「神の国と新しい命」6/2 隅野徹牧師


  6月2日 聖霊降臨節第3主日礼拝・聖餐式
「神の国と新しい命」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書 3:1~15

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 今日は聖書日課の中から、ヨハネによる福音書の3章の最初の部分を選び語らせていただくことにします。ここではイエスが起こす奇跡、別の言い方で「しるし」を通して、「イエスが神の子である」ことを信じつつも、その先の大切な一歩を踏みだすことがなかなか出来ず、「人目を避けるようにして夜に、イエスのもとを訪れる、ファリサイ派の議員ニコデモ」の物語が記されているところです。

この箇所を通して聖書は「イエス・キリストを神の子だと信じ受け入れ、新たに生まれる」とはどんなことなのか…、それを教えようとされる「愛の主イエス」を描いています。

今回の箇所の中心は5節です。説教題もここから取らせていただきました。「だれでも水と霊とによって」生まれなければ、神の国に入ることができない、つまりは永遠の命を得て、天へいくことはできないのだ、ということをイエスは仰っているのです。今朝はこの5節とともに大切な3節、4節に書かれていることに絞って私に示されたことを語らせてください。

先週の野外礼会では、今年のイースターに洗礼を受けた一人の姉妹が「その決心に至るまでの道のり、そして洗礼を受けたあとご自身に起こった変化」などを生き生きと証ししてくださいました。今日の箇所が教える「神によって、新たに生まれ命の輝き」を私もはっきりと見て取れて、本当にうれしく思いました。

キリスト教用語で「新しく生まれる」と書いて「新生」という言葉があります。まさに神の国、天の国に向かっての歩みの「出発点」として、新生を意識すること、感謝することは、その後の歩みにとって「大変大きな意味を持つ」ものだと信じています。

 どうか今朝の礼拝を通して「ひとりひとりが、神にあって新しく生まれる」キッカケについて、また「新しく生まれるために、一生懸命に導かれるイエス・キリストをしっかりと見つめる…」そんなひと時となることを願います。

まず1節2節をご覧ください。先ほどもお話ししましたが、ユダヤ人の宗教的指導者だったニコデモが「ある夜」隠れるようにして、イエスを訪ねて「わたしはあなたが神から遣わされた人であることを知っています」と話しかけたことが書かれています。どうしてニコデモが「そのような行動を取ることとなったのか」それを知るために、この直前の場面で何があったのかを見ましょう。

隣のページの13節からをご覧ください。

イエスは財力のある人など一部の人の礼拝の場であった「エルサレム神殿」において力づくの行動に出られました。それは「すべての人が、財力に関係なく、また国籍に関係なく」神の前に出て礼拝をささげることができるためのものでした。いわゆる「宮清め」のわざです。

23節によると、イエスは宮清めをされた後も「過ぎ越しの祭り」の間中エルサレムに留まり「しるし」をなさったとあります。具体的には病気で苦しむ人々を次々に癒されたと考えられています。それで多くの人が「イエスの名を信じた」というのです。

しかし、これは「単に、イエスを神が不思議な力を授けたお方」として信じるに留まってしまっていたということです。「このお方は神からすごい力を与えられている。だから今ローマ帝国によって苦しめられているイスラエルを救ってくれるに違いない」そう信じたのです。

もちろんイエスは、そうした人間一人ひとりの心をすべてご存知だったことが24,25節で示されます。

この流れでファリサイ派に属する議員だった「ニコデモ」がイエスに「密会しに行った」ことが記されるのです。議員たちは、エルサレム神殿を取り仕切る人たちだったので、ほとんどの議員は2章14節以下でイエスがとった行動に対して怒りを抱くか、もしくはあざ笑うことをしていました。しかしニコデモは違いました。イエスの言動に「神が働かれているしるし」を見て取ったのです。

ニコデモは旧約聖書をよく学ぶなど知識を得ていました。また議員の職にあり、財的にも恵まれていました。しかし、何かが足りないと感じていたのでしょう。「今目の前で自分が見ている現実は人間の罪によって腐敗している。そして自分を含む宗教指導者たちが、保身に走り、神の御心とは離れたことをやっている。そんなこの世から人々を救うために、神が遣わされたのがイエスなのではないか」そのような思いを抱いていたことが想像できます。

さてこれに対するイエスのお答えが3節です。

「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」

このイエスの言葉の意味をニコデモは全く理解できません。ニコデモは「本気で、人間がもういちど母の胎にもどって生まれる」ことを考えたというよりは、年を重ねてきた自分が、「新しく生まれなければならない」と今更言われとも、それは一体どうすればよいのかわからない…」そのような意味で言ったのだと理解します。

「私は今まで、律法を正しく守り、努力もし、重要な仕事も引き受けて隣人を愛してきた。旧約聖書のこともよく理解している。それなのに「生まれ変わる必要」が本当にあるのか?これまでの自分ではだめということなのか?   

 「年を取った者が、どうして生まれることができましょう」というニコデモの言葉は「今さら変われないよ…」という諦めの思いだったり、「私が神の国に入るために、これ以上何か欠けているものが何かあるのかよ…」という抗議の思いを表しているのではないか…今回黙想の過程で、そんなことが示されてきました。

いま敢えて「神の国に入るのに欠けているもの」という言葉を使いましたが、実は私には黙想の中で、今回の箇所とつながる、ある箇所の言葉が示されました。その箇所をあけてみましょう。

皆様新約聖書のP144をお開けください。ルカによる福音書の18章18節以下をご覧ください。

ここにも「議員」が出てきます。そして、今日の聖書箇所の「ニコデモとの対話」と同じく「神の国に入るには、何が必要か」という話が出てくるのです。

そして、先ほどニコデモがそうだったのではないか…とお伝えしたのと同じように、「神の掟についてよく学び、それを実行している」という自負が、この「金持ちの議員にあった」ことが分かります。

そんな彼の心を見通しておられるイエスが掛けられた言葉が22節の「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っているものをすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい」というアドバイスでした。

 前にも礼拝メッセージで語ったことがありますが、このイエスのアドバイスは「無一文になることの勧め」ではありません。そうではなくて「自分はよい人間で、財産もたくさんもっている。自分の人生は安泰だ」と考える「その奢った考えを捨てるため」のアドバイスなのです。

今のままの傲慢な考えの生き方では、神の国に行くことができない。だから、その傲慢さを生む原因となっている「財産」を貧しい人のためにささげなさい。そうすれば「なんでも自分の思う通りになる」という傲慢さから救われて、新しく生きることができるのだ…と教えておられるのです。

また、「すべてをささげよ」ということを考えることを通して「あなたは自分のよい行いをとおして、神の国に行こうと考えているが、それは間違っている。どんな人間であっても、よい行いだけで神の国にいくことはできないのだ」ということを教えておられるのです。

これと同じことをイエスは「ニコデモ」にも教えておられるのです。いまの「金持ちの議員との対話」を心に留めながら、ニコデモへの教えを味わいましょう。 再び新P167をお開けください。

今日の中心である5節をみます。

だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることができない」というこの言葉は、キリスト教の教えの根幹ともいえる大切な教えの言葉です。

3節と比べ少しだけ答えが変わり5節では「水と霊とによって生まれることが必要不可欠だ」という言葉になっています。

イエスは文字通りの水、たとえば洗礼のときに用いる水や、母親の胎内にある羊水について言われたのではないのです。聖書では「水」は「神によって罪がきよめられる象徴」として用いられます。数週前の礼拝でもお話ししましたがヨハネ7章37節以下で「エルサレムのお祭り見学」にきていた人々に対して、そしてヨハネ4章10節でサマリアの女に対してイエスが与えることを約束された「生ける水」が、まさにここでいわれる「生まれ変わるために必要な水」なのです。

そして「霊」とは神・キリストの力の象徴であり、実際に神・キリストのみこころが行われるために働く「力」なのです。

だから…5節の水と御霊によって生まれ変わるとは、私たちの罪にまみれた心が神によってきよめられ、そのきよめられた心に「神・キリストの霊である聖霊が新しく宿って下さる」ことによって、新しい霊的な命を生きる者に変えられる」そのことが神の国に入るためには必要不可欠なのだ、ということが教えられるのです。

ニコデモは、ルカ18章に出た「金持ちの議員」と同じようなところもありますが、違っていることもありました。それは「自分の生き方は正しいのだ。自分に欠けているものは何もない」と思うのではなかった、ということです。

そうではなくて「どこか自分の生き方に疑問を感じ、生き方を変える必要を感じていた…」だからこそ、「救い主ではないか、自分を変えてくれる存在ではないか」と感じたイエスを「夜、こっそりと訪ねて」教えを乞おうとしたのです。

結局、ニコデモはイエスと会ったその日のうちに「イエスを信じ受け入れた」のではないことが、その後ヨハネ福音書の記述から分かります。7章50節では、その時まだ、「ファリサイ派の指導者・議員としての立場」を捨てられないで生きていたことが分かります。

それでもイエスが十字架で死なれた後、多くの指導者たちとは違い「イエスを悼む行動をとった」ことが19章38節以下で分かります。

ここからは聖書には書かれていないことなので、私の勝手な妄想ですが、ニコデモはイエスによって神の国に入ることができたのではないか…と想像します。今日の箇所では、すぐに「自分の罪を認め、イエスを救い主と信じ、霊と水によって新しく生まれる」ことができなかったニコデモですが、しかし今日の箇所の場面が「キッカケ」となって、イエスを慕い続け、十字架の死と復活を目撃した。その後で「新生する日が来た」のではないかと思うのです。

ニコデモが救われていない可能性もなくは無いと思いますが、普通は「ニコデモはイエスとともに神の国にいる。だからこそ、今回の箇所でのやり取りが聖書のみことばとして残っている」と考えるのが自然ではないでしょうか。

 神が「新たな命を授け、生まれ変わらせてくださる」をすぐには信じ受け入れられない、「年を取ったものがどうして生まれることができましょう…」そんな風に疑ってしまう、自分のプライドや「行いによって何かを得ようとする」そういうものでも、イエス・キリストは、「霊と水によって生まれ変わり、神の国に入りなさい」と招き続けてくださるのです。

大切なのは、このときのニコデモのように「自分の生き方を振り返ること」「自分の人生はこのままで良いのだろうか?」と疑問をもつこと、なのではないでしょうか。そこにイエスの招きが届き、愛の導きがなされます。 金持ちの議員のような「自己を絶対化するような思いを、まず捨てること」です。人生に疑問を感じることも時として必要なことだ!ということをニコデモの物語は示しているように思えます。

 なかなか信じることができなかったり、一度信じても「自分が新しく生まれたことを疑ったりする」私達ですが、そんな私達を「信じて、救いに導くために」イエスはこの世に来られ、愛の内に導いてくださっている…そのことを心に刻んでくだされば幸いです。

(祈り・沈黙)