12月31日 降誕節第1主日礼拝
「行って拝もう」隅野徹牧師
聖書:マタイによる福音書 2:4~11
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教会では1月6日の公現日まではクリスマスの飾りつけをそのままにし、礼拝で聖書のクリスマス関連の箇所から語ることも多いです。今朝は、今年最後の主日礼拝ですが、12月17日に語ったクリスマスのいわゆる「東方の博士」箇所の続きの部分を語らせていただきます。
あらすじに関しては、さきほどの子どもメッセージでも語りましたし、皆さんよくご存じだと思います。
1節か3節で私は「東の方」という言葉に注目して語りましたが、いわゆる博士物語の後半は「イエス・キリストを礼拝する者の態度」について教えられる箇所です。2023年の「私たちの礼拝の守り方」について、顧みつつ、新しい年に「心新たに、礼拝をまもっていくために」、大切なメッセージがつまっていると感じます。ともにあじわいましょう。
まず2週前のおさらいを少しさせてください。東方の学者たちは、まず都である「エルサレム」へ行ったと書いてあることに注目しました。学者たちは「王は都エルサレムにいるのではないか」という先入観があったのではないか、と予想できます。
学者たちは、きっと「エルサレムは新しい王・救い主の誕生で歓喜に包まれているだろう」と予想し、胸躍らせて都エルサレムに入ったことでしょう。しかし!彼らの期待とは真逆に、エルサレムは「冷めきった雰囲気」だったことが読み取れます。
2節に「エルサレムの人々も皆、同様であった」という言葉が表していますが、多くの「都の人々」は、ヘロデの権威に逆らわず、王として立てていればそのときの自分の生活は守れた人が多かったので「神が送ってくださる救い主など、とくに待ち望みもしない…」そんな状態だったことを聖書は表しています。
そこで、東方の博士たちは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか?私たちは東方でその方の星を見たので拝みに来たのです!!」と多分大きな声で人々に聞いて回ったのでしょう。その「救い主・新しい王について情報提供を求めた」その声が徐々に広まり、王の耳に入った。そして王は、知識人を呼んで、「聖書の預言では、救い主がどこで生まれるといっているのだ」と問うたのだと私は考えます。
4節5節の部分で「祭司や律法学者」はミカ書の預言を探し出し「救い主はベツレヘムでうまれる」ということを見つけました。しかし、彼らの心は「冷めきって」いました。「行って礼拝しよう、行って拝もう」という様子がまるで見て取れません。
この「祭司長や律法学者たちの態度」は、現代人の多くの心を映し出している…と感じるのは私だけでしょうか?
いろんな知識が豊富にある世の中です。どこに何が書いてある、誰がどんなことを発言している…それがすぐに調べられる世の中です。しかし、せっかくの情報を引き出しても、それで終わってしまう、もっといえば「自分の利益のためだけにその情報を用いる人が実に多い」と感じます。
天地を作られ、すべての者に命を与えたもうお方を意識することなく、そして神が作られたこの世界全体を意識することなく、「己が得たい情報を量的に質的に得られればそれで満足する…」若い世代を中心にそういう生き方が蔓延しています。
もちろん、どんな生き方をするか、選ぶのは各々です。しかし!聖書は、今回の箇所を通して「祭司長たちや律法学者」のような、「頭脳は明解で、知識があっても、神の前にでていって、神を拝もうとしない」生き方と、「神の前に行って拝もうとする気持ちをもつ」生き方の違いを教えているのです。
今朝の説教題は8節の言葉から取り「行って拝もう」としました。
これを言っているのは「イエス・キリストの前にいって拝む気持ちなど毛頭ない」ヘロデ王の言葉です。
マタイがあえてこの言葉を使っているのは「神の御前でも平気でうそをつくことのできるヘロデへの皮肉」があるでしょうし、一方で「東方の学者たちが、神の独り子、イエス・キリストの御前に出て行って、そしてこころからの礼拝をささげた」ということを対照的にあらわすためでもあると思います。
これからの時間、神の独り子、イエス・キリストの御前に出て行って、そしてこころからの礼拝をささげた」学者たち、いわゆる「博士たち」に関しての聖書の記述から、2つのポイントにしぼり「私たちが神の前にでる態度」別の言い方で「礼拝をささげる態度」について、私に示されたことをお分かちします。
一つ目は「神の前になにをささげるか」を考えて神を礼拝するか、ということについてです。
11節をご覧ください。ここでは、学者たち、博士たちが贈り物としてささげたのが「黄金、乳香、没薬」だと書いてあります。
この3つの物は「人間の赤ん坊としてこの世においでになったイエスがどんなお方であるのか」を、指し示していると伝統的に解釈されてきました。黄金は「王」を表し、乳香は「本来、民たちの祈りを、神の前に届ける大祭司」を表していると解釈されてきました。
そして没薬は、痛み止めで「十字架で死なれるお方だ」ということを前もって象徴的に表していると解釈されてきました。
そしてこれら3つの物は、大変高価なものなので、ヨセフとマリアがエジプトに逃げる際の資金になったという解釈も伝統的にあります。
しかし!!私は「何をささげたか、どれぐらい高価なものだったか」ということより、大切なことは「博士たちがどんな心でささげたか」なのではないでしょうか。
11節の前半には「彼らはひれ伏して、幼子を拝み…」という言葉がでますが、これがポイントだと考えます。
どんなに高額なものでも、それを「見せびらかすようにしてささげたり」いっぽうで「嫌々にささげたりする」なら、それは神の悲しまれることではないでしょうか。
この箇所ではどうしても「博士たちのささげたもの」に目が行きがちですが、大切なのは、ささげる直前「人間を救うため、この世に生まれて下さったイエス・キリストにひれ伏して拝んだ、つまり礼拝をささげた」ということだと私は確信を持って言えます。
わたしは、ヨハネ12章などにでる「イエスに高価な香油を注いだマグダラのマリアだとされる女性」と、博士たちがつながります。【※開かれなくて結構ですが、この話をご存じの方はこころに思い浮かべて下さい】
マグダラのマリアは高価な「ナルドの香油」をイエスに注ぎましたが、それはイエス・キリストに対しての「心からの感謝を表すもの」だったのです。弟子が「なぜ、こんな無駄をするのか」と叱るぐらい、人間的に見たら「無意味なささげもの」に見えたことでしょう。
それでも!イエスは「彼女が心からのささげものをした」ことを受け止められ、喜ばれた。その「マグダラのマリアのささげもの」と「博士たちのささげもの」が重なるのです。
正直、「赤ん坊に、黄金・乳香・没薬をあげるなんて…」と思う人もあると思うのです。しかし、そんな私たちに対しこの聖書のお話は「博士たちが、救い主を畏れかしこみ、そして感謝の心を、自分なりに精一杯のかたちで表した」ということの尊さを教えているのではないでしょうか?
私、自身もこの箇所から考えさせられることがあります。礼拝の中でささげているものといえば…私にとっては「献金よりも、むしろ説教、メッセージ」です。
足りない頭脳や知識を絞り出し、祈りつつ、時間を削りながら、「自分にも語り掛けるメッセージとして」礼拝のとき、神の御前にやっとの思いで差し出しているのが「私の礼拝説教」です。
なんとか「神の御心にそった説教が語れるように…」祈り、もがきながら、やっとの思いでささげています。もちろん、このように苦闘しながら、説教を紡ぎあげることはこれからも大切にします。
しかしながら!「どんな説教をささげるか」で頭が一杯になっている自分に、今回改めて気づかされたのです。 どんな説教を神の前にささげるか、より先立つこと、大切にすべきことは「神の前にひれ伏して、自分自身が神の前に一礼拝者として出ること」なのだと。 博士たちの「身も心をささげた姿」に、私も学ばせていただいて、2024年、一説教者であるまえに「行って、拝もう」の姿勢を大切に歩ませていただいたいと願います。
最後に、もう一つの「博士たちの礼拝の持ち方・態度」に関しての聖書の記述から、私に響いたことをお分かちしてメッセージを閉じます。
10節の「喜びにあふれた」という言葉から示されたのですが、博士たちは、いつ、どのタイミングで「喜びにあふれた」と聖書がいっているか?ということに目が留まったからです。
博士たちが喜びにあふれたのは「イエス・キリストを肉眼でみたとき」でもなければ「星が不思議なように、博士たちを導き始めた」場面でもありません。
そうではなくて「幼子のいる場所の上で、星がとまったとき」に喜びにあふれたのです。
これはあくまで私の解釈ですが、「ここまで、東方から救い主に会うための長い長い旅をしてきた博士たちが、その旅のゴールを神によって示された瞬間」が、それが「星が止まって見えたこの時であった!」だから「博士たちが喜びにあふれたのは、救い主に会いまみえることができる、そのゴールをはっきりと心で捉えた時なのだ」だとの思いが私に迫ってきました。
この「不思議な星」は、天文学的に何なのか?いったいどういう現象なのか?ということを理性的に理解するよりも、「この博士たちを導いた星は、すべての人間の心の中に同じように輝いている。そして救い主イエス・キリストのもとへと導くものとして、私たち自身のうちに存在しているのだ」と理解するのがよい!と私は考えます。
私たちは今、肉眼でイエス・キリストを見ることはできません。ちょうど聖研祈祷会で「再臨について」学びましたが、将来的にもどのように、キリストと会いまみえることになるのか…それははっきりとは分かりません。
(しかし!私たちはキリストのもとに導かれ、いつしか「直接お会いできる」という究極のゴールへと導かれる希望が、聖書全体から教えられています。
博士たちが「イエス・キリストに会った時」ではなくて「その前に、確実に会えるというゴールを確信したとき、喜びにあふれた」ことを私たちも忘れず、来年歩んでまいりましょう。
まだはっきりとは見えず、わからないことも多い私たちの人生のゴール、しかし、それをしっかりと見据えることが大切だと、わたしは今年の年末に示されましたが、皆さんはどのようにお感じでしょうか? 長く苦しい旅の最中でも、「この先救い主に会えるというゴール」がはっきりと捉えられるなら、喜びとなり力となることを信じています。(祈り・沈黙)