「給仕してくださるイエスさま」11/20 隅野徹牧師

  11月20日 聖霊降臨節第25主日礼拝・収穫感謝合同礼拝
「給仕してくださるイエスさま」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書21:1~14

Loader Loading...
EAD Logo Taking too long?

Reload Reload document
| Open Open in new tab

Loader Loading...
EAD Logo Taking too long?

Reload Reload document
| Open Open in new tab

 今日は1年に一度の「収穫感謝礼拝」です。大人とこどもがいっしょになってもつこの礼拝は、「とくに毎日与えられる食べ物や、いろんな恵み」について、いっしょに考える時となることを願っています。

今日のお話しの題に「給仕するイエス様」とつけました。

「給仕」って聞いたことがない難しい言葉だ!と感じたお友達もいることでしょう。分かりやすい言葉で言えば「食事のお世話をする」ことです。

イエス様の時代、「給仕の行為」は奴隷がする仕事でした。このように「自分のための食事」ではなく「他の人の食事のために」「自分をすてて他者に奉仕する」ことには「へりくだる」気持ちが必要です。一方で「相手が今なにを欲しがっているか?」など観察する力と具体的に動く勇気が必要なのであります。

このように「当時奴隷がやっていた大変な務め」を神様の独り子であるイエス様がしてくださったことが聖書の中に何度も出てきます。

今日は、その中でも「十字架にかかられたあと、復活されたイエス様が、給仕してくださった聖書箇所、ヨハネによる福音書21章」のお話しを聞きましょう。

 では今日の聖書箇所を順を追ってお話ししますね。

このヨハネ21章の場面はですが、神の子イエス・キリストが復活され、都であるエルサレムで弟子たちに姿を現された「そのあと」の出来事です。弟子たちは再び、復活されたイエス様にあえるとの約束を信じ、エルサレムからガリラヤまで移動しました。

都のエルサレムでは「イエスを殺せ!」と叫び、実際にイエス様を十字架に追いやった人々が、「イエスの弟子たちも許さない!」などということを恐れて、心が苦しかったと思われます。

 弟子たちはガリラヤ湖、別名ティベリアス湖畔にいました。そんなとき、3節にあるように、シモンペテロが「私は魚をとりに出る」といい、他の弟子たちも、一緒にいったことが分かります。                  

「生きていくために食べ物を得にいく目的」かあるいは、命を狙われていると感じながらの生活を「リフレッシュするために」魚を取りに船に乗ったと私は考えます。

しかし、思ったように魚は取れなかったのです。

そして、4節で話が大きく展開します。夜明けの後、ある人が岸に現れたのですが、弟子たちはそれが誰だか分からなかったというのです。

「その人」は、食べ物があるかどうかの心配をします。そして「魚がとれるためのアドバイスをした」のです。

弟子たちは、誰だか分からない、その人のいうことを聞き入れる素直さをもっていました。そうすると、網が破れそうなほどの魚がかかっていたというのです。

この奇跡を通して、 弟子の一人が「あの人は、イエさまスだ!」いうことに気づきます。そして一刻も早く、イエスさまの前に出ようと弟子のペトロは泳いで岸まで行きました。ほかの弟子たちも、急いで岸に戻りました。

 つづいて9節以下の部分を見ましょう。弟子たちが岸に上がると、なんと!

炭火が起こしてあり、数匹の魚が焼かれていてパンが用意されていたというのです。

イエス様は「たった今釣れた魚をこの上で焼きなさい」と言われたのです。

いろいろ辛い思いをかかえ、苦しかったでしたちに「食事を整えてくださった」つまり「給仕してくださる」イエス様。「さあ、朝の食事をしましょう」と声をかけ、みんなで「温かい気持ちで」食事をすることができた、と聖書は教えます。

 このあと、しばらくしてイエス様は「天へ帰っていかれました」が、でも「天の上から」わたしたちを見守り、そして「いろんな方法を通して」私たちに必要な恵みを与えて下さっているのです。

そういうわけで、復活されたイエス・キリストは「今このとき、いろんな悩みを抱えながら生活をする私達に対し」「実際に何をしてくださるのか!」それを教えてくれるのが、今朝読んだ聖書箇所のお話しなのだ!と思います。

神の子イエス様は「私達の今の生活を支えて下さる」のであります。

 今日の箇所では、①弟子たちの食べ物の心配をされるイエスさまの姿が表れています。そして②、ただ心配されるだけでなく、湖の岸から具体的なアドバイスをするなど必要なサポートをされるイエスさまの姿が分かります。

そして何より、自ら食べ物を用意され、火を起こされるなど、食卓を整えてくださった、自分中心ではなく、他の人のことを心から思って「給仕される」イエス様の姿が映し出されているのです。

 これは弟子たちにだけ特別になされるのではありません。直接的な形ではありませんが、私たちがこの地上で生きていくために必要なものを整えてくださり、与えてくださっている、それが「人間となって神の子この世に来てくださった神の子イエス・キリスト」なのです。

 他の聖書を一か所読みます。詩編23:5です。「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる」

私達の人生には「苦しめるもの、悲しみをあたえる者」が必ずあります。しかし、それでも私たちの食卓を用意してくださる方がおられることは、どれだけ大きな希望でしょうか。

私たちも、今日の聖書の場面のように、信仰の目によって「復活された主イエス」を見ることで、日々の様々な営みの中に主がいてくださることを感じましょう。

今日の箇所の弟子たちは「自分の命が狙われている。危険にさらされている」と感じていましたが、それでも神の子イエス様は「愛をもって給仕してくださり、食卓を整えて下さいました。

同じように、今世界では、命の危険にさらされ「実際にどのようにして食べていくのか、生活していくのか」悩み苦しんでいる人が多くいます。でも、天におられるイエス様が「食卓を整えて下さること」そして、このとき弟子達が感じたように「苦しみの中にあっても、イエス様はともにいてくださり、心配りを市、必要をみたしてくださる」ということを感じ、知ることができるように、願い祈ってまいりましょう。

(お祈り)