
3月1日 受難節第2主日礼拝
「過越しが成し遂げられる」隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書 22:1~20
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今日の礼拝は、イエス・キリストの十字架での「お苦しみ」がいよいよ間近になっている場面…絵画で描かれて大変有名な「最後の晩餐」の場面です。
毎月一回、この山口信愛教会の礼拝の中で執り行っている「聖餐式」。ちょうど今日執り行われるわけですが…これは世界中のキリスト教会が大切に守り抜いてきたその儀式の由来が今日の箇所に出てきます。早速御言葉を味わってまいりましょう。
1から6は後程軽く触れますので、まず7節から13節をご覧ください。今日は聖餐式もあり、時間がありませんので「過越しの祭りや除酵祭」についての解説は省きます。新共同訳聖書の最後のところに「過越し祭」や「除酵祭」についての解説も書かれていますし、その出来事そのものは出エジプト記11章12章に書かれていますので、ご自分でお読みください。
7~13節を読む上で大切なことの一つ目は、「イスラエルが伝統的に記念してきた過越しの祭りのときに、イエス・キリストは十字架にかかられたのだ」ということです。
少し前の説教でお話ししましたが…聖書のことをあまり知らないまま神学校に入った私は、東京聖書学校1年生のとき「旧約聖書素読」という授業で、教授から「出エジプト記14章に書かれている葦の海の奇跡は、新約時代における洗礼を表すものだ」と教えてもらい、そのとき「目からうろこが落ちた」ように感じたとお話ししました。
それは同時に「出エジプト記11章12章で記された、過越しの出来事が、イエス・キリストの十字架による罪の贖いを表すものだった」ということも、やっと理解ができた瞬間でした。神の特別な憐れみによって「エジプトを脱出できた」ことをイスラエルの民たちが「忘れずに記憶し続けるために」過ぎ越しの除酵祭を大事にしたのと同じ意味合いが「聖餐式にあるのだ」ということも、洗礼を受けてかなり経った「あのときに」やっと理解できたことを思い出します。
神の特別な憐れみによって「私達の犯した罪が、裁かれることなく、過ぎ越される」そして「神の用意したもう約束の地に向かうことができること」を喜び、感謝するのが「イエス・キリストの制定してくださった聖餐式」だということが、少しずつ理解できるようになり、やっと「自分なりに理解できて」いま聖餐式を執行させていただいています。
皆様の中にも「聖餐式をなぜ行うのか、いまいち理解が追い付いていない」という方もあるかもしれませんが、今日の礼拝を通して、聖餐式をもつことの意味がご自分なりに少しでも深まっていただいたら幸いです。
そして大切なことの二つ目はイエス・キリストは十字架で死なれる直前のこのとき、どうしても過ぎ越しの食事を「聖餐式」を制定されたかったのだ、ということです。
当時「都エルサレムで、祝うことが奨励されていた除酵祭」ですので、その食事をする部屋がなかなか確保しにくかった状況がありました。そんな中、イエスが「あらかじめ食事ができる部屋を用意されていたこと」が分かります。しかしとても回りくどい伝え方をしているなと感じられるのではないでしょうか?
それはユダや宗教指導者たちが「群衆のいないときに逮捕したい」と策略を練っていたことをご存じだったからだという説が有力です。過越しの食事をする「部屋」こそ逮捕するには絶好の場所だったのですが、1~6節の内容から推測すると「どの場所なのかが具体的に分かってしまったら、食事の途中で逮捕される可能性が高かった」のではないでしょうか。だからイエスは、「ご自分の逮捕より前に、過ぎ越しの食事をし、聖餐式を制定されたい」と願われたのです。
このあと私たちがもつ「聖餐式」は人間が考えだしたものではなく、主イエスご自身が制定してくださったものなのですが、わたしたちが罪から救われるために必ず!制定したい、つまりは「定めたい」と願われたもので、イエス・キリストの「アガぺーの愛、無償の愛がつまったものだ」ということを覚えながら聖餐にあずかりましょう。
残りの時間14節から20節までを読みます。
これは聖餐式の「式文」の中に出てくる言葉そのものだとお気づきになった方も多いと思います。
イエス・キリストは「エジプトからの救出というイスラエル民族の救いの記念の食事」を更新して、「ご自身の十字架の死による罪と死からの救出という、全世界のすべての人が与ることができる記念の食事」を制定されたのです。
そして印象的な言葉として、20節に「新しい契約」という言葉が語られます。
神・キリストが私たちと結んでくださる契約は「恵みによって一方的に与えて下さるもの」なのです。それでも神の子イエス・キリストが「契約」と呼んでくださるのは、神自らが「行う義務を負って下さった」ということです。
何の義務を負ってくださったかというと、「ご自分の血によって罪の裁きから過ぎ越す、つまり救い出す」という義務なのですが、この義務がなされるのだという新しい契約が「聖餐式」によって確認できるのです。
私達一人ひとりは誰も皆「罪」をもっています。その罪を自分で清算することができないのです。聖書には、罪が死をもたらすとはっきり示されています。
しかし、イエス・キリストを罪から救う「救い主だ」としてはっきりと受け入れ、告白するなら「罪の審判」から特別に過ぎ越される…その約束が確かに確認できるのです。
そしてもう一つ19節にある「記念としての聖餐」も心に留めましょう。
「記念する」とは、一言でいうなら「思い出すこと」になろうかと思います。このあと十字架にかかって死なれるイエス自らが「聖餐の意味」として、「わたしが血を流してあなたがたの罪を贖ったことを忘れないで生きていくためだ」と教えて下さっているのです。それだけ、私達人間が「忘れやすい生き物である」ということをご存知だからでしょう。
イエス・キリストを救い主として受け入れたときの決心や、洗礼を受けたときの喜びをずっともっていたいものですが、私たちはそれらを忘れてしまいがちです。
イエス・キリストは私の罪のために十字架にかかってくださった…その思いが薄れてしまうことも実際あるのではないでしょうか。
しかし、そんな「罪深いだけでなく、恩知らずな私たちを」それでもとことん愛してくださるのが主イエスなのです。
「神の国が来るまで、ふたたびぶどう酒を飲むことはない、過越しの食事をすることはない」と主イエスは仰っていますが…それは、私たちが「この地上で与えられた時間を走り終えた後、永遠の命をいただいて、御国で再び、愛の食卓につくのを待っている」というお気持ちの表れです。主イエスはわたしたちが「過越しの恵み」を受けられる、つまり「罪が赦されて、キリストにあって新しい命をいただけるように」と待っていて下さるのです。
今日も明日も「この愛を覚え続けながら」歩んでまいりましょう。(祈り・黙想)
