「立ち帰って、生きよ」6/22 隅野瞳牧師

  6月22日 聖霊降臨節3主日礼拝
「立ち帰って、生きよ」 隅野瞳牧師
聖書:エゼキエル書 18:25~32

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本日は主が私たちを、「生きよ」と招いておられることについて、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉に与りましょう。

1. 自分の罪を認めて主に立ち帰るなら、救いを受ける。(28節)

2. 新しい心と霊によって造り変えられた者は、正義と恵みの業を行う。(27,31節)

3. 主はすべての人が生きることを喜ばれる。(32節)

 

本日の箇所は南ユダ王国がバビロンに敗北して、捕囚となった紀元前6世紀頃に、預言者エゼキエルが伝えた主の御言葉です。捕囚の地での生活は、世代が代わるほど長く続きました。若い人たちの間では、「先祖が酢いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く」(2節)ということわざが広まっていました。今自分たちがこんなに苦しんでいるのは、自分たちより前の世代の罪のせいだということです。そして、前の世代が悪いのに自分たちを罰する主は不公平である、という不満も生まれていたのです。

 

1. 自分の罪を認めて主に立ち帰るなら、救いを受ける。(28節)

「それなのにお前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。」(25節)

そのような民に対して主は語られます。主のやり方は正しくないと言うが、自分たちのしてきたことは正しいと言えるのかと。確かに前の世代の人たちが主に背き続けて捕囚を招き、今の世代の人たちは生まれた時から、そこで過ごさねばなりませんでした。家族や国の状況が、人生に影響を与えることはあるでしょう。しかし自分が不幸なのはあの人のせいだと責任を転嫁することで、結局自分をこの不幸の中に置き続けることになります。原因は自分にあるかもしれないのに、それを見ようとしないなら、何も変わりません。

どんな道を歩んできたかに関わらず、福音は信じ受け入れるすべての者を救い、神の子とします。信仰に至るまでには多くの方の祈りと導きがありますが、最終的には神と私の一対一の関係の中で、悔い改めて救いを受け取ります。どんな人でもそこから新しく生きることができます。そして私たちは自分の置かれてきた状況を、神にあってとらえなおすことができます。捕囚の地でユダの民たちは、自らの歩みを振り返り悔い改めました。エルサレム神殿が破壊されることにより、律法中心に礼拝がささげられるようになり、口伝で伝えられていた神の教えやイスラエルの歴史が、体系的に編集されたのです。国の滅亡という危機を通じて、唯一の主を信じ、やがて神が救い主を遣わしてくださるとの希望が強まりました。

「彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。」(28節)

 主が個人の責任の原則をお示しになったのは、人々が自分の罪を認め、悔い改めて生きるようになるためです。これは「あなたは生きる、変わることができるのだ」という神の宣言です。自分も社会も変わるのは無理に決まっている…暗闇に囲まれているとそう感じます。確かに私たちには、変わる力はありません。けれども、私は救っていただかなければならない罪人です、と自覚する者に神が触れて下さって、私たちは生きるのです。

正しいことを行う人は生きる。これは聖書の真理です。18章の前半には、正しい人の子が正しく生きなければ、その子は自分が行った罪のゆえに死ぬとあります。しかしさらにその悪人の子が親の過ちを見て省み、このような事を行わずに正義と恵みの業を行うなら、彼は生きるのです。問われるのは本人の生き方であって、子は父のゆえに死に定められません。

私たちはなかなか、自分の過ちを認めようとしません。ご自分に背いたアダムとエバに主は、「どこにいるのか。」(創世記3:9)と呼びかけます。神はもちろん二人がどこにいるのかをご存じです。自分がどこにいるのかわかっているか、罪と死の中にいるのだと神は示し、それでも彼らが帰ってくることを願っておられるのです。しかしアダムとエバは、自分の罪の責任を他になすりつけてしまいます。

私たちはどうして罪を認めたくないのでしょうか。責められたらどうしよう。償いたくない。自分は正しい人間だ。弱みを見せたくない。甘い汁を吸っていたい…。いろんな思いがありますが、結局弱い自分を守ろうとしているのでしょう。しかし罪を認めることは弱さではなく、むしろ神からいただく強さであり、そこから初めて神との和解、共に生きる命が始まります。

ここで言われている「悔い改め」とは、単に後悔することではありません。自分は神から離れた罪人であると気がつき、このままでは滅びるしかないと認めてそこから離れ、神に立ち帰ることです(ルカ15:11~)。生かしていただけるだけで十分ですと、最も低い僕の思いで弟息子は父のもとに向かいました。しかし父は息子が帰ってきた時に、私の子が生き返ったと、押さえきれない喜びをもって、最もよきもので満たして祝宴を開きました。御父は私たちが立ち帰る時にも同じ愛をもって迎え、天には大きな喜びがあるのです。

神は愛と恵みに満ちたもうお方ですが、同時に聖く義であるお方です。ですから、私たちの罪をそのままにすることはなさいません。神の基準で裁かれるなら、皆滅ぼされるしかありません。しかし神は私たちを愛して独り子を送り、御子が私たちの裁きを十字架で受けてくださることによって、私たちを罪から救ってくださいました。御父の裁きの基準は今も変わっていませんが、ただお一人、自分の罪ではなくすべての人の罪を負われた主イエスによって生かされ、赦されています(イザヤ53:4~5)。神の側の救いの御業は成し遂げられました。救いは神からの贈り物ですから、御子を信じ永遠の命を受け取ることが私たちに委ねられています。

 神に服従しなくても「決して死ぬことはない」と、蛇(悪魔)はエバに言い、その言葉にそそのかされてエバは実を食べ、アダムにも渡しました。そして彼らは神から離れ、霊的に死んだ者となったのです。多くの人が同じ誘惑を受け入れ、主を信じる者さえ、神に従わなくても死ぬことはないと考えてしまうこともあるのです。しかし罪をそのままにして、神から離れているなら、私たちは生きることはできません。一人ひとりが主の御前に悔い改め、救いを受け取りましょう(ローマ6:23)。

 

2. 新しい心と霊によって造り変えられた者は、正義と恵みの業を行う。(27,31節)

「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。」(31節)「しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。」(27節)

「新しい心と新しい霊を造り出せ」は、聖霊によって新しく生まれることを示します。すべての命に「生きよ」と願われる主。体の命を超えた、神とともに生きる命に招かれているということです。自分の罪を悔い改めて救われ新しい心を得たならば、その「新しい心」が「新しい行い」を生み出していくのです。

新しい心と新しい霊が造られる、これはエレミヤ書31:31~に記されている、神が御子の十字架によって立てられる「新しい契約」を表しています。主が御自身の霊を心に授け、主の掟に従って歩めるようにするというものです。生まれながらの人間は神の掟に従うことができない、イスラエルの歩みはそれを表していました。民はモーセによってエジプトから救い出されて神と契約を結び、主に従うことを誓いました。しかし彼らはすぐに主の道からそれ、背き続け、ついに捕囚にまで至ったのです。再びカナンに帰ることができたとしても、以前のままの民であるならば、また同じ道をたどるだけです。そのようなことがないように、神は御自分の霊をお与えになると約束されました。ペンテコステに語られたように、聖霊は信仰によって神の民とされたすべての者の内に住まわれます。そしてキリストの姿に造り変えてくださいます。

ですから27節は、私たちの行い次第で、永遠の命を得るか滅びるかが決まると言うことではありません。条件が整った優秀な人しか救われないのなら、この世の基準と同じです。けれども神は造られたすべての者を愛し、求める者を救い、生かしてくださるのです。

先日香川教会でご奉仕した際、一年前に受洗したYさんの証を聞きました。勤めている会社から、地域住民の迷惑になるので、通勤時に通ってはいけないといわれている道があったのですが、彼はその道をずっと使っていました。主を信じた後、彼はまた同じことをして会社から注意を受けました。今までは、法律に違反しているわけではないと言い返していましたが、その時「クリスチャンになったのに、そんなことをしてはいけない」と神の声が聞こえたのです。Yさんが急に言い返すのをやめたので、会社の人もびっくりしたそうです。そして彼は遠回りになっても、地域の迷惑にならない道を通るようになったのです。彼はきらきらした目で「これは神が心に来てくださったということですね。」と語られ、身近な生活において主とともに生きておられることを見て、私は御名をあがめました。洗礼者ヨハネは人々に、悔い改めたのなら具体的に隣人に愛を行い、悪をやめるようにと勧めています(ルカ3:8~14)。身の周りのことから、主が私たちを通して実を結ばせてくださるよう祈りましょう。

名を呼ばれ、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われたザアカイは、主イエスを迎え入れました。主との関わりの中でザアカイは自らの罪を示され、財産の半分を貧しい人たちに施し、だまし取った物を四倍にして返すことを自分から申し出ました(ルカ19:1~10)。主のもとから失われた者が帰るために、主のほうから来て探し出してくださいます。そして救われた者にはそのしるしが現れるのです。

 福音は犯した罪から立ち返り、主の御心を行なう者へと私たちを変えます。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ロ-マ12:2)世にあって世に流されず、御旨を問いながら、主にお従いして歩んでまいりましょう。

 

3. 主はすべての人が生きることを喜ばれる。(32節)

「『わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる。」(32節)

神は、どうしてお前たちは死んでよいだろうか、と民に向かって語られました。神から離れた生き方は滅びに向かっているのですが、それがわからない。そのような民に、神は「生きよ」と呼びかけられました。私は昔いじめられて追い詰められていた時に、この御言葉をいただいて、生きようと思うことができました。神はあなたに、生きよと言ってくださる。このメッセージを伝えていきたいと願っています。

本日の箇所の「生きる」「死ぬ」は、体の命についてもそうですが、第一には霊の命の状態を表しています。痛ましい戦争が続いています。命を奪うことを正当化し、欲望と憎しみによって動かされる人たちを見ていると、どうしてこのようにしか生きられないのだろう、と虚しさを覚えます。権威ある者の一言によって、どれほどの尊い命が失われてきたのでしょうか。彼らは体としては生きていても、本当の意味で生きているとは言えません。そして私たちの周りにも、むなしいものに心奪われ、どこに向かって生きるのかを見いだせない人が大勢います。神を畏れ永遠の命の希望を抱きつつ、今ある場所にしっかり目を向ける。すべての命が輝いて生きるために、自分の与えられたものを用いていく。それがまことに生きるということです。

主は命と存在の源であり、私たちを生かす方です。「生きる」という言葉は、主なる神の御名ヤーウェ(「わたしはあるという者」出エジプト3:14)と同じ語から派生しています。ですから誰かを傷つけたり命を奪うことは御心に反します。命を育み守ることは、多くの年月と愛の労苦が必要ですが、とても大切な、神が私たちにおゆだねくださった使命です。私たちは神と共に生きる命を知ったのですから、一人でも多くの方がその命に生きられるように御言葉を伝えたい。神はあなたを愛しておられる、あなたがいてくれてうれしいと伝えていきたいのです。

主を信じて洗礼を受ける時、私たちは御子の十字架の死と復活にあずかります。私たちは罪の支配から解放され、キリストと共に生きます。キリストが成してくださったことが、私のしたことと見なされるのです。そして私たちは、「罪に対して死んでいるが、神に対して生きている」(ローマ6:11)という命に変えられます。

 あの人は必ず裁かれなければならない。そんな人が思い浮かぶかもしれません。しかし主はその人さえも、罪を離れて神のもとに帰ってほしいと願われます。犯した罪の償いはしなければなりません。しかし神は処刑される者さえも、立ち帰るならば受け入れたもうのです(ルカ23:40~43)。そして忘れてはならないのが、私も神の御前には「悪人」であることです。

 神の救いの恵みは、私たちにとっては不公平に思えます。けれども自分を神に近く置き、誰かとの間に救いの線引きをすることはできません。本来私たちは、義であり聖なる神の御前に、滅ぼされる者です。しかし主は、立ち帰って生きよ、と救いの手をすべての人に差し伸べられました。それは私たちを生かすために遣わされた御子であります。

私たちが罪を言い表すならばそれを清めようと、主は待っておられます。聖霊による洗礼を受けた私たちは全身が清くされていますが、道を歩くたびに足が汚れるように、日々の歩みの中で罪を犯します。しかし御もとに帰るたびに、主御自身がその汚れを洗ってくださるのです(ヨハネ13章)。悔い改めた罪は拭い去られ、主はその罪を思い出さないと約束してくださいますから、私たちは「あなたは神の子、愛されている者」という聖霊の声を信じて生きることができます。

自分について見えない私たちです。ですから御前にひざまずき、聖書によって心を照らしていただくのです。御言葉によって主に立ち帰り、いよいよ主のご愛の深さを知ることができますように。聖霊が私たちを満たし、主と同じ願いを私たちにも抱かせて、ここからお遣わしくださいますように祈ります。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ福音書3:16)