「祝福が子孫におよぶ」5/26 隅野徹牧師


  5月26日 聖霊降臨節第2主日礼拝
「祝福が子孫におよぶ」隅野徹牧師
聖書:詩編 37:23~40

(画像が開くのが遅い時は「Open in new tab」を押して、PDFダウンロードして早く見る事ができます。)

Loader Loading...
EAD Logo Taking too long?

Reload Reload document
| Open Open in new tab

Loader Loading...
EAD Logo Taking too long?

Reload Reload document
| Open Open in new tab

 今日は、示された「聖書日課」のうち詩編37編の後半を選びメッセージを語ることにしました。神を信じる者に対しての「神からの守り」が語られているように読めます。

神を信じていれば、神が不思議と助けて下さる…そんな風なことが教えられているのかというと、それは違います。もっと深い「信仰の言葉」が歌われているのが、この部分なのです。

この箇所で歌われる「信じる者に与えられる、神の守り」ですが、それは目の前にある現実を超えて与えられる「神の祝福」が伝えられようとしているのです。

詩編37編は、1節で分かるように「ダビデに由来する詩」なのですが、ダビデの人生は「紆余曲折」といえるものです。 感謝なことだけでなく、たくさんの苦しみも悲しも、そして自らも大きな罪を犯して「神に赦しを乞う」という経験をした人です。

祈りを大切にしたダビデでしたが、しかし「祈ってすぐに、苦しい状況が解決した」ということはほとんどなかったのではないでしょうか。それでもダビデは「信じる者に与えられる、神の守り」を自分の信仰告白のようにして歌っているのはなぜでしょうか?

私は、その理解の鍵に「未来」という言葉や「子孫」という言葉を挙げたいと思います。つまり、どういうことかというと、「目の前の現実を超えて、将来的に必ず与えられる、神の祝福」を信じて、「祈りつつ、精一杯生きる」ことの大切さを歌っているのだと私は受け止めました。

「子孫」という言葉も、「直接血のつながった、子や孫」をこえて「自分の後の世代」のこどもたちのことを指していると理解できます。「自分ひとりのこと」だけを祈るのではなく、「苦しみの中でも、自分の後の世代の神にあっての祝福を祈りながら生きる」ことがクリスチャンとして大切だと教えられていると思うのです。

私達山口信愛教会も、「信仰継承」という課題に直面しています。6月には「こどもの日、花の日合同礼拝」をもちますが、山口信愛教会で合同礼拝を持つようになったきかっけは「年長者がこどもと一緒に礼拝をもつことで、信仰継承を大切なこととして考える」ということがあるのだと教えていただきました。

詩編37編は「クリスチャンの歩み」について、いくつもの大切なことを教えられる箇所です。30節、31節では「聖書の言葉を大切にして歩むこと」の大切さが教えられますし、37節付近では「平和の尊さ」についての大切な教えがありますが、今日は「自分の今を超える未来について」とくに「自分のあとの世代のことを本気で考え、本気で神の祝福を祈る」ということに絞って語らせていただきます。

「この教会の未来を支えてくれる人がなかなか育てられていない」そんな現実がある中、皆さんと共に御言葉から大切なことを考えていきたいと願います。

まず今日の箇所の23節から40節で教えられている「主の道を歩む生き方」つまり「クリスチャンの生き方」は、一言でいうなら「試練があっても、神にあって地道に一歩一歩進むこと」が勧められていると捉えられます。

そのことは、今回の箇所の中で「最も有名なみことば」であろう、23節で特に表れていると言えます。「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えて下さる」とあります。 一攫千金や「アメリカンドリーム」のような、人間的に煌びやかに見える道を備えられるとは書いてありません。

主が備えられるのは「み旨に叶った道」であり、その過程において通らされる「プロセスである、一歩一歩」なのです。

これは日本人の多くが勘違いしている「御利益中心の信仰」とはまるで別のものです。 一回お参りし、その後お礼参りをして終わりなのではなくて「地道さが伴う」ものでありますし、結果より過程が大切だ、と学べるのが「神のみ旨に叶った道」なのではないか、と私は思います。

「地道さが伴い、結果より、過程が学べる、主と共に歩む道…」これには、私たちの感覚で「苦しい」と思うことが伴うのは当然です。24節の言葉はそれを表しています。

しかし、同時に「苦難の中での、神の力強い支え」もまた教えられるのです。

神は「道を与えるだけ」で終わらず、「いつもそばにいて支えてくださる」そのことがわかるのです。

私は今までの人生の中で「今にも倒れてしまいそうだ!」と感じるような限界のような苦しみの時、この詩編37編24節のこの言葉によって励まされてきました。「自分は、いまキツイ。倒れ掛かっている。でもまっさかさまには倒れていないではないか!そうだ!神さまが、倒れ掛かっている私を支えていてくださるからだ!」

それを思い出し、倒れ掛かった状態から、なんとか起き上がっていた…そんな経験をしましたが、「主が用意され、主が一歩一歩、ともにいてくださり、大切なことを学びながら進む道」には、「倒れかかる」経験も時にあったのかな…といま振り返って思えます。

まだ若いころには「神を信じて、教会で奉仕していろいろささげている自分がなんでこんなに苦しまなきゃいけないのか」と神に対し、悪態をつくようなことを言った記憶があります。それこそ、今日の箇所の39節、40節のような言葉は、試練が来るたびに「こんなのうそじゃないか!」と不満を言っていたように思います。

「主に従う人の救いは主のもとから来る。災いがふりかかるとき、砦となってくださる方のもとから。主は彼を助け、逃れさせてくださる。」この39節、40節の言葉ですが、今の私は「間違いのない真実な約束だ」と心から言えるようになってきました。

たとえ試練の最中であってもこの思いは変わりません。というか、今の私は嬉しいこともありますが「試練の歩みだ」と自分の日々を感じて過ごしていますが、「神は最終的に私を災いから助け、逃れさせてくださるのだ」と確信を持っていうことができます。

若いころと比べて、なぜ「神による助け、逃れ」を、確信を持っていうことができるようになったのかというと、それは「目に見える現実を超えて、神が与えたもう未来」究極的には「神の国、天の国」が捉えられるようになったからです。

 27節、33節、34節を読んでみます。

主の道を歩むことで私たちは鍛えられて人格的に成長する、それもすばらしいことだけれど、これで終わらない豊かな祝福が約束されているのです。「主の道を歩む人」が特別に、裁かれることなく罪が特別に赦され、そして天国へいくことができる、永遠の命をもつことができるという約束が見て取れます。

若いころは、「天国、永遠の命」というものがどこか「自分のこととして受け止め切れていない」所がありましたが、いまは心からそれを期待し、喜べるようになりました。

このような人生のゴールをはっきりと捉えることができるようになったので、「そのゴールに至る過程で、苦しみがあるのは当然かな」と思えるようになりましたし、「その苦しみの最中も主がお支え下さるのだから、我慢しながら、なんとか一歩ずつ前に進もう」と思えるようになりました。

そしてもう一つ、「自分がいま苦しみから逃げずに地道に頑張ることは、単に自分のことだけに留まらない。この先の世代の人たちの祝福につながるのだ」という確信が与えられるようになったことがあります。これは今日のメインテーマとして、皆さんにお伝えしたいことです。

25節、26節をご覧ください。

ここで語られていることは「神に従う人は、最低限の生活が守られる」などいうことではありません。 実際には、信仰深く健気に「主に従っておられる方々」が、今日食べていくのに苦労されている…という例を私は何度か見ました。実際、これを詠んだダビデも「命を狙われて逃亡せざるを得なくなり、食べ物がなくて困った」経験をしています。

理解のポイントとしては「パンを乞うことがない」のは、その人ではなくて「子孫」、つまりは「後の世代の人々だ」ということを捉えることです。

その人が苦労しつつ、主にあって進む「一歩一歩」は、その後の世代の人の歩みにつながるのだ。ということです。とくに26節の「憐れんで貸し与えた人には、祝福がその子孫に及ぶ」とある言葉は大切です。

神にあって「憐れみ、自分の身を削るようにして貸し与えること」は、その「憐れんで、貸し与えた相手であろう、次世代の人々にとって」祝福が与えられるものだ、ということです。

山口信愛教会も、その歩みは苦しみの連続でしたが、最初に種まきをされた「ケイト・ハーラン女史」からはじまって、ずっと「次世代にこの教会を通して祝福される人のことを思って」苦労を負って下さった方々があるからこそ、今があることを強く心に刻みたいと思います。

自分だけが天国にいければそれで十分。後の世代のこと、未来の教会について「は関心がない…という姿勢の人たちの集まりだったなら、山口信愛教会は133年も続いていないと私は思います。

自分がいま苦しくても「地道に、主の道をあゆむこと」が、のちの世代の祝福につながるのだ、ということは、教会の歴史のバトンを受け継いだ我々の心に強く迫ってくることではないでしょうか。

最後に私、隅野徹が若かったころ、「自分を犠牲にしてでも」次世代の私の祝福のために頑張って下さった方々のことを紹介して、メッセージを閉じます。

私が最初に「イエス・キリスト」に出会うキッカケを作ってくれたのが、近所にお住まいだったアメリカ出身のスプランガー宣教師でした。異国の地の宣教は想像を絶する厳しさだっただろう…と今は思うのですが、一週間に一度、私の英語の宿題を教えてくださりつつ「バイブルスタディー」のときを持ってくださいました。その後、様々な事情があってアメリカに帰国なさったスプランガー宣教師は、私達が洗礼を受けるのを見届けることはできませんでした。

だいぶたってから、私がクリスチャンとなり私が神学校にいったことを知ったスプランガー宣教師は、共通の知人に対して「わたしの息子をよろしく!」というようなメッセージを残されました。これを聞き、私は「国籍も違い、散々ご厄介になった私を息子と思って下さっているなんて…!」と感激したのを覚えています。

その他、大学時代に通った「インマヌエル名古屋教会」の竿代信和先生・ひろみ先生も大変お忙しい中で、個人的に「霊的な歩みのご指導をくださったご夫妻ですが、名古屋を離れたあと、「自分の子どもたちが真理に歩んでいると聞くほど、嬉しいことはありません。」というヨハネの手紙第三の4節の言葉を、手紙で何度も書き送って下さいました。

実際には主の御心にかなわないこともたくさん行っている私ですが、それでも竿代先生が「自分のこどもたちが真理に歩んでいることが、最もうれしいことなのだ」と、御言葉を通して伝えて下さったことは本当に励ましになりました。

みなさんも、実際の血のつながった家族を超えて「神の家族のこどもたちの祝福」のためにできることをしませんか? 神にあって「憐れみ、自分の身を削るようにして貸し与えること」は、今報われることがないように見えても、「憐れんで、貸し与えた相手や、そこからつながる次世代の人々にとって」祝福が与えられるのだ、ということを覚えて歩んでまいりましょう。 (祈り・沈黙)