8月18日 聖霊降臨節第14主日礼拝
「私もあなたを罪に定めない」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書 8:1~11
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今日は与えられた聖書日課の中からヨハネによる福音書の8章1節から11節をまでの部分を選び、メッセージを語らせていただきます。
この箇所の主題は、「人間の罪とは一体何か」そして「人間の罪が赦されるとはどんなことなのか」ということです。ノンクリスチャンではありますが、私の司法関係の仕事をしている友人が「聖書の中で最も印象に残る箇所で、自分が仕事に当たる時も思い出す箇所だ」といっています。
皆さんは「自分が罪に定められる」ということは「経験がない」かもしれません。でも、この話が自分から遠く離れた話だと捉えるのではなく、「お一人お一人の内面」を深く見つめる時になることを願っています。読んでまいりましょう。
2節から5節をご覧ください。 イエスが神殿の境内で多くの民衆に対して教えておられた時のことです。いきなり律法学者やファリサイ派の人々が「姦淫の現場で捕えられた女性」を連れてやってきたのです。
姦淫の罪とは…結婚ないし婚約している人が、自分のパートナーではない他の異性と性的関係を持つことです。旧約聖書から一貫して教えられていますが、神は祝福された夫婦関係を保ち、家庭を築いていくことを良しとされます。「姦淫」は、その神にあって祝福されるべき夫婦関係、家庭環境を壊す行為であるために「大きな罪として」定められたのでした。5節にファリサイ派や律法学者たちが言っているように、旧約律法では「姦淫の罪を犯した者は、石で打ち殺されなければならない」とされていたのです。
ただ、この律法は「女性の側だけでなく、姦淫を行った男性も石で打ち殺す」ことが教えられています。この女性と関係を持った男性はどこへ行ったのでしょうか。
逃げた、という説もありますが、その男は最初から「ファリサイ派・律法学者がイエスを陥れるために協力した、共犯者だった」という説もあります。私はそちらではないかと考えています。 そうでなければ、「姦淫の現場」に堂々とファリサイ派・律法学者たちが踏み込むということはできないと思うからです。
そう考えると、この女性は罪を犯した加害者というよりは、「巧妙な罠にはめられた被害者だ」ということができます。律法学者たちは、この女性をつかってイエスを罠にはめようと、質問をしたのです。
次に6節の前半をご覧ください。律法学者やファリサイ派といったは、イエスを訴える口実をなんとか見つけ出そうと躍起になっていた様子が見て取れます。
もしイエスがこの女を赦せと言われたら、「イエスは律法に反することを教えたのだ!」といってユダヤ人の最高法院に訴えようとしたのでしょう。逆にイエスが「この女を石で打ち殺せ」と言われたら、その時はユダヤを支配しているローマ帝国の総督に、「総督の許可なしに人を死刑にせよと言った!」と訴えようとしていたのです。
このように「どちらに答えてもイエスを窮地に陥れることができる…」そのような罠だったのです。
そんな悪意に満ちて近づいて来る者に対してイエスはどう対応なさったのでしょうか?それが6節の後半に記されています。
なんとイエスは、「かがみ込み、指で地面に何か書き始められた」と記されています。何を地面に書かれたのか…これまで多くの説が挙げられてきました。しかし何を書かれたかより「イエスなぜ地面にかがみ込まれたのか」そのお心に注目する方が大事だと考えます。
ここでのイエスの地面に字を書くという行為は「悪意に満ちた問に答えるつもりはない」というお心を表していると理解します。
罠にはめる質問、いわゆる「悪意のある誘導尋問」をしてくる人間は相手にしたくないですし、答えたくないのが普通です。しかし、それでもイエスは「短くて、核心をつく一言を」お答えになったのです。それが7節です。
イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」とおっしゃいました。それだけ言われると8節、再び身をかがめて地面に書き続けられたのです。
イエスの言われた言葉は一見すると「冷徹なことば」のように感じてしまいます。しかし「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」というこの一言によって、自分自身を顧みることにつながったのです。
つまり、何が言いたいかというと、「必殺の一言で、相手を言い負かせた」のではなくて「信仰があるように見せて、実はその心が罪で真っ黒な宗教指導者たち」に対して、悔い改めの機会を与えておられるのです。
9節10節、そして11節の前半には「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい」イエスとこの女だけが残ったことが記されています。イエスは身を起こして彼女に、「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」とおっしゃいました。彼女は「主よ、だれも」と答えました。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」というイエスのお言葉によって、その場は女とイエスだけになったのです。
彼女を石で打ち殺す資格のある者は人間の中には一人もいない、ということがここではっきりと表されています。しかし同時に、イエスは「あなたは罪なんか犯してはいない。気にしないでよい」とは仰っていないことも表されているのです。
「あなたを罪に定めなかったのか」と仰ったり「あなたを罪に定めない」と仰っていることから分かるように、この女性の罪を認めておられるのです。
だまされたのだからこの人の姦淫は別に罪じゃない、とは仰っていません。彼女自身「神のみ心に背き、人をも裏切っている、重大な罪を犯している」ということに目を向けさせておられます。そういうイエスの「神の子としての威厳」、「愛するゆえの厳しさ」に触れて、彼女は「この方こそ、自分を本当に罪に定め、裁くことのできる方だ」ということに気づいたのです。 2
「主よ、だれも」と彼女はこたえています。何気なく見過ごしてしまいそうですが、彼女は目の前に去らずに残られたただ一人のお方を「主」として認めているのです。
「この方と出会うことによって、これまでの自分の犯した罪に気づかされ、新しく生まれ変わろう」という気持ちに導いてもらったから「主」と告白しているのだ!そのように私には迫ってきます。
私達もこの女のように、イエス・キリストを「主」とする告白を心からささげてまいりましょう。そして「この方と出会ったことによって、自分の犯した罪に気づかされ、新しく生まれ変われた」恵みを噛みしめましょう。
残りの時間、11節の後半に注目してメッセージをまとめます。
イエスは女に、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」とおっしゃいました。罪を犯している彼女を裁くことのできるただ一人の主「イエス・キリスト」が、「私もあなたを罪に定めない」と言って下さったのです。
これも、大変に深く、重い意味を持つ言葉です。彼女に対する罪の赦しの宣言の背後には「これを宣言なさったイエスご自身の、十字架の苦しみと死」があるのです。
「あなたの主である私があなたの罪を全て背負って十字架にかかって死ぬ。それゆえに私もあなたを罪に定めない」。それがイエスのお言葉の意味なのです。繰り返しになりますが、主イエスは姦淫など大した罪ではない、とおっしゃったのではありません。姦淫は、人間を男と女としてお造りになり、夫婦が向かい合って共に生きることを祝福して下さった神のみ心に背き、人間どうしの信頼関係を破壊する重大な罪なのです。
しかし!その償いを、神の独り子である主イエス・キリストが十字架にかかって苦しみと死とを受けることによって彼女は新しく生きることができる、そのことを予めお示しになっているのです。「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」というお言葉によってイエスは、「罪の赦しにあずかって生きる新しい人生へ」と彼女を派遣して下さったのです。
私たちはどうでしょうか? 姦淫をしたか、しないかということを超えて「神の御心に背き、人間同士の信頼関係を破壊する」ような罪は日々犯していると言わざるを得ません。
しかし、それでも、今回の箇所の宗教指導者たちのように「自分の罪を棚に上げて、人を罪に定めること」、つまり「人を裁くこと」に精力を使っているのが私たち人間の現実だと思います。
そんな「罪を重ね、人を貶めることばかりして」神の御心に背いてばかりの私たちに対し、この箇所のイエス・キリストのお姿、そして「お言葉」は私たちに、「大切なことを示してくれる」のではないでしょうか。
元々私たちは、罪による滅びへの道を歩んでいました。しかし!神は私たちへの心からの愛によって、独り子主イエス・キリストを与えて下さり、その十字架の死と復活による救いを既に実現して下さっているのです。そのことを改めて心に留めましょう。
その上で「救いの道は既に開かれている」ことを、多くの人に伝えていこうではありませんか。
昨日の「CS遠足」でキリシタン迫害を学びました。
津和野で迫害されたキリシタンたちが、それでもイエス・キリストが主であるという信仰を捨てなかったのは「自分にとって、この方以外に、罪の赦しはない。救いは無い」という信仰にしっかりと立てたからです。
罪深い私たちをそれでも愛ゆえに「救おうとしてくださる」イエス・キリストの愛の招きに応えよう!御子を信じる者となって永遠の命に至る救いにあずかろう! そのように証ししてまいりたいと願います
(祈り・沈黙)