「聖霊を受け一つにされた群れ」5/19 隅野瞳牧師

  5月19日 聖霊降臨節第1主日礼拝・ペンテコステ礼拝
「聖霊を受け一つにされた群れ」 隅野瞳牧師
聖書:使徒言行録 2:1~4、36~47

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 本日は、聖霊によって生まれた教会について、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉にあずかりましょう。

1.聖霊を受けた者は福音を語ることができる(4節)

2.福音はすべての人に開かれた(38~39節)

3.一つにされて信じ、分かち合う教会(44~47節)

 

1.聖霊を受けた者は福音を語ることができる(4節)

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(1~4節)。

 本日はペンテコステ礼拝です。この日に実現した神の救いのご計画、聖霊降臨と教会の誕生の恵みを覚えて礼拝をささげます。「ペンテコステ」は50、過越祭の翌日から数えて50日目の祭(五旬祭)という意味です。麦の収穫を祝い、モーセが神から律法を授けられたことを記念しました。過越祭の時に主イエスは十字架に死に三日後によみがえられ、四十日間弟子たちに現れて神の国について語られました。主イエスが地上にイスラエル王国を復興するのではなく、弟子たちが聖霊を受けることによって実現するのが神の国だというのです。主イエスが昇天された後、弟子たちは聖霊を待ち望み、心を合わせて熱心に祈っていました。

五旬祭の日となりました。突然激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、聖霊が炎のような舌として現れ、弟子たち一人ひとりに留まりました。すると彼らはほかの国々の言葉で、神の偉大な御業を語り出したのです。五旬祭はユダヤ教の三大巡礼祭の一つであり、他国に住んでいるユダヤ人たちも、エルサレム神殿で主を礼拝するために上って来ていました。その人たちがエルサレムで故郷の言葉を聞いたのでした。聖霊が使徒たちにお与えになった言葉は、神がイスラエルだけでなくすべての人を愛し救おうとされていること、その時が始まったことを示していました。

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28:19)。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)。主の御心はすでに弟子たちに語られていました。けれども彼らはユダヤ人以外の救いに納得できなかったし、十字架の主を見捨てた罪と弱さ、恐れの中にあって、イエスこそ救い主と宣べ伝えることはできませんでした。しかし弟子たちは深い悔い改めと祈りのうちに罪赦され、聖霊を受けて変えられました。ペトロは十一人の使徒たちと共に立ち、物音を聞いて集まってきた人々に声を張り上げて話し始めました。

神はナザレの人イエスを通して超自然的な方法で働かれ、この方が神から遣わされた方であるとお示しになっていたのに、人間は主イエスを十字架につけて殺してしまいました。しかし主イエスは神によって復活、昇天され、約束された聖霊を注いでくださいました。今見聞きしている出来事は、預言が実現したことなのです…。そしてペトロは、自分にも語られているメッセージとしてはっきり宣言します。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(36節)。人々に聖霊が働きました。彼らは心を刺されるような痛みを覚え、御子を十字架につけた罪を、どうしたら赦していただけるのかと問いました。

御言葉を語らせるのは聖霊です。私たちは漁師から召されたペトロがこのように確信をもって、福音を語る者とされたことに驚きを覚え、励まされます。ペトロはヨハネとともに「無学な普通の人」(使徒4:13)と言われています。宗教者として専門的な教育を受けてきた人たちからすればそうでしょう。けれども聖霊は、無学な普通の人をお用いになることができるのです。

ただ覚えたいのは、聖霊は「あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」方だということです(ヨハネ14:26)。自分のうちに御言葉がなくても、勝手に私の口を用いて御言葉を語らせるというのではありません。御言葉に向き合おうとする「私」という存在を通して語ってくださるのです。聖書を読んでもさっぱり意味がわからない私に、心の目を開いてその意味を悟らせてくださる。聞いて忘れてしまった御言葉を、神の時に思い出させてくださるということです。専門的に学んでいなくても、ユダヤ人ペトロの日常は神の言葉とともにありましたし、何より主イエスとともに生活した3年間は、御言葉のシャワーを浴びていたと思います。

皆さんはすでに御言葉を聞いておられるのですから、あとは自分らしくお伝えしていくだけです。もし「整った説教」「成功談」「クリスチャンらしい生き方」しか伝道の役に立たないのであれば、すごい信仰者の本を渡せばいいでしょう。けれどもあなたのすぐそばにいる人が聞きたいのは、「神を信じたあなた」のありのままの姿なのです。主は破れのあるあなただから用いたいと言ってくださいます。語る言葉をお与えになるのも、相手の心を開いてくださるのも聖霊です。おゆだねしましょう。

 

2.福音はすべての人に開かれた(38~39節)

すると、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。』」(38~39節)

ペトロのメッセージを聞いていた人たちは、直接主イエスに手を下した人たちではありません。けれども彼らはペトロのメッセージを聞いて、これが自分に語られている御言葉だと、御子を十字架につけた同じ罪を私も持っているとわかったのです。今を生きる私たちにも、同じことが起こります。聖霊の働きにより、私たちは御言葉を自分のこととして受け止めます。罪の本質は、時代や場所が変わっても変わりません。「あなたもそこにいたのか(讃美歌21-306)」という賛美がありますね。私も同じ罪をもっている。神は私たちの隣に小さき者としておられるのですから、人に罪を犯したことは神にしたことと同じです。けれども復活の主の救い、そのご愛も、すべてを超えて私にまで及びます。この賛美の5節の歌詞にはその恵みへの感謝があふれています。「あなたもそこにいたのか 主がよみがえられたとき ああ いま思いだすと 深い 深い愛に わたしはふるえてくる」。

人々にペトロは勧めます。「悔い改めなさい」。悔い改めは、個々の悪事を後悔してこれからはやめるということではありません。生きる方向が、この世から神へ本質的に転換すること…神の言葉への不信仰が信仰に変わり、イエスを私の主、救い主として受け入れるということです。悔い改めは、神の呼びかけをいただいた者が神に帰る主体的な応答ですが、そこに至るのは人間の努力によるのではなく、神が先に備えてくださった賜物です。信仰もそうです。そして「イエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい。」ペトロの勧めは「めいめい」、一人ひとりが悔い改めて罪赦され、洗礼を受けなさいということでした。ペトロの言葉を受け入れた三千人の人々が洗礼を受けたとありますが、人数に関係なく、救いは神と私との関係においてお応えするものです。

ただ主イエスを信じることによって私たちは救われます。水の洗礼は、主イエスによって罪赦され、神と共に新しい命に生きる者となった(聖霊の洗礼を受けた)しるしとして受けるものです。その人はキリストまた教会と一つの命に結ばれます(Ⅰコリント12:13)。使徒たちに聖霊が降った時のような特別な出来事がなくても、主イエスを救い主と信じるすべての人に聖霊が住まわれます。ここではその恵みが、ユダヤ人にも異邦人にも開かれたと語られています。また聖霊は信じゆだねる者の心に満ちて、伝道の力や神に似た者とする成長をお与えになります。御言葉に聴き、祈り求め、主に従う中で与えられる恵みです。使徒たちに聖霊が降り、地の果てまで主の証人とされたというのは、主イエスを信じるすべての人に備えられた、聖霊の第二の恵みを表しています。

救いはすべての人に開かれました。神から遠く離れた異邦人だった私たちが救われたのは、神がすべての壁を乗り越えて、外に向かってくださる方だったからです。そして本日の箇所には、神と共に自らも外に向かっていく教会の姿があります。ペンテコステに私たちは、使徒たちと同じように聖霊に満たされることを求めますが、それは私たちの信仰生活のためだけではありません。むしろ「わたしの信仰生活」という壁を越えて出て行くためなのです。

 

3.一つにされて信じ、分かち合う教会(44~47節)

さて、聖霊によって新しく生まれた教会はどのような姿だったのかを見てまいりましょう。

信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」(44~47節)。

使徒たちを通して行われる神の業、また主イエスを信じた者たちを通して、周りの人は神への畏れをもちました。信徒たちは、主イエスが使徒たちに教えたことを受け継ぎ大切に守りました(今の新約聖書)。信徒たちは神殿で祈り、それぞれの家でも神の家族として主の聖餐にあずかり、共に食事をしました。食事の席はみことばを学び、祈り、賛美する場でもありました。

彼らはすべてを共有にし、貧しい兄弟たちのために、自分の持ち物を売って分かちあいました。この習慣はエルサレム教会だけのもので、キリストの再臨が近いという意識がこの考え方の背後にありましたから、すべての教会がこのように行いなさいという教えではありません。ただ、聖霊に満たされた教会はもっているものを分かち合い、具体的に隣人愛の実を結ぶことは確かです。

初代教会の信徒たちは内に閉じこもることなく、その様子は周りのユダヤ人にもよくわかって好意を寄せられるものでした。神はごく普通の私たちの信仰生活、愛し合う姿を通して、福音を伝えられます。ペトロ一人がメッセージを語り続けて信徒が増えました、とは書いていません。「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」は、私たち一人ひとりの信仰の歩みが証となることを示すのです。

「そして…ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき」(エフェソ4:11~12)とありますように、キリストが聖職者をお立てになったのは、信徒を奉仕の業のために準備するためです。牧師はもちろん伝道のために御言葉を語りますが、礼拝の御言葉は第一には、教会のえだとされた皆様を支えるためにお伝えしていることを、覚えていただければ幸いです。神は特定の人だけでなく信じるすべての者を、キリストの証人として用いたいと願っておられます。

ここには「一つ」という言葉が繰り返されています。最初の教会には、さまざまな立場の人がいたことでしょう。しかしそのような人々が同じ主を信じて洗礼を受け、共に生きるようになりました。彼らは聖霊によって一つとされていました。クリスチャンの生き方は、十字架の縦の線と横の線に表されているといいます。私たちはまず縦の線、「神と私との関係はどうであるか」を自らに問う者でありたいと思います。一人ひとりの悔い改めと信仰が、教会を一つにします。同時に横の線、「人と私との関係はどうであるか」です。主は救われる人を仲間に加えられます。私もまた神の家族の交わりの中へ招かれた者であることを覚え、一つとされることを求めていきます。神と人との関係、両方が大切です。

私が最近神に示されているのは、「この人だ!」とめがけて祈りを積み、教会にお誘いすることを続けつつも、「これまで自分が関わってきた、一緒にいて心地よい人」という線を超えた出会いに、勇気をもって心を開いていきたいということです。「自分で隣人を選ぶのをやめなさい」という、神からのメッセージでしょう。時間と労力がかかり、傷つけられることのくりかえしの中でうんざりし、もうこの人に関わるのはやめようかと思う。しかしそういう自分は何様か。多くの方の貴重な時間を割いていただいて今の私があることを忘れていないか。何の得にもならないのに、忍耐をもって何度も話を聞き、助けてくださった方がおられました。神はさらに数えきれないほど私に忍耐し、赦し、拾いあげて担ってくださっているのです。いつもはできないですし恐れはありますが、聖霊が出会わせてくださる方に、私の心が開かれるように祈っています。

ペトロはメッセージの中でヨエル書を引用しました。前代未聞のいなごの災害によって穀物が食い尽くされ絶望の中にあった民に、ヨエルは主の日(主が諸国の民を裁かれる日)が来ることを覚え、心を尽くして主に立ち帰るよう迫りました。人々は罪を悔い改め、主は彼らを憐れんで再び収穫をもたらしてくださいました。そしてご自身の霊を注ぐと約束してくださったのです。旧約聖書にはこの他にも聖霊が注がれることが預言されています。それはイスラエルの民にとって最も困難な時代といえるバビロン捕囚期の預言者たちによりました。神殿が破壊され、力のある者たちが連行されて長い年月が過ぎ、祖国に帰る希望は失われつつありました。しかし預言者を通しての回復の御言葉に励まされて信仰を守り続けた人たちがわずかにいました。主の約束は目に見える祖国の回復以上に、一人ひとりが聖霊によって新しく生きる者となるというものでした(イザヤ44:3、エゼキエル36:26~27,37:5)。

今まで山口信愛教会は、奉仕者や財的な面で満たされていました。主の祝福と、教会のために心血注いでくださった多くの方々に心から感謝いたしますが、見えるところに頼っていたことが多かったかもしれません。今私は、教会の課題のために祈らない日はありません。けれども御言葉を通して主が、「やっと聖霊が降った教会の原点に、祈り・みことば・伝道に帰って来たね」と、語ってくださっているのを感じます。これは、新しいスタートなのだと。主は信じる者を辱めることはなさいません。御自身の血をもって贖い取ってくださった、主の体なる教会なのですから。

神に立ち帰った一人ひとりの内に聖霊が注がれ、一つとされた群れが教会です。神の愛は主を信じる一人ひとりを通してこの地に実現し、日々救われる人々が加えられていきます。ペンテコステの日と同じ聖霊が、今私たちにも注がれています。本来何ももたない私たちです。だから聖霊が満ちてくださる、主の栄光だけがあがめられるのです。主が教会のお一人おひとりを強め、愛に満たし、存分にお用いくださるように祈りましょう。(沈黙)