2月9日 降誕節第7主日礼拝・信教の自由を守る日・聖餐式
「神に代わって行く者」隅野徹牧師
聖書:イザヤ書 6:1~12
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年に一度の「教会協議会」がおこなわれる今日の礼拝ですが、4つある聖書日課の箇所からわたしはイザヤ書の6章を選びました。
ここは「イザヤが預言者として召された箇所」として比較的有名です。皆さんも「読んだことがある」という方が多いのではないかと思います。私たちが「神によって生かされている意味」が迫ってきますし、牧師だけでなく「教会につながるすべての人々にとって、神に召しだされるとは何なのか」が教えられる箇所です。
先週、シオンの会の例会に出させていただき、あるレジェメを通して皆さんで分かち合いをする、という場面があったとき、私は大変励まされました。それは、「老化のことだったり、体調の不調がありながら」それでも!「神さまに生かされている意味を再確認しながら、毎日毎日、自分にできる最善をなそう」という多くの方の言葉を聞けたからです。
山口信愛教会は、確かに高齢化率が高いのかもしれませんが、それでも「皆さんが神様に召しだされている喜び」を感じ、皆で支え合う教会を目指したいと願います。今日の箇所からは、すでに「心に喜びがある皆様が」さらに!前に進める「エネルギーになりそうな言葉」しかも「時が悪くても、前向きに生きて行けるような言葉」が並んでいます。
1節で分かりますが、イザヤが預言者として活動したのは、ウジヤという「よい王」のあとの時代だと言われています。
ユダの繁栄を取り戻したウジヤ王は、病気のため早めに王を退任し、不信仰なアハズ王の時代となりました。アハズは凶暴な王でしたので、イザヤをはじめ、神に従う者たちはウジヤ王の再起を願っていたと理解されています。しかしウジヤはついに死んでしまった…何か、今の世界情勢とも重なるようにも思えます。
その状況で、神はイザヤに幻を通してお語りになっている、それが6章2節以下の内容です。
私たちがいきるいまの時代も「先が見えない時代」と多くの人が捉えます。キリスト教界でも、多くの教会や「教団、教区」などの団体が「存続の危機」に立たされる厳しい時代です。そのような時代にあって、神は私たちを①「どのように召し」②「どのように用いようとなさっているのか」今日の箇所から、お一人お一人が受け止めていただいたら、と願います。聖餐式もあるために、いつもより短めに語りますが、皆さんの心に「主ご自身がお語り下さるように」祈り願います。
まず1~5節をよみます。皆さんもこの節にご注目ください。
イザヤは、宮殿のなかで王に仕える預言者でした。ウジア王に対して尊敬の念があったことは確かでしょう。しかしアハズに王が変わって「いち人間にすぎない王が権力を振りかざす」そういった虚栄さを感しはじめていたのではないでしょうか。そんな時神は、イザヤが宮殿で祈っているとき「ご自身の栄光の臨在に触れさせた」のです。
天の使いである「セラフィム」が「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。主の栄光は地をすべて覆う」と唱えている!そんな幻を神はイザヤに見させたのです。
イザヤの時代、世の中には、「王の暴挙や偶像礼拝が蔓延」していました。今の社会でも同じことがいえるでしょう。「強権的な指導者が暴挙を行いながら、一部の人間から崇拝されています。その間違った主義主張はSNSなどによって大きな波を起こすような世の中になっています。そして目には見えない神がなおざりにされる一方、数字やデータ、もっといえば「お金」が絶対的なものとして君臨する世の中になっています。
今年は敢えて「信教の自由を覚える礼拝」と銘打ちませんでしたが、戦前とはまた別の形で「信教の自由」が脅かされている時代ということ、はっきりいえば「目には見えない大切なものを信じ、大切にする自由」が脅かされているのだということを、今日、心に留めましょう。「利益ファースト、データ最重視」は、神が与える「本当の自由」を奪う考え方です。私たちなりに、「この悪しき流れに抗う」ことができたなら、と願います。
話が少しそれましたが、イザヤの時代の現実社会は「権力者が権威を振るう、悪しき世の中」になっていましたが、神はイザヤに幻をみせることで「天の上は地上と違うのだ」「神が聖なる神殿に主権者として座しておられるのだ!」ということを示されたのです。
つづいて5~8節です。ご覧ください。
イザヤは「私は唇の汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる」と、正直な思いを口にしています。イザヤ自身、神に仕えようと一生懸命に「義の道を進もうとしていた」のだと思いますが、先ほど見たように「そのときの世は、権力支配と腐敗がすすむ、罪にまみれた社会」でした。そこに身を置く、イザヤもまた「罪にまみれている」ということを正直にみとめたのです。
わたしたちも「自分は良い人間で、正しいことを行っているのだ」と思いがちですが、神の「聖なる御前に心から出る時」にはじめて自分の本当の性質が分かり、そこで神の方に立ち帰ることができるようになるのです。
イザヤが不安や絶望をもちながら「神殿で祈っていたときに、神からの示しがあったように」私たちもまず、礼拝で神の御前にでることで何か新しいことが始まることを覚えていましょう。
さて「謙虚に自分の罪深さや汚れを認めたイザヤに対して」セラフィムが祭壇の上から燃える炭を取り、預言者の口に当てて「これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」」と宣言したのです。
これは神の一方的な恵みによって罪がきよめられ、ゆるされる」業のひな型として示されたと考えられますが、このときイザヤがみた幻は「イエス・キリストの十字架と復活」を指し示していると捉えられるのです。
私たちもこのときのイザヤのように、「まず罪を清めていただく体験」をさせていただいてから「神の愛の証し人」として生かしていただきましょう。謙虚になることなしに「どんなに雄弁にかたっても」神の愛は表されないのではないでしょうか?
このあとイザヤは、「だれを遣わそうか」という神の声を聞きます。それに対して「私がここにおります。私を遣わしてください」と答えたのですが、このやりとりも「自分の罪が赦された恵みを得てから後」なのです。
私たちも日々、「神が罪から救い出して下さったこと」を思い返し、「きよめの恵み」を確認してから、日々新たにあゆみはじめましょう。
最後に9~13節をよんで、メッセージを閉じます。【※ここは大切なので、読んでみます】
神はイザヤに対して委ねられる任務を伝えられるのですが、それは非常に難解なものでした。それは、ユダの民の心をかたくなにさせ、耳を鈍くし、目を暗くさせるということでした。それは自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、悔い改めていやされることのないためだというのです。
本来なら、預言者の語る使信は、民を悔い改めさせ、神に立ち帰るようにするために語られるものであるはずです。それなのに、語れば語るほど結果はその逆となっていく…それは、実に虚しい宣教活動です。
しかし、イザヤは、そのような状況でも神の言葉を語り続けるために召しを受けたのです。
イエス・キリストも仰っていますが、神の言葉は人を「右と左に」二分します。つまり罪が明確にせられます。明確だからこそ!「悔い改めようと受け止め者がうまれ」そして「神のもとに立ち帰ることができる」のです。
これは私たちもいえることですが、神の言葉を伝えようとしたり、証ししたりしても「聞いてくれる人はごく少数」なのかもしれません。それでも!!「キリストの福音に基づいての証しは」、明確に神のもとに立ち帰ろうという思いを起こす方を「少数でも起こして下さるもの」なのです。
そうはいっても、「ほとんどの人が受け入れないと分かっていて、それでも語る」のは大変に「根気のいること」です。イザヤは「主よ、いつまでですか?」つまり「こんな大変なことは、ずっと…というわけにはいきませんけど」との思いを神にぶつけています。
これに対し神は「町々が荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなる時まで」と答えられたのです。それはつまり12節に「主が人を遠くに移される」とあるように「バビロン捕囚がこのあと実際に起きる時まで、語り続けよ」という厳しい内容だったのです。
でもただ厳しいことが語れるのではありません。他のイザヤ書の箇所と同じく「裁きと同時に、救いが語られる」のです。それが13節です。
「それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である」という、この言葉は「イスラエルの中からイエス・キリストが誕生される」という聖なる希望です。
この言葉は究極的に「神の独り子イエス・キリスト」を通して成し遂げられるのです。イスラエルの民たちだけではなくて「全世界の民」が「この世の罪全体から」救い出される、そのことが約束されていると受け取りましょう。
私たち自身は「神に愛されるにふさわしい」とは言えない罪人です。二つに分けられる者のうち「本来は神の言葉を聞かない者」であった私たち。しかし神は一方的な恵みを与え「愛の故に、救い主を送って下さり、特別に罪赦され、救われた」のです。
このことを心に刻みつつ「神の特別な救い、赦し」を証しする者として、「召されている」ことを覚え歩んでまいりましょう。(祈り・沈黙)