「良い知らせを伝えよ」12/14 隅野徹牧師


  12月14日 降誕前第2主日礼拝

「良い知らせを伝えよ隅野徹牧師
聖書:イザヤ書 40:1~11

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 今日はアドベント第三の礼拝、「待降節第三礼拝」です。午後から、高田重孝さん花岡聖子さんによるクリスマスコンサートを控える今朝、聖書日課の中から私が説教箇所として選んだのが旧約聖書「イザヤ書40章の最初の部分」です。

 イザヤ書は、山口信愛教会の水曜日の聖研祈祷会で長く学んできましたので、ご存じの方が多いと思いますが、「キリストが誕生する前の旧約時代の書にして、その後に誕生されるキリストについての預言がたくさんなされている箇所」なのです。

 わたしたちはキリスト誕生後の「新約時代」に生きていますが、旧約時代の「キリストを待ち望んだ人」の気持ちとなって、とくに「このとき苦しみの中にありながら、救い主の誕生に希望をつたえた預言書イザヤに「御自分を重ねながら」キリストの誕生を喜ぶ思いを新たにしていただいたら幸いです。

 そして…クリスマス前の今、9節にあるように「キリスト誕生の良き知らせを、人々に伝える大切さ」を確認したいと願います。ともに御言葉をあじわってまいりましょう。

最初にすこしだけ「硬い話」をさせてください。イザヤ書は主に「書かれた時代背景が異なる3つの部分からなっている」のです。今回の40章は「二つ目の区分のちょうど始まりの部分」です。

背景としては、いわゆる「バビロン捕囚」があったころだ、と理解されています。イスラエルが分裂したあと、エルサレムがバビロンに攻め滅ぼされ、捕虜として連行されて失意の中にあったユダヤ人たちに語り掛けたメッセージです。

主な内容は、というと…エルサレムの陥落や捕囚によって大きく傷ついた民たちに対しての「慰め・希望の預言」がです。この預言は二重の意味を持っていて、「目の前の捕囚生活からの解放、エルサレムの復興の約束である」とともに、「後の時代に救い主がこられ、罪に支配されたこの世が神によって救われる預言」として捉えることができるのです。

 それでは順に読んでまいりましょう。まず1~5節です。(※ここを皆さん、目で追ってみてください)

 エルサレムから数千㎞も離れたバビロンの地にいる民たちへ神は「服役の時、捕囚の時は終った、エルサレムに帰る時が来た」と預言者を通して語られます。

そして解放され、新しい時代となったら、「あなたは主なる神のために、荒れ野に道を備え、荒れ地に広い道を通せ。」との勧めがなされるのです。

「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」という35節の言葉は、新約聖書では、ある人物によって成就した預言として語られています。それが「キリストの誕生前に、道備えをする働きをした洗礼者ヨハネ」です。

 ルカによる福音書、ヨハネによる福音書は、「キリスト誕生の、いわゆるクリスマス物語の記事」で、併せて洗礼者ヨハネの誕生が語られています。

 洗礼者ヨハネは「神から遣わされた人」ですが、「神の子、つまり神ご自身」ではありません。ある意味で「わたしたち人間が、イエス・キリストに対して、何をすべきなのか」そのお手本を示す存在でもあるのです。

 わたしたちも、イザヤの預言のとおりの生き方をした「洗礼者ヨハネ」のように、「自ら身を低くし、自分の心の中の「神をお通しする道」を広く作ってまいりましょう。その生き方が証しとなり、神の子イエス・キリストの救いの業が「この世の中で働きやすくなるような」手伝いをしてまいりましょう。

次に68節をよみます。(※皆さん目で追ってみてください)

ここでは「帰還する道が開かれた」と聞いた人たちは当惑していて、イザヤの言葉を素直に聞こうとしていなかったことが背景にあるのではないか、と言われています。

だからイザヤは「呼びかけよ、と声は言うが、一体何と呼びかけたらよいのか」と思いを神にぶつけているのです。「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい」という言葉は預言者の絶望が反映されています。

しかし!神は「草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」という約束をイザヤに授けるのです。この8節の言葉は、困難が多いわたしたちの「この世の旅路」で強い支えとなる言葉だと信じます。

続いて910節です。(皆さん目で追ってみてください)

「良き知らせを伝える者は高い山に登って呼ばわれ」と神が語られます。

民たちにとって、バビロン捕囚は苦しく、つらいものでした。しかし、この捕囚体験は、イスラエルの民を、それまでの「安易な選民思想」から「神が自分たちを選ばれた理由を深く探求する」という信仰に変えたと言われています。その中で「高い山に登って良き知らせを告げる」ことが大切なこととして認識されたのです。

つまりは、「神の恵み」を「イスラエル民族だけに留めず、広く世界に広める」大切さが見つめられるようになったのです。

もしも「自国中心主義」に立つならば、高い山に登る必要はありません。自分の身近なところだけでなく、遠いところにいる人々にも「あまねく、神の福音を伝える必要があるから」こそ、高い山に登れ、と主なる神は仰るのです。

わたしたちも、なるべく広い視野で、いろいろな人に「神の愛と恵み」を証ししてまいりたいと思います。

今日は午後から、高田ご夫妻によって「古のキリシタンたちが歌った讃美歌」を聞かせていただきますが、その讃美がうまれた背景として「イエス・キリストによる恵みを、高い山に登るようにして、世界中の人々に伝えようとした方々」の存在を感じながら味わってみてはいかがでしょうか。

最後に今日の中心聖句である11節を味わってメッセージを閉じさせていただきます

試練の時、苦しみ時は終わり、慰めの時が来ることを神は預言者を通して告げられます。ここで描かれた「主なる神」は詩編23編のように「羊飼いとして民たちを導くお方」ですが、ただ導くだけでなく「迷いし者を懐に抱いて導く」愛の羊飼いでもあります。これが成就したのは旧約時代ではなく、神の独り子イエス・キリストがこの世に来てくださったことによってはじめて成就したのです。

新約聖書ヨハネによる福音書10章で「ご自身をよい羊飼いに譬えられたイエス・キリストのお姿や」ルカによる福音書15章の「迷い出た1匹を探し出す羊飼い」で譬えられた「すべての人間の羊飼いであるイエス・キリストご自身」の姿が、このイザヤ書4011節で描かれているのです。 このような「神の愛を具体的に表して下さる救い主キリストがこの世に人間として来てくださった」のです。クリスマスを前に、その感謝を改めて心に刻んでいただければ幸いです。

 このように、クリスマス前の今朝、イザヤ書40章をともに味わいましたが、いかがだったでしょうか。イザヤがこの預言を神から授かったときは、捕囚という「先の見えない試練の最中」でしたが、その中で「神の御業が働くこと」そして「神は救い主を送って下さるのだ」という約束が語られました。 午後のコンサートで紹介される「讃美歌」が歌われた時代のキリシタンたちも迫害や苦しみのなかで「救い主の誕生」に希望をもって歩みました。

わたしたちの日々の歩みにも様々な試練があります。懸命に生きれば生きるほど「苦しいことがある」のように感じますが、10節の最後の言葉にあるように「主の働きの実り」は確実にあり、それが「救い主を通してなされていく」のです。

クリスマスを前に、救い主を通してなされる「良い知らせ・福音」に希望を感じながら歩んでまいりましょう。(祈り・沈黙)