「過去の過ちに目を向ける」2/11 隅野徹牧師


  2月11日 降誕節第7主日礼拝・信教の自由を守る日
「過去の過ちに目を向ける」隅野徹牧師
聖書:詩編 95:1~11

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 山口信愛教会では今朝の礼拝を「信教の自由を守る日礼拝」として持ちます。1967年、日本政府は2月11日を「建国記念の日」として強行制定しました。それ以来、私たち日本基督教団は、2月11日を「信教の自由を守る日」として覚え、「建国記念の日」の祝日に対して異議を訴え続けてきました。

それは戦時中、キリスト教会が国体に利用され「戦争に加担してしまった」とことへの悔い改めにも基づいています。何度かご紹介していますが、「昭和17年に起こった、ホーリネス系教会への特高警察による弾圧」に対し、助けるどころか見て見ぬふりをした、そして戦争を止めるどころか、むしろ「加担してしまった」日本基督教団全体の反省にも基づいています。

今、世界は「戦乱の中」にあります。「軍事力に寄り頼もうとする危険な思想」が広がっています。日本もいつ、戦前のような過ちに走るとも限らない状態にあることを感じます。

そのような中で迎える「2024年の信教の自由を覚える日礼拝」ですが、聖書日課の中から、ちょうどぴったりテーマとあてはまる箇所として「詩編95編」が与えられました。

この詩編は、紀元前516年に「エルサレム神殿」が再建された時、「その喜びの中で歌われた詩編」だと考えられています。

95編は、神へ感謝、礼拝の招きの一方で、「過去に目を向けて、神から離れた罪を悔い改め、同じ過ちを犯さないように」という勧めがなされています。

私たちも、現在の感謝とともに、過去の日本のキリスト教会の負の歴史を学び、「祈りつつ、神の御国のために、自分のできること」を探し求める必要があるのではないでしょうか。今日はこの後ギデオン協会からのアピールもありますので、いつもより少し短く語りますが、ともに御言葉を味わう日となることを願っています。

まず1~3節をよんでみます。この部分は、「礼拝への招き」が力強い言葉でうたわれています。

この部分で、神のことをどのような言葉で表しているかというと、1節では「救いの岩」という言葉で表現されています。「わたしたちの罪からの救いの土台であり、決して揺らぐことのないお方」が神です。

3節には「聖書が証しする唯一の神は、世の中に数ある人間が作り出した神々を超える大いなるお方」だとあります。聖書が証しする神が「人間が作り出した神々を大きく超えている理由」は、「そこに確かな救いがあるか」、そして「その神のもたらす救いは、どんな状況でもゆらぐことのないものなのか」ということから説明することができると思います。

先の大戦時、戦いの大義名分として持ち出された「神」は、国や国民を豊かにし、繁栄をもたらすと謳われました。しかし、それは「本当の意味での救い」ではないはずです。

 では、聖書が教える本当の救いとは何か…それが4節から7節のことばからも味わえます。それでは4~7節を読んでみます。

4節、5節では聖書の教える神が「天地の造り主」であることを教えます。この世は偶然に「できて、成り立っている」のではない。この私の命もこの世のすべてのものも、神が「思いをもって」形作ってくださったものなのです。無意味なものなどどこにもありません。

続く6節には「その創造主のまえにひざまずき、ひれ伏して、拝む」ことの大切さが教えられています。 自分の命の造り主がどなたなのかを知り、その方の前で「自分を低くすること」が聖書の教える「救いの第一条件」です。

これは世の中一般でいう「救い」とか「救われた」とかいうことの概念とまるで違うことがお分かりいただけると思います。自分中心の物の考え方ではなく「創造主を心の中心におくこと」です。

7節では「わたしたち一人ひとりが、創造主である神に養われる羊だ」ということを思い返させています。

神は私たちの意思を無視して「こき使ったり、無理やりに言うことを聞かせるお方」なのではなく、「養って下さるお方」なのです。そのお方のみ旨に聞き従うこと、そして「間違ったことをしたと気づかされたときは、悔い改めて」、もういちど造り主の方に向き直ることこそが「救いにつながるのだ」ということを教えているのです。

ここまで「神の御前に出て、神を礼拝すること」の招きがなされている箇所を読みました。神を礼拝することで、「神がどなたであるのか」が確認できます。そして「この神というお方と、自分の関係が見えるようになり、そのことから、神の元から離れてしまいがちな自分が、それでも神によって救いの恵みをいただけるのだ」ということにより確信をもって歩むことができることを見てまいりました。

そのことを大前提として、後半で、この詩人は「創造主である神から離れて行ってしまった、イスラエルの過去の過ちに目を向けさせようとしています。そのことで「同じ過ちを繰り返さず、主と共に歩むことの恵み」を再確認させようとしているのです。

それでは8節から11節を読んでみましょう。

ここに出てくることは、いずれも「神が民たちを特別に憐れんでくださって、奴隷状態にあったエジプトから脱出させ、約束の地カナンに導かれていた、その道中に起こったこと」として旧約聖書に記されていることです。マサの出来事は出エジプト17章に、メリバの出来事は民数記20章に出てきます。

 いずれも「神が特別の恵みの御手のうちに、滅びに向かいそうな状態から救い出してくださった」のに、神に不満をいいます。ついには「自分たちに都合のよい偶像をつくりだしてしまった」のです。そのことは神がお怒りになることでした。

10節と11節は、ただ民たちがご自身の御心から離れたことだけでなく、神を試したり、意図的に「神から目を背け、別の都合の良い神を作り出した」ことに対しての激しい怒りが表されているのです。

 この神の「聖なる怒り」に対し、私たちはもっと目を向けねばならないのではないでしょうか?

今日の詩編95編の前半、1~7節で確認したように、「神が、すべての創造主であり、すべての者の導き手、養い手である」そのことを心に留めるなら、「神お嫌いになること、そして怒りを表されること」があることはご理解いただけると思います。

最初に少しお話ししましたが、私たち日本基督教団は、実は戦前の政府の国策によって誕生した「教団」なのです。

 もともと違いもった教派のプロテスタント教会を「合同させる」ことで、統治・管理しやすくし、「思想統制しやすくしたい」と考えた軍部の策略に対して、「ある程度の数の教会、信徒数がなければ宗教法人格が取り消されてしまうかもしれない」と恐れたプロテスタント諸教派側は、その合同案に乗りました。

そうして誕生した、私たち日本基督教団ですが、ホーリネス系の教会・教師が弾圧されたとき、証言した当時の教団上層部は、「あの人たちの信仰が狂信的で学がないだけなのです」などといって切り捨てました。

その後も、教会のお金で軍備品を上納したり、侵略戦争でありながら、その勝利を教会で祈るように指示するなどしました。

これらは「明らかな罪」であり、「知らなかった。時代的に仕方なかった」では済まされない、神の前で、深い悔い改めをせねばならないことです。

1967年、日本基督教団は当時の鈴木総会議長の名で「第二次大戦下における、日本基督教団の責任についての告白」を声明文として出しました。

 戦争時に「国策によって合同させられたことによって誕生した日本基督教団」が、今度は「その過ちを二度と犯さず、神のみ旨にしたがって、この世に赦しの恵みを証資する群れとして」歩むことを決心したのです。

今日の聖書箇所の詩編95編が、「神殿が再建されたときに、新たな歩みを始める際、神の救いの恵みとともに、過去自分たちが犯した大きな過ちを繰り返さない」という決心を新たにしたように、毎年2月11日は、私たち日本基督教団の各教会は「キリストの十字架と復活の恵み生かされていることを確認」するとともに「過去、自分たちの教団がやってしまった、神が怒られているだろう大きな過ちを、二度と繰り返さない」と心に誓って、あらたな旅立ちをする日にしようではありませんか。

今、世界では「自分を正当化して」、もっといえば「自らの信仰を正当化」して、人を傷つけることが絶え間まなく起こっています。そんな世にあって私たちは、どのように生きてけばよいのでしょうか?

今日の聖書の言葉を、胸に刻みましょう。

神の御前に出て、自分を低くし、「神の御心を尋ね求め」主に従っていきましょう。そして神のために、この世のために、自分が為すべき務めが示されたなら、祈りつつ愛をもって行って参りましょう。(沈黙・黙祷)