8月14日 聖霊降臨節第11主日礼拝・聖餐式
「門から入る者、他の所を乗り越えて来る者」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書 9:35~10:6
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一週お休みをいただきましたが、現在山口信愛教会の主日礼拝では、ヨハネによる福音書から続けて御言葉を味わわせていただいています。2週前、瞳牧師によって9章の39節までが語られました。
9章は、目の不自由なある男の人が、「イエスの深い愛と憐みによって癒され、見えるようになった」物語が語られています。しかし!とくに9章の後半では「見えるようになる」ということが「ただ病や傷が癒され、見えるようになった、というだけのことではない」ことが教えられるのです。
目の見えなかったこの人は「神が遣わして下さった救い主イエス・キリストを見た」のです。イエスと出会い、そしてイエスを信じる者とされたのです。
このようにイエスを見ることができなかった人が「心の目を開かれ、見ることができるようになる」ということが教えられるその一方で、イエスが来られたことによって「見えていると思っている者が、見えないようになるということも起るのだ」ということが39節で教えられていました。
今回はその「見えるものが見えなくなる」つまり「自分は見えると言っている者が、実は本当に大切なものが見えていない」ということについてさらに深めて教えられている40節以下を共に読みたいと願います。共に御言葉を味わいましょう。
まず40節、41節を読んでみますので、皆さんも目で追って見て下さい。
40節の言葉は、ファリサイ派の人々が「自分たちはただ視力に問題がない」ということを言っているのではありません。彼らが「目が見えるのに!」と言って怒っているのは「自分には霊的な眼力があるのだ」という自信があったのです。
その自信は彼らの24節の言葉で分かります。1頁めくって24節を見て下さい。
これはファリサイ派の人たちがイエスのことをどう見ていたかが現れているものですが、「わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ」と言いきっています。
そのようなファリサイ派に対しイエスは、41節で厳しい言葉を投げかけられます。自分が「見える」と思っている者、つまり自分には罪がないから人を正しく裁くことができると思っている者こそ、本来見なければならないものが、見えていない状態なのだ」ということです。
「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう」という言葉は一見分かりにくいですが、大変深い言葉です。
それは「自分は神の真理が見えていない罪人だという自覚を持つ」ことが「罪の赦しを神に願い求めること」につながり、それが「神の御心・真理が見える」ことにつながっていくということです。
一方後半ではその真反対のことが教えられます。「自分は神の真理が見える。自分は何でも神の御心を行うことのできる善人だ」と思っているなら、救い主キリストに罪を赦していただこうと願うことはしないだろう。そうであるならイエスを信じて罪の赦しにあずかることは起こらない。つまり赦されることなく罪が残り続け、永遠の命ではなくて滅びに至っていくという厳しいことが教えられるのです。
そのことを話された後、続けて10章の「羊の囲い」の譬えが話されるのです。
きょうはその譬えの中の6節までだけを見てまいりましょう。(1~6を読んでみます)
ここの箇所は、紀元1世紀末の教会の状況を反映させてヨハネが記したと言われています。1世紀の末、イエスを救い主と認めないファリサイ派のユダヤ教によってクリスチャン達は迫害を受けるようになっていて、ユダヤ人のクリスチャンであっても「共同体から追放される」ということが起っていたのです。
ファリサイ派の人々は、罪人たちを導く真の羊飼いとして来られたイエス・キリストを救い主と認めないばかりか、「自分たちこそが神の民イスラエルを導く羊飼いだ」と自負していました。
しかし!実際のところは、1節のイエスの言葉にあるように「正しい門を通らない彼らは、羊を追い散らす盗人になっていた」のでした。
正しい羊飼いとは、「イエス・キリストという門から入り、イエス・キリストを信じる信仰によって人々を導く教会の指導者たち」のことです。2節から4節には、その「イエス・キリストを信じる信仰によって人々を導く羊飼い」に養われる教会の姿が描かれているといわれています。
「門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」
ここには、羊飼いが自分の羊の名を知っており、つまり一人ひとりのことをちゃんと知っていてその名を呼び、先頭に立って導いていくこと、そして羊たちもまた自分たちの羊飼いの声を聞き分けてその人に従っていくという様子が語られています。
これは、来週の箇所において語られる「イエスこそが真の大牧者である」ということももちろん教えられるのですが、キリスト教会の姿も描かれていると言われます。
イエス・キリストという門を通って来る人間の羊飼い、指導者の下に「イエスの羊の群れである教会」が養われ、導かれている様子が語られているといえるのではないでしょうか。
このように今日の礼拝を通して見た聖書箇所には、「自分は神の真理が見えている」と過信し、自分の罪が見えなくなった者たちが、暴走する様子が描かれます。正しい羊飼いがいる一方で、神を信じながら「盗人や強盗」になり得ることがあるということが教えられているのです。
今の時代にも、イエスという門を通ってきた羊飼いがいるだけでなく、ほかの羊飼いのふりをしているが実は盗人であり強盗である者がいることを覚えねばならないと感じます。
最近世間を騒がしている団体以外にも「神や救いを教えながら、教会を破壊するようなカルト集団」が実際にあるのです。
私たちは「羊飼いと盗人」をきちんとと見分けなければなりません。何によって見分けることができるのかというと、それは「イエス・キリストという門を通って来たかどうか」です。イエスによって遣わされ、イエスのもとへ人々を導く者だということです。私も牧師として、今日の箇所の厳しい言葉を覚え続け、「自分は見えていない罪人であるけれども、イエス・キリストによって罪赦された羊飼いだ」ということを重く受け止め、これからも神・キリストから託されたこの教会を導いてまいりたいと願います。
最後に大切な「羊飼いの声」に注目してメッセージを閉じます。
羊飼いの声のことは3,4,5節で教えられています。
3節に「羊はその声を聞き分ける」とあります。4節にも「羊はその声を知っているので、ついて行く」とあり、5節には「しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである」とあります。
羊である一人ひとりが、「羊飼いの声を聞き分けて、その声だけにのみついて行くこと」が求められているのです。
そのために私たちは、羊飼いを遣わして下さる主イエス・キリストの声を知っていなければなりません。主イエスの声を聞いて知っていれば、主イエスから遣わされた羊飼いの声を聞き分けることができるのです。
つまり私たちが羊飼いの声に従っていくためには、それぞれの羊飼いの「門」であり、それぞれの羊飼いを養っておられる「大牧者であるイエス・キリスト」が語りかけておられる言葉をしっかりと聞いていることが必要なのです。そのイエス・キリストの言葉は聖書に記されています。
聖書が我流に読まれるのではなく、正しく読まれること。そして人間の羊飼いだけれども「イエスによって遣わされた羊飼いである牧師」によって語られるメッセージによって「見かけは羊飼いだが実は盗人である者の声」を聞き分けることができるようになります。しっかりと備えつつも、一方で安心して歩みましょう。
これからも山口信愛教会全体で「自分は神の真理を悟ることのできない、罪人である」ことを謙虚に受け止めつつ、真剣に「聖書の言葉」を学び、神・キリストの声とそれ以外を聞き分けて、しっかりと聞き従っていけるように、地道に歩んでまいりましょう。 (祈り・沈黙)
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