「花婿の声を聞いて喜ぶ介添え人のように」8/29 隅野瞳牧師

  

  月29説教 ・聖霊降臨節第15主日礼拝
「花婿の声を聞いて喜ぶ介添え人のように」
隅野瞳牧師
聖書:ヨハネによる福音書3:22~36


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 本日は喜びにあふれて主に仕えたヨハネの生きざまを通して、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉にあずかりましょう。

1.すべては天から与えられる。(27節)

2.キリストを証する者は、神の喜びに満たされている。(29~30節)

3.限りなく与えられる聖霊によって、見聞きしたことを証しする。(34節)

 

1.すべては天から与えられる。(27節)

洗礼者ヨハネはヨルダン川沿いのアイノンで洗礼を授けていました。主イエスはエルサレムでニコデモの訪問を受けた後ユダヤの地方に行かれ、やはり人々に洗礼を授けておられました。大勢の人々が主イエスのもとに集まり、だんだんとその数はヨハネを超えるようになったのです。1章には、ヨハネの弟子であった二人(一人はシモン・ペトロの兄弟アンデレ)がイエスの後についていったことが記されていますが、ヨハネの弟子からイエスの弟子になった者は彼らだけではなかったのです。

ここで「イエスは…洗礼を授けておられた」とありますが、4:2には「洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである」とあります。主イエスが授けておられた洗礼を弟子たちに委ねられた、それは時間を超えて、初代教会の現実を表しているのかもしれません。目に見える出来事としては、ペンテコステの後教会に立てられた弟子たちが洗礼を授けているけれども、それは彼らを通して主イエスが聖霊による洗礼を授けておられることなのだと。そしてそれが今、教会で執り行う洗礼まで続いているということができるのです。

さて、ヨハネの弟子たちとあるユダヤ人の間で、清めのことで論争が起こりました。後に出てくるヨハネの弟子たちの訴えを見ますと、ヨハネと主イエスの洗礼とどちらが権威や効果があるかというような内容だったのではないでしょうか。ユダヤ人にとっての洗礼は清めの儀式の精神を受け継いでおり、異邦人がユダヤ教に改宗する際自らの汚れを清めるためのものでした。ですから神に選ばれている自分たちには洗礼は必要ないと考えていました。ところがヨハネは、ユダヤ人であっても悔い改めが必要であると宣べ伝えたのです。神の終末的な審判が迫っていることを覚えて、悔い改めて変わらなければと願うなら、洗礼を受けなさい。ヨハネはユダヤ人にこのように呼びかけて、悔い改めのしるしという意味で洗礼を授けたのです。そして悔い改めの洗礼を、罪を赦す権威のあるキリストが受けたことにより、洗礼は聖霊によって新しく生まれ、「罪の赦しを得させる」ものとなりました(マルコ1:4)。

人々が主イエスのほうに行くようになり、ユダヤ人とも清めのことで論争になる。ヨハネの弟子たちにとって穏やかではいられない事態でした。(イエスはそもそもヨハネ先生から洗礼を受けたのに、対抗するかのように洗礼を授けている。しかもより大勢の人々がイエスの方に集まっている。)ヨハネの弟子たちは喜びで満たされてはいませんでした。彼らの喜びを妨げているのは妬みでした(ガラテヤ5:20~21)。

パウロは妬みを肉の行いとして戒めています。「3. お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。…5. アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。6. わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」(Ⅰコリ 3:3-6)

「みんながあの人の方へ行っています。」とあせり訴える弟子たちに対しヨハネは答えます。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」悔い改めのしるしであれ、新生の約束のしるしであれ、洗礼は天から与えられなければ受けることができません。自分は救い主ではなく、救い主の前に遣わされた者だ、というヨハネの使命もまたそうでした。私たち一人ひとりにも、神から与えられている使命があります。何よりも主イエスとの出会い、救いの恵みを受けていることに気づいておられるでしょうか。

ヨハネは弟子たちに大切なことを思い出させます。私が救い主の前に遣わされた者として歩んできたことを、あなたたちが一番証してくれる者であるはずだ。勘違いをしてはならない。私が遣わされた目的は、メシアを信じ受け入れるための悔い改めの洗礼である…。神から与えられた自分の立場と使命を正しく知る人は幸いです。何のために主がさまざまな兄弟姉妹を教会に伴わせてくださっているのかを、もう一度考えてみましょう。比較して優越感や罪悪感に陥ったり、分裂分派を起こすためではありません。愛し支え合うことを通して一つの神の業が成し遂げられていくためなのです。神は私たちにそれぞれ違うスタートラインを与えられますが、同じゴールである天国、救いの完成に向かって、それぞれの務めを果たしてまいりましょう。

 

2.キリストを証する者は、神の喜びに満たされている。(29~30節)

「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。」「介添え人」は、直訳すると「友」です。ここでヨハネはキリストを花婿、キリストと愛し合う関係に入れられた主を信じる者(教会)を花嫁、自分を花婿の友人として語ります(マタイ25:1~13,エフェソ5:21~32、黙示録22:17)。介添え人が花婿を競争相手として妬む、そのようなことが起きるはずがありません。花婿が喜びの声を上げて花嫁を迎えるなら、友として務めを果たした自分もまた喜びに満たされる、そういうものです。ヨハネはその喜びに満たされているのです。結婚式にはさまざまな人が招かれます。しかしすべての招待客が介添え人になれるのではなく、新郎新婦が心許せる親友と呼べる人だけです。2人の幸せを心から願い、喜んで黒子に徹することができる人。それは神の国においても似ているのではないでしょうか。

主イエスの友という時に、ヨハネ15:12~15が思い起こされます。「12. わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。13. 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。14. わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。15. もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」

主イエスは私たちを友と呼んでくださいます。主イエスの「友」とは、主の命じる掟を行う人のことです。それは主に愛されたように、互いに愛し合うことです。主の愛、それは自分をささげ、見返りを求めず、相手に価値を見出して愛する愛です。人間にはその愛はありませんが、ただ神の愛を受ける時にそのような者へと変えられていきます。「僕」は命令に従うだけで、主人が何を思ってこれを命じているのか考えることはありません。しかし「友」は主イエスの御言葉を聞き、御父の救いの御心を知らされて自発的に、主イエスと共にそれを行なっていく者です。

一人の罪人が神のふところに帰って来て、花婿と花嫁が愛し合うような交わりがそこに生まれる。その喜びの様子を見る時に、ヨハネは地上にない喜びで満たされました。ヨハネ福音書に出てくる「喜び」は、多くの場合悲しみや苦しみ、そして御子の死を経て与えられるものです(ヨハネ16:21~22)。罪人を新しく生まれさせることは、御子にとって激しい苦痛、十字架の死を伴います。しかし新しい命が誕生した時に、その喜びは苦痛を忘れてしまうほどのものであると主は言われます。そして御子の十字架を通して救われた私たちは、神とともに生かされるキリストの喜びを与えられました。この喜びを誰も奪うことはできません。

この喜びは、今度は新たにこの喜びを経験する人を生み出すための産みの苦しみに変わっていきます。愛する家族や友が、「よく帰ってきたね!」と主に迎えていただく喜びを味わって欲しい。いつの日か自分の証を通して、主を信じ救われる方が誕生するのを見ることが許されますように。まず1人を覚えて、その方の救いのために祈り始めましょう。

「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」「ねばならない」とは、神の御心によって定められているという意味です。ヨハネはまことに深く神のご計画を知り、それに忠実でありました。厳しくも粛々と、ただ御旨が成ることを喜ぶ、献げ切った信仰者の告白です。この人が救い主ではないかと思うほど、ヨハネは多くの人の心を神に向きなおらせる働きをしましたが、彼はその期待を自分から冷却させてきました。

生まれながらの私たちは、自分が誉められ成功することを求めて生きています。しかし神を深く知るほどに、私の罪のために命をささげてくださった主イエスの十字架の愛に応え、主の栄光のために生きることに永遠の価値があるとわかるようになります。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:20)

主イエスが十字架につけられた真の理由は、ユダヤ教指導者たちの嫉妬によるものでした。私が栄え、他の人は衰えてほしい。神から離れたこの世の流れは、多くを傷つけ壊していきます。しかし神の国の力、十字架に示された神の愛がこの歴史のただ中に流れていることを、教会は証しします。誉められても非難されても神の僕として自由に仕え与えていく、霊の人としての幸いな命がある、死をも超える喜びと力があるのだと。

 

3.限りなく与えられる聖霊によって、見聞きしたことを証しする。(34節)

この後ヨハネは投獄され、殉教の道をたどります。その意味でここに書かれているのはヨハネの最後のキリスト証言と言えます。御子は「天」、神のもとから遣わされて来たお方です。それに対してヨハネは、自分は地に属する人間であると言いました。「この方は見たこと、また、聞いたことをあかしされるが、誰もそのあかしを受け入れない。」御子は天におられ、神の愛を直接完全に見聞きされた、つまり体験してこられた唯一の方です。私は神学校を卒業する際に、出エジプトの道をたどる旅行に行きました。地図上では短い距離でも起伏があって実は時間がかかることや、見渡す限り石と砂の荒野の連続で、ここを40年間さまよったイスラエルの民たちが不平を言うのは無理もないということ、戦争の絶えない地の緊張した空気をも感じました。緑豊かな日本に帰ってほっとしたのを思い出します。

行ってみて初めてわかること、お話しできることがあります。完全な形で天(神の国)に行ったことがある人はいませんから、人間の御言葉のとりつぎは限定的に神にお聞きしたことを語っているものです。しかし主イエスはただ一人天から来られた方ですから、その天国についての証言は真実です。御父は御子を愛し、その愛を罪ある人間に注ぎ救うために、全てを御子にお委ねになりました。罪人は自分の力でキリストの証を信じ、受け入れることはできません。しかしそのような中で聖霊の恵みによって、神が独り子をお与え下さるほどに自分を愛しておられることを確認し、救われる者も起こされるのです。

真の意味でキリストにお会いするのは終わりの日ですが、復活のキリストにお会いし、天の恵みを少し先に味わわせていただいた私たちは、キリストを証することができるものとされています。(ヨブ42:5、ルカ24:31、Ⅰヨハネ1:1)

「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。」「確認した」は「印を押す」という言葉です。最近は省略されることも多いですが、郵便物や代金を受け取ったり、文書を読んで内容を確認したら、確かに受け取ったということを客観的な事実とするために、印を押します。主イエスの証とは何よりも、私たちの救いのために御子を遣わされるほどに、神は真実な愛で私たちを愛しておられるという、ヨハネ3:16の内容でありましょう。肉体の死によって失われることのない永遠の命をこの世において既に生き始めており、世の終わりにそれが完成するという約束を与えられているのです。

「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。」

預言者と呼ばれる人は聖霊に導かれて、自分が語りたいことではなく、神から預かった言葉を語りました。しかし主イエスには聖霊が限りなく与えられ、完全に神の言葉を語ることができました。

これは主イエスのことであると同時に、私たち教会のことでもあります。ペンテコステにおいて聖霊の洗礼が信じるすべての者に与えられ、私たちも御霊に導かれて語ることができる者とされました。神はご自身の霊である聖霊を私たちに、限りなく与えて下さっています。それは私たちが救いを自分だけで留めるのではなく、他の人にも証ししていくためです。神は私たちを世に遣わされます。私たちは地に属する者ですから、人間のつたない言葉しか語れません。だれもその証しを受け入れないという現実に直面することもあります。しかし神が私たちのつたない証しを用いて下さる時に、その証しを受け入れ、神の真実な愛を確認して御子を信じる人が起こされていくのです。

「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」御子イエスを信じる者には、今、この地上で生きている時点で、すでに永遠のいのちが与えられています。永遠のいのちは、死後に与えられるものだけではなく、信じた時から体験できる神との生きた交わりであり、神の臨在であるからです。それはまた、この御子イエスを信じない者に対する霊的現実でもあります。、いくら主イエスの福音を聞いても、それに従う意志がない人は今も神の怒りがその上にとどまり、神との生きた交わりがありません。しかしあわれみ豊かな神は私たちの罪を取り除くために、御子をお遣わしくださいました。この方を信じる者はひとりも滅びないで、永遠のいのちを持つのです。

 洗礼者ヨハネはこの世の使命を終えます。しかしヨハネ10:41~42にこう書かれています。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」そこでは、多くの人がイエスを信じた。」奇跡を行えば人は集まり、表面的なところは一時癒されるかもしれません。しかしいつまでも残る救いは、一人ひとりが自らの内に与えられた福音を受け入れ、御子によって罪赦されて、神と共に生きる道だけなのです。基本的には御子がなさったことも、御父の御言葉をそのままに語り行うことでした。言葉と行いを通して、神が真実に愛であることを証されたのです。そしてそれが私たちにも求められていることです。そのような小さい真実の積み重ねを、「これは本当のことか?」と周りにいる方は見ておられるのだと思います。聖霊に導かれ、ひたすらに主の僕として証をする、それが一番力あることなのです。

 

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