会では敬老会の意味合いをもつ「ぶどうの会」、そしてこれに併せて平和懇談会」を行います。平和懇談会では、いわゆる「戦争」に照らし合わせて平和を考えるのではなく、「老人福祉」という視点から「神にあっての平和」を考える日になることを願っています。
聖書では、老いも若きも、すべての命が「尊ばれる存在」として教えられています。神がイエス・キリストにあって「すべての命に愛を注いでくださっている」、その価値観を教会では大切にします。
そんな今日、9月1日の礼拝では、聖書日課の4つの箇所の中からルカによる福音書の11章37~46節を読むことにいたします。
この箇所はイエス・キリストが厄介な人達に対して「問答をされているだけの場面」に見えますが、実はイエス・キリストがどんなお方なのか、そして「なぜ十字架にかかって死なれたのか」それが分かる箇所であると私は思います。共に聖書の言葉を味わってまいりましょう。
まず37節38節 をご覧ください。ここでは、今回の箇所の言葉が「どんな場面で語られたのか」が読み取れます。前のページの36節より前の部分でイエスは多くの群衆に対して、大切な教えを説いておられました。その最中、まるで「遮るようにして」にファリサイ派の人々は食事に招待したのです。後程触れますが「招待」といよりは「罠にはめるために呼んだ」のです。そのために、攻撃材料を探していたのですが、イエスが食事の前に身をきよめられないことを、攻撃材料にしたのです。
ファリサイ派の人々は、群衆がいる場所、人込みには汚れたものがあると考えていましたので、そういう所に行った後、食事をするときには「自分の身が汚れることがないように」と考え、「身をきよめてから食事をしていた」のでした。
この「身を清めず、食事をしようとしたイエス」に対して、ファリサイ派の人々は不信感をもって「軽蔑」したのです。
はじめてこの場面の聖書箇所を読んだという人は、このファリサイ派の人たちに対して「なんて高飛車なのか!」と思われたのではないでしょうか。
少しファリサイ派の人々とはどんな人たちなのか、を説明させてください。
ファリサイ派というのは紀元前2世紀ごろ形成されたユダヤ教の一派でした。「ファリサイ」とは、律法を守らない一般の人から自分たちを「分離した」という意味といわれます。律法を守ること、特に安息日や断食、施し、宗教的な清めを強調し、厳格に守って生活しようとしていました。
この時代には民衆に大きな影響力をもっていました。しかし、内実はどうかというと「信心深く見せ、立派な人のように見せているだけ」で中身は「自己中心的で欺瞞に満ちた」生き方だったのです。神の子イエス・キリストは彼らの心をすべて見通されていて、彼らに言葉をかけられるのです。
まず順番が逆になりますが42節と43節を見ます。ここでは、その「ファリサイ派の人々」が、実際にどんな悪いことをしていたのかをイエスが明らかにされています。
42節で「ささげ物についてのファリサイ派の罪」を挙げられるのです。収穫物の十分の一を神にささげるという掟は、生活のための職業や土地を持たず、神殿祭儀の奉仕するレビ族の人々を支えるため、また弱い立場にあって「土地を持つことのできない人々を支えるため」に神が与えられたものです。そうして「皆が支え合うことでイスラエルが成長するように」神が望まれたのです。
しかしファリサイ派は、イスラエルのすべての人々に「収入の十分の一」をささげさせることを「絶対的な義務」として教えてまわったのです。その結果「わずかな野菜やハーブ」までも、お金に換算して納めさせました。
このように「決まり通りに納めることだけが先行」したため、「弱い立場にある人を守るという」神から与えられた律法の本質は蔑ろにされました。その結果隣人を愛すように、という神の大切な掟を破ることになったのです。
43節では、「ファリサイ派の驕り高ぶりの罪をイエスが明るみに出されています」
ファリサイ派の人々は「多くの人が集まる広場」で威張っていただけでなく、「神への礼拝」の行われる会堂でも「人々からよく見られる場所」に座ろうとしていたのです。
いま私たちがいる「まさにこの場」は神を礼拝する場です。私達一人ひとりは、着席順などは全くありません。すべての人が神の御前では「優劣はない」のです。しかしファリサイ派はそう思っていませんでした。「自分がすぐれた、立派な人間である」ということを人に認めてもらうことに躍起になっているのです。
そんなファリサイ派の人々にイエスは44節で「人目につかない墓だ」という表現を使われます。「他の人をわからないうちに汚れてしまわせている」その状態に気づいて、「悔い改めてほしい」と考えられ、こんなにも厳しい言葉をいわれたのです。
さて、こんなに「思い上がったファリサイ派の人々」にとって、多くの人々に寄り添う愛の主イエス・キリストは邪魔な存在でした。それで「多くの人々が、その話に聞き入っているのを、まさに邪魔するようにして」下心をもってファリサイ派の人々は、イエスを「食事に招いた」のです。それでもイエスは「揚げ足取りをしてくることもすべてわかった上で」招きを受けられたのです。
そこには「罪人を、なんとか正しい道に導きたい」という「神の子の愛」が見て取れます。結果的にはこのファリサイ派を含む「当時のイスラエルの宗教指導者たちが中心となって」イエス・キリストを十字架につけて殺そうと企てるのですが、聖書は最後の最後までイエスが「自分を貶めようとする者を、厳しい言葉を使ってでも正しい道に立ち帰らせようとした」様子を描いているのです。
さて38節に注目しましょう。案の定という感じで、ファリサイ派はイエスの揚げ足取りをしたことが記されています。
ファリサイ派の人々は、群衆がいる場所、人込みには汚れたものがあると考えていましたので、そういう所に行った後、食事をするときには「自分の身が汚れることがないように」と考え、「身をきよめてから食事をしていた」のでした。
世界の古来の伝統的風習でも「特定の人々に触れると汚れるので、家に入る前だとか、食事の前だとかに、身を清めること」を勧めるものがあります。
しかし、聖書では、とくにイエス・キリストがこの世に来て下さり、歴史を変えて下さったあとの「新約聖書」では、民族や身分に関係なく、すべての人が「平等に尊い命」であり、「どの人が汚れていて、どの人が清い」ということはないのだ、ということを教えています。
もちろん、イエス・キリストも「自分のもとに押し寄せたたくさんの群衆」を、汚らわしい者と思うことはなさりませんでした。愛すべき命として尊んで下さっている…だから身を清めることをされなかったのです。
そしてファリサイ派の人々のクレームを受けて39節と40節でお答えになりました。ここでは「杯やお皿のたとえ」を用いて、彼らの間違いを「愛のうちに」正されるのです。
39節、40節を改めてご覧ください。
この二つの節で教えられていることは大きく2つあります。
一つ目、私たち人間は見える部分である「体の外側」と、見えない部分である「体の内側」から成り立っていることです。それは杯やお皿が「外側と内側に分かれている」のと一緒です。その「二つのうち綺麗でないといけない」のは、いうまでもなく、「内側」です。しかしファリサイ派の人々は、外側はきれいにするが、内側は汚れている、罪にまみれているとイエスは指摘されたのです。
そして一つ:これも当然のことですが、人間の「外側・内側」ともに、全知全能の唯一の創り主である「神」がお造りになったということです。だから神は、たとえ人間には見えない「内側・心」であったとしてもすべてお見通しなのです。
そして「造り主である神の子のイエス」が、「汚い内側をどうやればきれいにできるか」教えられたのが、最後に残した41節です。 この41節が今日の中心的な聖書のことばですので、最後にじっくりと注目してメッセージを閉じます。
41節を読んでみます。
ここで教えられているのは、私達は罪に満ちていて「体の内側、つまり心」は汚いけれど、その心を施すこと、「人に与えることで」内側は清められるのだということです。
つまり分かりやすくどういうことかといと、今日の箇所テーマである「隣人とともに生きることの大切さ」がここで教えられているのです。
とくに私に示されているのは「弱い立場の人々、苦しみを抱える人々と共に生きることで、その人自身の内側も、イエス・キリストに似た者と変えられていくのだ」ということです。
今回皆さんと読んだ箇所では「自分は一般の群衆より清い、優れている」と思い込み、人を見下して高慢の罪を重ねるファリサイ派の人々に対して、人を分け隔てせず、多くの人と共に生き、罪人をも正しい道に立ち帰らせようとなさった「愛の主イエス・キリスト」が対比して描かれているのです。
ファリサイ派の人と同じような心の汚さがある…どうすれば清くなれるのか…そう悩むことも多いのが私たちではないでしょうか。一方で「こんなに汚い私が、他の人と共に生きるなどとんでもない」とか「私の汚い心など、誰かに与えるなんてできない…、そんな余裕はない」と考えるのが普通だと思います。
しかし、自分の罪深さを認めた上で、「神様、こんな汚ない私ですが、周りの人々に愛を届ける器として用いて下さい」と祈り、自分を神の前に差し出したとき、毎日の生活が全く変わる…それは「私の実体験!」として感じていることです。
もちろん、この地上にいる間、私たちは「完全に清められる」ことは叶いません。まだまだ汚い私たち一人ひとりです。
しかし、そんな私たちの心を人に与えよ!多くの人と共に生きよ!と主イエスはお勧めになっているのです。そして「その与える、共に生きる行為を神は用いてくださり、神ご自身が私達の汚い心を清めることがお出来になる」ことをイエスは教えておられるのです。
今日の箇所を折に触れて思いだし、とくに弱さを抱えた人々と共に生きることを通して「自分自身の内側がきよめられること」を祈り求める私たちでありたいと願います。ぜひイエス・キリストにあって「共に生きて」まいりましょう。 (祈り・沈黙)