
2月8日 降誕節第7主日礼拝・信教の自由を守る日礼拝
「苦難を見ても落胆しないで」隅野徹牧師
聖書:エフェソの信徒への手紙 3:1~13
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山口信愛教会では2月11日に近い主日の礼拝を「信教の自由を守る日礼拝」として持っています。1967年、日本政府は2月11日を「建国記念の日」として強行制定しました。それ以来、私たち日本基督教団は、2月11日を「信教の自由を守る日」として覚え、「建国記念の日」の祝日に対して異議を訴え続けてきました。
それは戦時中、キリスト教会が国体に利用され「戦争に加担してしまった」という悔い改めにも基づいています。「昭和17年に起こった、一部教派に対しての特高警察による弾圧」に対し、助けるどころか見て見ぬふりをした、そして戦争を止めるどころか、むしろ「加担してしまった」日本基督教団全体の反省にも基づいています。
今世界は「戦乱の中」にあります。「軍事力に寄り頼もうとする危険な思想」が広がっています。日本もいつ、戦前のような過ちに走るとも限らない状態にあることを感じます。
そのような中で迎える「2024年の信教の自由を覚える日礼拝」ですが、説教箇所として少し前、聖研祈祷会で学んだ「エフェソ3章」から語ることが示されました。
この聖書箇所は、パウロが「ローマにある牢屋の中で」エフェソや、そのまわりの教会の信徒に向けて書いたものだと考えられています。今日中心に読むのは13節です。
パウロは、自分が投獄されているという「苦難」をどう捉えているのか、何が原因で起こったと考え、語っているか、ということを「短めに」お語りします。
御言葉を味わいましょう。
中心である13節から結論的なメッセージを語る前に、そこに至る話の流れをみていきましょう。
まず1節です。パウロは、自分のことを「囚人」と言っています。これには、二つの意味があります。一つは、「自分がキリストに捕らえられた者と考えていた」という意味です。もう一つの意味は「この時、パウロは実際に囚人として、ローマの獄中に入っていた」という意味です。そこ牢獄からこの「エフェソの信徒への手紙を記している」のです。
つづく2~9節で「秘められた神の計画」について語ります。(簡単にこの箇所を目で追っていただけますでしょうか…)
その内容はというと…4節に「キリストによって実現されるこの計画」とある通り「イエス・キリストによって実現される、人間を救う神の計画」ということが分かります。
罪人だった自分が、それでも神によって罪から救い出された…それは「救いの計画」によるものだったとパウロは理解していますが、しかし「世の人の多くには隠されているのだ」と言っています。旧約時代の人はとくに「隠されていた」と語られます
それでもパウロは「自分に知らされ、あなたたちにも伝わっている」と述べるのです。
パウロは「神が私に与えて下さった秘められた恵み」「救いのご計画」を伝えるために、小さく罪深い自分を神が召しだして下さったのだ…と伝えるのです。
さて、そんな「神の秘められた救いの計画」を、異邦人など「すべての人に伝えるために」召されたパウロは、囚人となっていたのです。
なぜ逮捕されるに至ったのか…その原因は使徒言行録21章以下に書いてあります。
そして「なぜローマで囚人となっているのか」「どんな風な囚人生活を送っていたのか」も使徒言行録の最後の方に詳しく書いてありますので、ぜひ読んでみてください。
おおざっぱに話すと、パウロは何か悪いことをしたから逮捕されたのではなく、パウロのことを「裏切者だ」として敵視したユダヤ人によって暴動が起き、その裁判の決着がなかなか着かず、逮捕されたままになっていることが原因です。
エフェソをはじめ、パウロの伝道によって建てられた教会にいた信徒たちは「頼れるパウロが逮捕されてしまった」そして「力強く、異邦社会でもキリストの福音を宣べ伝えていたパウロが捕らえられたままであったら、宣教・伝道の業が止まってしまうのではないか」という心配が広がっていたとされています。
そんな状況にあってパウロは13節で語るのです。
「わたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。」と伝えるのです。
しかし、よく読むなら「ただ私は牢獄の中でも元気だから落胆しないで!」と言っているのとは違うのがわかります。パウロ自身のこのときの苦難を「あなたがために受けている」といい、「この苦難はあなたがたの栄光なのです。」と言っているのです。
これは一体どんな意味なのでしょうか。 その理由が記されているのが10節から12節です。(※ここをよんでみます)
「神がキリストによって実現された永遠の計画」という言葉が出ます。「永遠の計画」なのですから…人間の理性や考えや理解を超えた「神のみ心、ご意志」が「神がキリストを通して成し遂げられる計画」なのです。しかし、そのような、すべてがわたしたちには分からない「秘められたもの」ではありますが、確かなものがあります。それは「何としてでもあなたを罪から救い出したい」という神の愛が、ここに確かにあるということです。
だから「落胆しないで!」とパウロは言ったのです。分からないことが多い現実の中で、それでも「あなたたちを愛するがゆえに、キリストを通して罪から救おうとしてくださる神の愛は、確かにあるのだ」だから「苦難の先に、栄光のキリストと同じものとされる恵みがあることに希望を持とう!落胆してはならない、と強く訴えているのです。
目の前の現実には、「なぜこんなことが起こるのか」という辛く苦しい出来事が起こります。どんなに信仰をもっても、そして祈りを合わせても、それでも「理不尽と思える苦しみ」は教会やクリスチャンにあるものなのです。
現在でも、世界の多くの国・地方で「教会・クリスチャン」への迫害が続いています。わたしたちの住む日本ではそうした迫害は無いように感じられるかもしれませんが、「信教の自由が確立される前」は大変な迫害がありました。それが最初にもお話しした「昭和17年に起こった特高警察による弾圧」です。
太平洋戦争のさなか「右傾化した国の体制の維持」を強力にするため、特高警察はとくにホーリネス系教会を狙い撃ちするようにして迫害し、牧師を逮捕し、教会に解散命令を下しました。
この「狙い撃ち」によって「人間的な恐れが生じた」のでしょう…迫害を免れた教派の教会らは「国体維持」に協力していくようになります。 2
こうして沢山の尊い命が失われることになる「あの戦争を止められない」ということが起こってしまったのです。
わたしはホーリネスの群の神学校である「東京聖書学校」で学びましたので、実際に「迫害にあった当事者家族の証言」を生で聞く機会が与えられました。 自分の親である牧師が突然逮捕され、そして国の圧力により「教会が解散させられた」とき、どれだけ絶望の中に置かれたということが伝わってきました。
あの昭和17年の弾圧をどう捉えるべきなのか…わたしには「戦後、日本基督教団として多くの教会が合同して歩むために必要な苦難だった…」とは言うことができません。同じことが2度と起こることが無いように、祈りつつ「自分たちに出来うることをする」そのための教訓とは思えます。一方で…その答えは人間が出すものではなく、天の上ではじめて分かることなのではないか…と思っています。
初代教会の中の中心人物だったパウロが「囚人となったこと」…約2千年後を生きる私たちには「それはキリスト教が世界に広がるきっかけとなる意味のある出来事だった」と言えます。
しかし、当時「誕生間もないゆえに、いろいろなことが整っておらず、パウロを慕っていた、エフェソなどの信徒たち」にとってはどんなに衝撃だったことでしょう。迫害にもさらされていた彼ら、まさに「狼に狙われる羊」のような心境だったのではないでしょうか。
そんな中でエフェソ書3章13節の「苦難を見て落胆しないで」という言葉が出ることを今日、覚えて帰っていただければ感謝です。
「わたしたちの目にみえる、理解できることを遥かに超えた、キリストによる救いのご計画の中で一人ひとりは生かされているのだ。そこには愛がはっきりと示されているではないか。だから落胆しないでください」というメッセージは、予測不能なことが沢山起こる私たちへも語られているメッセージだと心に留めていただければ幸いです。
(沈黙・黙祷)
