「誰かを力づけるため」2/21隅野徹牧師

  2月21日説教 ・受難節第1主日礼拝
「誰かを力づけるため」
隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書22:21~34、54~62

説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 今日から教会の暦は「受難節」に入ります。1年の暦の中でも、とくに「イエス・キリストのご受難」を覚えて過ごす期間に入りました。今年は続けて読んでいますルカによる福音書の続きの箇所から、御言葉に聴いてまいりたいと思います。 

先週読んだルカ22章の20節までの箇所は、いわゆる「最後の晩餐」の箇所の前半部分でした。十字架刑に処せられるのをすべてご存知のイエスが、死なれる直前、過ぎ越しの食事をされることを通して、「聖餐式」を守ることを教えられる箇所でした。

イエス・キリストは、大昔エジプトで救いの業に与った記念の食事であった「過ぎ越しの食事」が行われる時、新しい救いである「十字架」を記念する食事を制定なさることを心から願われたのでした。だから、ユダに裏切られ、逮捕されることが分かっておられながらも「過ぎ越しの食事を弟子たちと共にすることを切に願われ」、そして聖餐を制定してくださったのです。

イエス・キリストは「十字架にかかり、罪を贖ってくださった」だけに留まらず、恵みを忘れないために、神の恵みに留まって歩み続けられるように、自ら「聖餐式」を制定してくださったのです。なんという大きな愛だろうか…ということを先週お話ししました。

今日の箇所である21節から内容が一転します。順を追って読むとともに、今日の箇所を通して聖書が教えようとしていることを深く味わいたいと願います。

先週は、イエスが弟子たちと共に過ぎ越しの食事を取られたとき「聖餐式」を制定されたところまでみましたが、今週は、その「過ぎ越しの食事」の場面の後半と、その繋がりの箇所を読みます。まず今回の箇所のあらすじをお話しします。

21節22節で、すべてをお見通しのイエスが「弟子のうち一人が、ご自分を裏切る」ことを予告されます。それで23節、弟子たちは「そんなことをするのは弟子のうちの誰なのか」議論し始めるのです。

しかし24節、弟子たちは「裏切るのは誰か」の議論から「誰が一番偉いのか」という話を始めてしまうのです。それを受けてイエスが答えられますが、その内容が記されたのが25節以下です。

25節から27節を読んでみます。

「異邦人の間では」というのは、「世界では、世の中では」という意味です。その後に続く言葉は2千年経った今も残念ながら変わっていない「世の実態」を表すものです。王などの支配階級が権力を振るい、「守り神」のように崇め奉られる…しかしそれではいけない!とイエスは教えられるのです。

26節、27節でイエスは、ご自身が本当の意味で「権威があり、絶対者である」のに「仕える者」として弟子たちに仕えてきたと語られます。ご自身が教えられた通り「上に立つ者は、仕える者でなければならない」と教えられます。

28節から30節は後程詳しく見ますが、イエスの弟子たちに対する教えが続きます。

その後の31節、唐突な感じを受けられるかもしれません。イエスはユダ以外のもう一つの「裏切りの予告」をされます。その相手は一番弟子のペトロでした。

ユダとのちがい。それは「直接名指しされたかどうか」ということとともに「本人に自覚があったユダ」と「無かったペトロ」という大きな違いがあります。

33節をご覧ください。ペトロは「主よ、ご一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と応えます。

ユダが「今すぐにでも裏切りを目に見える形で行おう」と考えていたのとは対照的に、ペトロは「私は絶対に裏切らない。裏切るものか!」と思っていました。

絶対に裏切らない自信があったペトロですが、そのペトロに対しイエスが返されたのが34節です。

この後、夜明けまでに「3回も」イエスを知らないというだろう、と裏切りを予告されたのです。これを聞いても、ペトロの気持ちは変わらなかったでしょう。「私が、そんな裏切りをするはずがない!私は強い岩だ。ペトロだ!」そう思っていたと感じます。

しかし、結果はどうだったでしょうか、それが54節から61節にあります。 各自目で追って見て下さい。 

再来週詳しく見ますが、ユダの手引きによってイエスは不当逮捕されます。そして不当な裁判が行われようとしていた、その「判決の現場」にペトロは付いていったのです。

「この逮捕と裁判は間違っています。このお方は何一つ悪いことをなさっていません。私は一番近くで見ていたので証言します!」ということが出来たのに、それをしなかった。いや「できなかった」ということです。

以上、今日の聖書箇所である22章の20節から34節、そして54節から62節の流れを見てまいりました。

一連の流れを通して教えられること。それは「自分は強い、偉い」と自信を持ってもそれは簡単に崩れ去るということ。そして、「自分は強い、偉い」と思うことが、イエス・キリストに従っていくことの足枷になるということです。

21節22節で、イエスが「ユダの裏切り」を予告されたとき、弟子たちは「12人の中で、そんなことをするのはアイツに違いない」などと言いはじめます。その言い合いがいつしか「12人の中で、誰が一番偉いか、強いか」という議論になってしまったのです。

聖書にははっきりと書いてありませんが、多分弟子たちは議論して「一番偉いのはペトロだ」という答えになったのだと思います。一番弟子であり、真っ先に答える場面が多いなど信仰も確かである。もともと漁師として自然と戦ってきたので体力、精神力を持っている…などなど。

ペトロも一番弟子としての自負があったでしょう。自分は偉いのだ。そして強いのだ。だからたとえこの中から裏切り者が出るとしても、私では絶対にない!そう思っていたに違いありません。

しかし、そんなペトロに対し、イエスは「あなたは弱いのだ。今夜あなたも私を裏切ることをしてしまう」とお告げになるのです。

人から見て「この人は偉い、そして強そうだ」と評価され、自分でも自信に満ち溢れている人。でもそんな人が「実は弱かった」ということは私達の周りでたくさんあるのではないでしょうか?とくにこの1年、「見せかけの強さや権力」といったものの欺瞞が明るみに出て、そして崩れ去るということが多く起こったのではないでしょうか。

人間は弱いということ、いくら人から評価され、自分で自信があっても、それだけでは足りない、ということをイエスは、そして聖書は示すのです。では何を足さねばならないのかというと、それが「愛」なのです。最後にその話をして終わります。

裏切りの予告がなされている今回の聖書箇所ですが、貫かれているのはイエスによる「隣人を愛し、生きていくということについての教え」です。

とくにそれが強く教えられているのが31節と32節です。(※よんでみます)

私のこれまでのクリスチャン人生で経験した、まさにそのものが描かれているように感じます。 私がクリスチャンになってから祈りが叶えられよう担って試練が減ったかというと、全くそうではありません。むしろ「信仰が無くなってしまいそうな試練」に何度も遭いました。しかし、その都度、友のたくさんの祈りに支えられて立ち直ることができました。

そして私もまた、試練にあって信仰を無くしそうな友のために祈らせていただくことを覚えました。振り返ってみると、このように「祈り、祈られる」、その繰り返しです。そして多くの方々とイエス・キリストのもとに踏みとどまることができているのだと感じます。まさに28節の御言葉のとおり「一緒にキリストのもとに踏みとどまれることがどれだけ感謝であるか」ということを思わされます。

29節30節の「支配」「国を治める」ということも、この世のそれとは全く違うのです。イエス・キリスト、そして聖書が教えるのは「相手を愛する愛に基づくもの」なのです。

「間違いを犯した人、苦しいことがあって力を無くしている人のために祈る、そして力づける」そして「力づけられて立ち直った人が、こんどは別の人のために祈り、力づける…」このようなことが満ちているのが、イエス・キリストが中心におられる「神の国」なのです。

最後に、今回の箇所からキリスト教会全体に対して示されていると感じるメッセージを「自分への自戒」を込めてお話しさせてください。

キリスト教会は、そしてクリスチャンは、ある意味で「優越感」に浸っていないでしょうか。

世の人々にくらべて人格者の集まりだと思う気持ちがどこかにあると思うのです。信仰を保っていることを誇ってはいないか。あの人たちより自分たちは「偉いのだ。だから今平安なのである」という思いで終わっていないかということです。私にはそのような心があることを今回強く示されました。

確かに私達は聖書の言葉によって養われ、恵まれています。今のコロナ禍にあっても「それに耐えられるような心の栄養」を持って平安かもしれません。暗い現実を超えて存在する「目に見えない希望」を知って平安かもしれません。でも、今感じているかもしれないその平安は、神から与えられているものです。当たり前に平安であるのではありません。誰にも、そしてどの教会にも苦しいときは必ずあったはずです。その苦しいとき、どれだけ多くの人が祈って支えて下さったか、そして何より「主イエスご自身」が祈ってくださったか…それを忘れてはなりません。

私たちは、自分の信仰の現状を「保とう」「守ろう」とするのではなく、まずは今「力を無くして落ち込んでいる人々」「希望を無くしている人々」のことを思い、祈りましょう。そしてそれらの方々の心に寄り添いましょう。

そのような「愛」のあるところにキリストはご臨在くださることを信じます。(祈り・黙想)

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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