8月15説教 ・聖霊降臨節第13主日礼拝
「聖霊によって信じ、聖霊によって新たに生まれる」
隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書2:23~3:15
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山口信愛教会の主日礼拝では、続けてヨハネによる福音書を読んでいます。これまで2章の22節までを読み進めましたので、今週は2章23節から3章15節をまでを
ヨハネによる福音書は2章でまず「カナの婚宴の奇跡」が取り上げられました。イエスが「水をぶどう酒に変えられた奇跡」を描いた後、続いての「宮清め」の箇所で、「ご自身こそが神殿に臨在される生ける神である」ことを教えています。イエス・キリストが何者であるかを少しずつ明らかにしたところで迎えるのが、この2章の最後の部分と3章です。ここではイエスが起こす奇跡、別の言い方で「しるし」を通して、「イエスが神の子である」ことを信じた人々のことが記されます。しかし、彼らは「イエスが神の子だ」と信じても、その先の大切な一歩を踏みだすことが出来ていない、そんな様子が描かれるのです。
私たちが「イエス・キリストを神の子だと信じる」そして「救われる、天国に行く」とはどんなことでしょうか?その根本が教えられるのが今回の箇所です。深く読んでまいりましょう。
まず2章23~25節です。ここをご覧ください。
この直前の箇所で、イエスは財力のある人など一部の人の礼拝の場であったエルサレム神殿で力づくの行動に出られました。それは「すべての人が、財力に関係なく、また国籍に関係なく」神の前に出て礼拝をささげることができるためのものでした。
イエスはその後「過ぎ越しの祭り」の間中エルサレムに留まり「しるし」をなさったとあります。具体的には病気で苦しむ人々を次々に癒されたと考えられています。それで多くの人が「イエスの名を信じた」というのです。
しかし、それは「イエスを神が不思議な力を授けたお方」として信じるに留まってしまっていたのです。「このお方は神からすごい力を与えられている。だから今ローマ帝国によって苦しめられているイスラエルを救ってくれるに違いない」そう信じたのです。
もちろんイエスは、そうした人間一人ひとりの心をすべてご存知だったことが24,25節で示されます。
この流れで3章の「イエスとニコデモの対話」に入るのです。ニコデモがどんな人物かは時間の都合もあるので詳しくは説明しません。ヨハネ福音書にはこの後重要な場面でニコデモは登場しますので、お家に帰ったあと、各自で調べてみてください。
今朝は、御言葉にある内容だけを深めましょう。3章1節にはニコデモがファリサイ派に属する議員だったことが記されます。この議員たちは、エルサレム神殿を取り仕切る人たちだったので、ほとんどの議員は2章14節以下でイエスがなさった行動に対して怒りを抱くか、もしくはあざ笑うことをしていました。しかしニコデモは違いました。イエスの言動に「神が働かれているしるし」を見て取ったのです。
2節をご覧ください。ニコデモは仲間の議員の目を恐れたのでしょう。夜にたった一人でイエスのもとを訪ねていうのです。「私には、あなたが神の遣わした教師だということが分かっています!」
ニコデモは旧約聖書をよく学ぶなど知識を得ていました。また議員の職にあり、財的にも恵まれていました。しかし、何かが足りないと感じていたのでしょう。「今目の前で自分が見ている現実は人間の罪によって腐敗している世界だ。神の国とは程遠い気がする」だから「神の国が何なのか、本当の答えを指し示す教師として」イエスを求め、教えを請おうとしたのでした。
さてこれに対するイエスのお答えが3節です。
「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」
直前の2章25節にあるように、イエス・キリストは全知全能の神なので人間心の中をすべて見透かしておられます。ニコデモの心の中もすべてご存知でした。イエスはニコデモの心の中にあるものが、23節に出てきた人々とあまり変わらないことを知っておられます。それはつまり「目に見える形での神の国を到来させてほしい」という願望を持っているという事です。
そんなニコデモに対しイエスは「神の国は、その人が新しく生まれることなしに見ることは叶わないのだ」と。この返答をニコデモは全く理解できません。それで4節「年を取った者が、もう一度母親のおなかに戻って生まれることなどできるはずがないではないか」と嚙み合わない言葉を返すのです。イエスは5節で再びお答えになります。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることができない」
3節と比べ少しだけ答えが変わっています。3節では「新たに生まれる」と言われた言葉が、5節では「水と霊とによって生まれる」になっています。これは明らかに「イエスの名による洗礼によって生まれる新しい命」が、神の国に入るために必須なのだ、ということを教えるのです。
今日の説教題にご注目ください。後ろの方に「聖霊によって新たに生まれる」と付けましたが、皆さん、「洗礼を既に受けておられる方も、そうでない方も」聖霊によって新しく生まれるということがどういうことか自分の中で理解できているでしょうか?
新しく生まれる、別の訳で「再び生まれる」こととは、人が悔い改め、キリストを救い主として受け入れて「洗礼を受ける時」、神の霊である聖霊の力によって「心と性質が全く変化する」ことを意味します。これは自分の力でなそうとして出来ることではありません。ただ神の霊である「聖霊」が自分の内に働くことによってなされるのです。
だから「自分が!自分が!」という自我の思いを捨てて、神・キリストを信じ受け入れてはじめて!心の中に聖霊が入り、そして新しい自分へ変えて下さるのです。聖霊によって新しく生まれるためには、まず神の霊である聖霊が「自分を全く新しくしてくださる力がある」と信じることが必要なのです。私たちも、聖霊の働きを信じ受け入れて、新たにさせていただきましょう。
さて、聖霊によって新たに生まれるということどころか、聖霊の働きがよく分からないニコデモに対し、イエスは教えられます。それが6節から9節です。
ここをご覧ください。
聖霊によって新しく生まれる命は、目に見える形では表せません。それはちょうど風が目に見えないけれども確かに働くのと同じだ、ということをイエスは教えられるのです。しかしニコデモは受け入れることができないのです。
どうしてニコデモは理解できないのか、その理由は10節から12節で見て取れます。ここをご覧ください。
ここでのイエスの言葉は、「叱責」というより、律法学者たちの間違った生き方を諭すものです。ニコデモをはじめ律法学者は、厳格に「神の言葉の字面」を学びながら、神の霊のことを学んでいませんでした。その状態をイエスは指摘されるのです。
律法学者だけではありません。私たちはすぐに「目に見えるもの」に流され、「目に見える証拠・しるし」を求めたがります。目に見えない神の国や天のことも、自分の頭で理解しようとしたがる…本当に無知な私達です。
しかし、そんな私達に「天の国や神の国」を見せるために、神の独り子イエス・キリストは天からこの世に降ってくださったのです。
そのことがあらわされているのが13~15節です。※ここは読んでみます。
ここではまず「天から降ってきた者はご自分しかいない」ことをはっきりと示されます。その上で、「天から降った神の子である自分が十字架の上に上げられること」を預言されるのです。
イエスが引用なさったのは民数記21:4~9です。ここの記述はWHOのロゴの引用箇所でもあるので、興味のある方はお家で開けて読んでください。
一言で説明するならば、出エジプトの途上、モーセが神の命令に従い、青銅の蛇を作り、それを旗竿の先に掲げたことで、民たちの罪が赦されたように、イエス・キリストもまるで旗竿に掲げられた蛇のように「十字架に掲げられる」ことによって人々を罪から救う、ということを予告しておられるのです。
このようにして、イエス・キリストが自分の罪の身代わりとなって死んでくださったことを信じ、受け入れる者は、聖霊によって、新しく生きることができる、永遠の命を得ることが出来るとイエスはニコデモに教えられるのです。
続きの箇所はまた来週みることにします。
メッセージを閉じるにあたり、これから先ずっと覚えておいていただきたい御言葉をお伝えします。それは3節と5節です。
イエスははっきりと教えられます!自分の罪を神の前に認める。その罪を救う救い主としてイエス・キリストを信じる、そうして「聖霊によって新しく生まれる」ことなしに、神の国、天の国に行くことは出来ない! そのイエスの言葉を重く受け止めましょう。
教会は、この頃の多くの人が勘違いしたように「理想の世の中の実現を待望する場所」ではありません。そうではなくて、目には見えない、霊による新しい命、そして神の国、天の国を待ち望む場所です。神の国、天の国に希望を持って生きることが出来る人々が一人でも多く与えられるように、祈ってまいりましょう。
(祈り・沈黙)
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