「神に近づく道を開くために」3/28 隅野瞳牧師

  

  月28説教 ・受難節第6主日礼拝・棕櫚の主日礼拝
「神に近づく道を開くために」
隅野瞳牧師
聖書:ルカによる福音書23:44~56

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 本日の箇所では、キリストの十字架の死によって、父なる神のもとに帰る道が開かれたことが記されています。3つの点に目を留めて、ご一緒に神の御言葉にあずかりましょう。

1.御子の十字架によって、すべての人が神に近づく道が開かれた。(45節)

2.自分にできる形で、キリストの弟子であることを表す。(52~53節)

3.主イエスと共に、私たちも罪に死に復活の命にあずかる。(56節)

 

1.御子の十字架によって、すべての人が神に近づく道が開かれた。(45節)

 いよいよ、主イエスが十字架の上で息を引き取られる時が来ました。すべての人のための救いが完成する時です。主が十字架につけられたのは金曜朝の9時頃でした。12時になるとあたりが真っ暗になり、その暗闇は主イエスが息を引き取られる3時まで続きました。この闇は全ての人間が神様に背き逆らう罪の中にある、そのことの現れなのではないでしょうか。この闇の中には、人間の生きることを妨げる罪、その命を呑み込もうとする死が横たわっています。

 

 暗闇の中で主イエスが地上の命の最期を迎えようとされていた時、十字架から遠く離れたエルサレム神殿の幕が真っ二つに裂けました。これは、神殿の聖所と至聖所とを隔てていた幕です(レビ16章)。この幕は長さ約13メートルもあり、丁寧に織りあげられていて簡単には破れたりしないものです。人間が裂くのであれば下から上に裂けるはずですが、並行箇所では「上から下まで真っ二つに裂け」(マタイ27:51、マルコ15:38)とあり、神によって裂かれたことが暗示されています。

 

 神殿は誰でも入ることができる庭、ユダヤ人だけが入ることができる庭、さらにその奥に聖所と至聖所が

ありました。聖所には神殿の儀式を司る祭司たちが入ることができましたが、至聖所には祭司長である大祭司しか入ることができませんでした。大祭司は年に一度至聖所に入り、民に代わって神に罪の赦しを祈ります。その聖所と至聖所を隔てるために厚い幕が天井から下げられていました。至聖所には、決められた人が決められた日に、決められた罪の贖いの儀式を経ないと入ることができないのです。民の罪の赦しのためにとりなす大祭司でさえ、神の御前に出る時には自分の罪の贖いのための犠牲をささげねばなりません。罪の赦しと清めを経ずに神の前に出た者には、死がもたらされます。この幕は、罪人である人間が神のみ前に不用意に出て行って死を招くことを防ぐためのもの、人間が神に至る道が閉ざされていることを示すものです。罪ある人間は神と自由に親しく交わりをすることが出来ないのです。

 

 この至聖所の幕が裂けたことは、罪人と神様とを隔て、その交わりを制限するものが主イエスの十字架によって取り除かれたことを表しています。私たちが神のみ前に出る道が開かれ、神との親しい交わりの中に生きることができるようにされたのです。主イエスが私たちの大祭司として、ご自身の血を流して死んでくださったことによって、罪の赦しを得させる贖いが完成しました。「わたしは道である」と言われた主イエスを通る者は誰でも、神に近づくことが許されます。恐れることなく神のみもとに近づき、「アッバ父よ」と祈ることができるのです。

「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ4:16)「19. それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。20. イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」(10:19~20)

 

 時が来ました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」大声で叫び、主は息を引き取られました。この主イエスの死によって、全地を覆っていた闇が消え去ったのです。元の言葉は「息を吐き出した」という言葉です。命の息、霊を渡す神が引き取ってくださるのです。

 「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」というお言葉から感じることは、安息ということであります。主イエスの地上でのご生涯は、神と共にあって平安でしたが、十字架に至るまで悲しみと困難の絶えない日々でありました。しかしこの最期のお言葉には父なる神への完全な信頼と服従が示されています。

 罪とは神との関係が断絶していることです。「神とのつながりがない」それこそが人間の根本にある不安なのです。だから死が恐ろしいのです。しかし私たちが神から離れたにもかかわらず、神は私たちの罪を贖い、主イエスが神を「父よ」とお呼びになるこの関係に入れてくださいました。ですから私たちも、すべてを御父にゆだねることができます。暗闇の中に放り出され最期を迎えるとしても、わたしたちの存在をすべてその御手のうちに引き受けて下さる神がおられます。そして神にゆだねて死なれた主イエスの御業は終わりではなく、むしろそこから新しいことが始まっていたのです。

 

 それは、救いを受け入れるとは考えられないような人々の心が変えられた、ということです。「百人隊長はこの出来事を見て、『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した。」(47節)百人隊長とはローマ軍の一個師団の隊長で、この箇所では主イエスを十字架刑に処するための最終責任者でした。その彼が神を賛美したのです。彼の信仰告白は、異邦人の回心を予告する出来事として記されています。国籍も階層も性別も越えて、イエスを神の子キリストと信じる人は、救いの恵みにあずかるのです。その救いの恵みの最初に、その象徴として主イエスを十字架に付けた異邦人の百人隊長を置いているのです。

 

 48節には、「見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った」とあります。エルサレムにいた人の中には、主イエスが十字架につけられている様子を見ようとゴルゴタにまでやってきた人がたくさんいました。彼らはピラトのもとでの裁判において、イエスを十字架につけろと叫んだ人々であったでしょう。しかし敵意と悪意をもって眺めていた彼らも、主イエスがあのように叫んで息を引き取られたのを見て、自分たちのしたことを悔いているのです。真実に主イエスの十字架の死の姿を見、その言葉を聞く者は、自らの罪を知らされ「胸を打ちながら」、罪の赦しを求めるようになるのです。

 

そしてはっきりとは示されていませんが、神殿の垂れ幕が裂けた出来事は、祭司たちしか知らない伏せられたことだったでしょう。しかしやがて主イエスを救い主と信じる祭司たちが起こされ(使徒6:7)教会に伝えられたと考えられます。どんなにかたくなで神に敵対する者であっても、神の力が働く時には救いが起こります。主の十字架こそ人の心を変える最大の力なのです(Ⅰコリント1:22~24)。

 

2.自分にできる形で、キリストの弟子であることを表す。(52~53節)

 主が息を引き取られたのは金曜日の3時過ぎでした。アリマタヤ出身の最高法院の議員ヨセフは、主イエスのご遺体の引き取りをピラトに願い出ました。律法によれば遺体はその日のうちに葬らねばなりません。特にその時は、日没後になると安息日に入ってしまいます。ローマのしきたりでは、犯罪人の遺体は十字架につけられたまま放置されるのが普通でしたし、議会は主イエスのご遺体を共同墓地か囚人用墓地に葬るでしょう。そうならないためにヨセフは勇気を出してピラトに願い出(マルコ15:43)、主イエスを降ろして亜麻布で包み、自分のために購入した新しい墓に主をお納めしました。並行箇所では同じく密かに主イエスに従っていたニコデモが、没薬と沈香を持って主イエスの葬りに協力しています(ヨハネ19:39)。ヨセフは主イエスの弟子になっていましたが、その時まではユダヤ人の仲間を恐れて、自分の信仰を公表していませんでした(ヨハネ19:38)。彼は「神の国を待ち望んで」いました。主イエスこそ神のご支配という救いをもたらして下さる方だと信じていたのです。

 

 私たちはアリマタヤのヨセフを通して励まされます。私たちの多くは、彼のような状況で信仰をはっきり言い表せない弱さを持っているのではないでしょうか。特別彼が弱い信仰だったというわけではなく、それほど最高法院の圧力は大きかったのでしょう。ヨセフは前の晩の、主イエスを十字架刑に処する裁判には出席していなかったようです。主イエスの裁判は、初めから死刑という判決ありきの不当極まりないものでした。欠席した彼以外、議会は全員で主イエスの死刑を決議しピラトに引き渡したのです(マルコ14:55、ルカ23:1)。私たちにも信仰を表すことができない時があるかもしれません。しかしそこで自分にできる最大限の証は何か、祈って一歩踏み出したいと思います。ヨセフにとっては「議会に同意しない、不当な裁判には棄権する」ということでした。

 

 最高法院も民衆も、主イエスを十字架につけることで一致していた中でそれに反対し、処刑された主イエスを葬るのは大変なことです。ヨセフが心から主イエスを愛していたことが分かります。けれども私たちはそこに、主イエスを愛する人間の愛の限界をもまた示されます。これほど主イエスを愛していた彼も、その十字架の死を阻止することはできませんでした。人間にできることは、悲しみ嘆きつつ、主イエスの遺体を丁重に葬ることまでです。すべての御業は、主イエスをよみがえらせたもう御父から来るのです。

 

3.主イエスと共に、私たちも罪に死に復活の命にあずかる。(56節)

 主イエスの十字架から少し離れた場所には、イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従ってきた女性の弟子たちがいました。彼女たちは見物人が帰った後もそこにずっと留まり、墓について行ってその埋葬を見届けました。誰も、主イエスのために何かできたわけではありません。しかし特に女性たちは、この後の埋葬や復活の証人になります。その証言がキリスト教、教会の基礎になりました。弱さのゆえに立ち尽くすしかない私たちであっても、神のなさることを見届け証しするという使命が与えられています。

 

 56節には後半があります。「婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。」これは主イエスの埋葬が行われた日の日没から始まった、安息日のことです。彼女たちの心には、愛する主イエスの死に対する深い嘆きと絶望があったことでしょう。この日は安息の日と言うよりも、無力感の中で主イエスの死を悼み、ひたすら喪に服する日となったはずです。安息日があけたらすぐに香料と香油を持って主のお墓に行き、お体を改めて丁重に葬る。その予定だけが、彼女らの心の唯一の支えだったのだろうと思います。

 

 十字架の死と復活の間の埋葬のことを語っている本日の箇所に、何か積極的な意味はあるのでしょうか。私たちが礼拝において告白している「使徒信条」では、「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)

にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり」とあります。地上では、深い嘆き悲しみの中で主イエスの埋葬がなされ、またそれを丁重にやり直すための備えがなされているその時に、主イエスご自身は陰府に降っておられたのです。旧約聖書では陰府は死者の行く所で、光が届かず、神を賛美することもできず、そのご支配も及ばないところとされていました。主イエスが陰府にまで下られたことは、キリストが陰府の力にも勝利され、もはや陰府のような領域がどこにも存在しなくなったことを意味します。私たちはいかなる苦しみや艱難や絶望的状況においても、なおそこにキリストが共にいてくださることを確信することができるのです(詩編23:4、139:8)。主の十字架なしで復活の喜びに移ってしまうのでなく、私たちは「死にて葬られ、陰府にくだ」られたこの日に、静かに心を向けてまいりたいと思います。

 

 主イエスは死んで葬られました。パウロは、これは教会が受け継ぐべき最も大切な信仰の一つであると言っています(Ⅰコリント15:3~5)。聖餐の制定文にも、「主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」とあります(Ⅰコリント11:26)。永遠の命とは、死なないことではありません。「死んだこと、葬られたこと」があった上での、新しい命です。そして、その命は主イエスの死から、墓から始まったのです。

 

 パウロは洗礼についてこのように語っています。

「4. わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 5. もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。 6. わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。」(ローマ6:4~8)

 

 洗礼は主イエスを救い主と信じて救いにあずかった者が、その信仰の告白としてまた証として受ける礼典であり、キリストと一体になることを意味します。全身を水の中に浸す洗礼によって「罪に死ぬ」こと、水から出てくることによって「新しい命に歩むこと」が象徴されています。キリストは体の命の死以上に、私たちの罪の罰としての死を身代わりに受けてくださいました。キリストの死にあずかる、それは罪に対して完全に死ぬことです。それが「キリストと共に葬られ」と表現されています。完全に死んでいない者を葬ることはできないからです。洗礼を受けるとは、神に背き自分中心に生きていた自分が、神中心に生きるようになることです。私たちは生きるにしても死ぬにしても、神の御心を仰ぎ、ゆだね、従い、神を指し示す者になるのです。

 

 そしてキリストと共に死ぬ者は必ずキリストと共に生きるのです。罪に死ぬだけでなく新しい命を受けて、神と共に生きるようになり、神の子として清められていきます。次週主のご復活を通して、この恵みをいよいよ深く知り喜ぶ者となれますように。そして一人でも多くの方が、神と共に永遠の命の道に歩むことができるよう、感謝をもって仕えてまいりたいと思います。

≪説教をPDFで参照、印刷できます≫

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