「生きるとはキリスト」10/6 隅野徹牧師


  10月6日 聖霊降臨節第21主日礼拝
「生きるとはキリスト」隅野徹牧師
聖書:フィリピの信徒への手紙 1:12~26

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 今朝は聖書からのメッセージを語る前にまず、「天に旅立たれた方々のこと」に触れさせていただいたらと思います。

・神武政枝さん

・柳井キミ子さん

そんな「天への旅立ち」を強く感じる今朝の礼拝ですが、ちょうど示された「聖書日課」のうち「天への旅立ち」をパウロ自身が語っているフィリピ1:12~26を選び、語る予定にしていました。 御言葉を味わい、私たちそれぞれにとっての「天での命」を意識しながら、ひととき過ごしましょう。

今日の中心は後半の21節以下です。説教題もここから取っています。まずはこの箇所の背景をお話しし、12節から20節以下を簡単に読んでまいりましょう。

「フィリピの信徒への手紙」は、使徒パウロは牢獄の中で囚われの身となっている時に書かれました。普通であれば自分が牢獄に入れられていて、大変な状態にあるのですから、「弱っている自分を助けて欲しい!!」そんな手紙を書くのではないでしょうか。しかし、パウロは「自分は喜んでいるし、あなた方も喜んで欲しい。」とフィリピの信徒への手紙で繰り返し述べています。

パウロは自らの努力や鍛錬によって「極限の苦しさをも喜びに変えた」のではありません。そうではなく、パウロのこの喜びは神によって与えられたものです。パウロが神に祈り、神と交わりそして神の御心を聞く中で得られた喜びです。喜ぶこと、それは喜べないことを無理やりに喜ぼうとすることではありません。

「自分に与えられているもの一つ一つに対し、神がそれを与えてくださっていることの意味が理解できている」だからこそ、パウロは感謝にあふれ、喜んでいるのだと理解します。

12節から14節では、「投獄」というパウロにとって苦しい経験を通しても「主の業が進んだことを喜んでいる」といっています。どういうことかというと、投獄中のパウロを見張ったり、世話したりする「兵隊や看守たち」が、キリストの福音にふれることができた、ということです。苦しみの中に「神のくすしき導き」を見て取ったからこそ、パウロは喜べたのではないでしょうか。

15節から17節では、「パウロをねたむ人たちによって、福音宣教が前進した」というようなことが書かれています。

これは、どういう意味かというと…パウロの働きの故に自分の影が薄くなったと思っていた人々は、パウロが牢獄に入っている間に「ここがチャンス!」と思い、自分を目立たせようとして、いよいよ伝道に励んだのではないか、と理解されています。

パウロは「自分がねたまれていたこと、そしてある人が目立つための踏み台のような存在になっている」ということを知っても、「結果としてキリストが告げられているのだからそれを喜ぼう!」といっているのです。パウロは、自分がどんなに苦しみの中にあっても、福音が前進することを何よりの喜びとしていたのです。

パウロと状況は違いますが、このことから私にも示されることがあります。それは伝道の難しいといわれる、そして伝道の諸条件が整っているとはいえない地方の山口信愛教会においてそれでも私たちが語り続けること、「主に力をいただきつつ精一杯伝道していくこと」それが都会にある教会のためにもなるということ。それが神の国全体にとって福音を前進させることになるのだということです。

パウロとちがって私にねたみを持って伝道しようと思う人や、山口信愛教会より目立ってやろう!と思って伝道に励む人はいないと思います。

しかし!条件がよいとは言えない教会が、苦しみながら伝道している姿、それはきっと多くの仲間に刺激を与えることができると示されています。

高齢化が進み、若者がいない…という言い訳はできます。しかしたとえ実になりにくいからといって投げ出してはいけないということをこの箇所からも教えられるのではないでしょうか。

たとえ自分たちは苦しい思いをしていても、その苦しむ自分たちの姿を通して、福音の前進があるかもしれない。自分の力で立っていられないけど、必死に神にしがみついている、そうした不恰好な姿を目にした人が主によって心動かされるなら「喜び」なのではないでしょうか。弱さや欠けを持つ「山口信愛教会」をも用いてなされている神様の救いの御業、福音の前進に目を向けていきましょう。

苦しいことの中にも働いてくださる神の業を見ることを通して、「苦しいことにも意味があるということ。究極的には苦難はすべて、福音を前進させるために神が与えられているのだ」という20節までの教えは、このあと21節以下で「自分がこの世を去る」という「ある意味究極といえるの苦しみ」を通しても、神の業がすすむということが教えられます。

最後に今日の中心箇所である21~26節を味わって、メッセージを閉じようと思います。

地上での歩みを終え、天で神と交わりたい、と思っているパウロでしたが、それでも結局は地上において生きることが自分の役割だ、と語っているのです。

21節から23節には「パウロが地上を離れることがのぞましい」といっていますが、しかし24節以降の「地上に止まることが必要」というといっています。

前半は「パウロ個人の思い」が中心になっているのに対し、後半の思いは「フィリピの信徒や、パウロが関わった多くのクリスチャンの仲間」を思ってのことであります。

結果として、パウロは個人的な「早く天に上りたい」という思いよりも、主が生かしてくださるなら兄弟姉妹のためになすべき務めを果たそうと…言う思いのほうが主の御心だと結論づけているのです。

そんな中今回の説教題につけた「生きるとはキリスト。死ぬことも益なのです」という言葉が出てきます。

この言葉の意味はよく誤解されます。勘違いしてはならないのが「生きるか死ぬか」ということは私たちが選べることではない、ということです。それはもちろん神の御手の中にあります。

「生きることはキリストであり」と言われているのは、キリストの救いにあずかることによって、始まる新しい命にあずかって生きる命のことを言っています。キリストが十字架で死なれそこから復活させられた、その救いの命にあずかって生きている命…それはこの地上で終わりではありません。

ここ最近、天へ旅立った「私たちの教会の仲間」も、この地上で「キリストによって生きられた」のですが、その続きがあり「まさに今、キリストによって、天で永遠の命を生きておられる」そのことは確かなことです。

そのように、「キリストにあって、痛みや苦しみから解き放たれて、天で神とともに新しい命をいきる」そのことを胸に抱き、この地上をいきることができてこそ「死ぬこともまた益だ」といえるのです。

そして目に見えることだけでなく「死ぬことは益だ」といえることがあります。

それは「罪との戦いであるこの地上の生」を終えること時、それは同時に「新しい命に生かされることによって、罪に死んでいくこと」が意味されているのです。

パウロは、この地上で命があたえられている間は「キリストを共に信じる仲間と協力していきる。そのことで神の業をすこしでも手伝いたい」と望んでいます。しかし、一方で望んでいるのは「自分自身の罪が滅ぼされていき、キリストの命にあずかって新しく生かされる」ということなのです。

単に「別の命が与えられる。2回生きられるから、それを望んでいる」といっているのではないのです。

そうではなくて、キリストによって、罪赦され、義とされる、その完成が「地上を去って、天に行く時だ」と理解しているからこそ「生きることはキリスト、死ぬことも益だ」と言っているのです。

聖書は「神からいただいた命に感謝し」また「キリストによって示された見返りなく愛するアガぺーの愛」に応答し、日々を大切に歩むことを奨励しています。

自分が死ぬことによって得られる「天での永遠の命」はもちろん素晴らしいものです。しかし、苦しみやかけがありつつも「与えられた命」を生きることには、神にあって「かけがえのない、貴い意味」があるのです。

しかし!その先に「キリストによって罪から解放され、痛みや苦しみから解放されて、生かされる天の命」があります。だからこそ、苦しみのなかでも「それを望んで生きる」ことが喜びとなるのです。

私たちがこの地上を去る日がいるになるのか、それは誰にも分かりません。

できるだけ長く、愛する家族や友と「助け合って生きていたい。そのなかで、自分にできる神の手伝いをし、神を証したい」と思うのは当然です。しかし、そんな愛する人と地上でずっと一緒にいられるわけではありません。いつか来る別れ…それは最大の「痛みであり、苦しみである」そのことを最近私も改めて感じています。

しかし、そんな「最大ともおもえるような、地上からの旅立ち」も、キリストにあっては「感謝すべきこと」「喜ぶべきことがあう」それを今回の箇所は、私たちに強く、教えています。

どうか、ご自身の旅立ちを見つめるとき、そして「愛する者の旅立ち」に接するとき、今回の聖書の言葉をぜひ思い出していただきたいと願います。(祈り・沈黙)