5月25日 復活節第6主日礼拝
「隠れたところにおられる父に祈る」 隅野瞳牧師
聖書:マタイによる福音書 6:1~15
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本日は、私たちがどなたに向かって何を祈るのか、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉に与りましょう。
1. 父なる神は隠れたところにおられ、見ておられる方である。(4,6節)
2. 御心が地に行われるように祈る。(10節)
3. 神に赦された者として、私も人を赦す。(12節)
1. 父なる神は隠れたところにおられ、見ておられる方である。(4,6節)
主イエスは山で、弟子たちと群衆に語られました(5~7章)。幸いな人や律法の本質について、そして本日の箇所では、ユダヤ教で敬虔な業の代表である施しと祈りについて教えられます。
「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」(3~4節)
イスラエルにおいては旧約の時代から、外国人や孤児、夫を失った女性などを守ることが神の御心として大切にされてきました。神殿の外には施しを乞う人がおりました。ここでは施しをする時にラッパを吹き鳴らす人がいたとあります。個人的な施しの際にラッパを吹き鳴らすというのは変な話です。自分をうるさいほどにアピールするという意味かもしれません。主イエスは、たとえ善い業であっても偽善者…人にほめられるためにそれを行う人になってはならないと言われました。そのように人からの栄誉を得た人たちは、天の父なる神に報いをいただけないのです。
施しをする時には右の手のすることを左の手に知らせない。つまり自分で自分の良し悪しを評価することもしないで、主に導かれてやったならそれだけでよいのです。神が報いてくださると、主イエスは語られます。信仰者であれば神からの報いさえも期待しないで、善い行いをすべきと思うかもしれません。けれども大いに、神の報いをいただいてよいのです。なぜなら神のお与えになる報いは、「父よ」と呼ぶことができるほどの愛の交わりの中に私を生かし、神の子どもとし、永遠の命を与えてくださることだからです。私が善い行いができるとか何かに成功したから、そのようにしてくださるのではありません。罪ある人間が御父に祈ることができるために、主イエスが十字架にかかり、私たちの罪を担ってくださったからです。
誰の目に留まることがなかったとしても、主にあってなされたことは無駄になりません。私たちは知っています、涙をもって種を蒔いたことが時を経て、不思議なように実を結ぶ時が来ることを。隣人の幸いや救いを喜べる自分になって、「まことに主は生きておられる」と知らされることが、何よりの恵みです。
御父は隠れたこと、善い面も悪い面もありのままの私を、ご覧になっています。しかしそれは恐ろしいことではありません。いつも主がともにいて見守ってくださるのです。間違った歩みをしそうになっても、主のまなざしの前にいることを思い出す時に、「私はこれをすることはできない」と断ることができます。人や世間はどうであったとしても、生ける主の御前にある者として私たちは歩むのです。
「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」(6節)
次に祈りですが、当時は一日に三度の祈りをささげることになっていました。その時刻にわざわざ大通りに出て祈る人がいたのです。これも人に「あの人は信心深い、なんと立派な祈りをささげることか」と言われたいからでした。神に向いていない、そのようなものが祈りと言えるのでしょうか。しかし知らないうちに私たちの信仰生活も、人ばかり見ているかもしれません。
御父は隠れたことを見ておられるだけでなく、御自身も隠れたところ、天におられます。通常は人の目に隠されていますが、主がおゆるしになる時だけ開かれ、人は神の栄光を見ます(創世記28:12,17、使徒7:56)。御父が隠れたところにいてくださることを知って、私たちは慰められます。こんなところにはおられないだろうという孤独や苦しみの中にあっても、神はそこにおられます。「わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。」(列下20:5)「天に昇ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府(よみ)に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。」(詩編139:8)
そのような御父にお会いするために、心を静めて一人になり、御言葉と祈りに向かう時が必要です。主イエスはいつも弟子たちや群衆に囲まれていましたが、ひとり退いて祈り、御心を求める時を欠かすことがありませんでした。私たちも人の目を気にせず祈れる場所を確保し、心を注ぎ出して祈りましょう。その祈りのうちに御父に取り扱われて、満たされていくのです。この祈りが信仰の軸をしっかり建て上げて、他の人と祈る時にも、主に心を向けて祈ることができるでしょう。
マタイ25:31~40では再び来られた王なるイエスの前に、神の国を受け継ぐ者たちが出ています。私が飢えていたり貧しかったり、病気の時にお前たちは見舞ってくれた、と王が言うと彼らは驚きます。王に対して愛の業をした覚えがない彼らに対し王は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と答えます。私たちがだれかに愛の業を行う時、それはその人の内に隠されている主にしたことなのです。隣人に愛を注いでも予想外の反応が返ってきて、やめたくなることもあります。けれども自分の力では愛せないその方を通して、主は私たちを悔い改めや謙遜に導かれます。主の助けなしには何事もなしえないことを知らされて、今日も祈っていくのです。
「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(8節)
主イエスは続けて、異邦人のようにくどくど祈るなと言われました。長く熱心に祈れば聞かれると考えるのは、神を自分の祈りで動かそうとすることです。しかし神はすべてをご存じであり、私たちに関心をもってくださるのですから、信頼して祈ればいいのです。
2. 御心が地に行われるように祈る。(10節)
「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」(9~10節)
隠れたところにおられ、わたしたちの必要を知っていてくださる神に、どのように祈ったらよいかを主イエスは教えてくださいました。少し訳は違いますが、礼拝で「主の祈り」として祈っているものです。祈る中で私たちは、この祈りにふさわしい者に変えられていきます。
主イエスが教えてくださった祈りの前半は、父なる神についての祈りです。神を知る前、私たちは自分の願いを一方的に祈るだけでした。しかしここでは、まず神のために祈ることが教えられます。私たちは、天におられる私たちの父なる神に祈ります。天はこの地上の見える世界を超えた、神がおられるところです。
神に向かって「父」と呼べる。それは私たちが御子によって、神の子とされているからです。神はまた「わたしたち」の父でもあります。主の祈りを祈る時、自分のことだけを考えていた私たちが、隣の人のためにも祈るようになっていきます。家族や友人、教会、世界の課題に目を向けるようになります。これは私たちが祈れない時に、私のために祈ってくださいとお願いしてよいということでもあります。
祈りは「御名が崇められますように」で始まります。直訳すれば「あなたの名が聖とされますように」、神が聖なる方とされるように祈ります。神の御名ははじめから聖なるものです。聖なるものとしていない、神を神としないのは私たちです。自らを神とし、神以上に大切にするものがある時、私たちは御名を汚し軽んじているのです。
しかし神に向きなおる時…自然の美しさや偉大さに心震え、聖書を通して神の愛の深さを知るほどに、神を賛美せずにはいられなくなります。「主を賛美するために民は創造された。」(詩編102:19)神を神としてあがめる時に、私たちは最も自分らしく輝き、喜びに満ち、隣人を愛して生きることができます。日曜日の礼拝だけでなく、日常の中で神をあがめる私たちであるなら幸いです。救いを受けた私たちは、自分のすべてをもってキリストが崇められることを願うようになります(フィリピ1:20)。
第二の祈りは「御国が来ますように」です。御国とは神の国です。日本などの特定の場所ではなく、神が愛によって治めておられる状態のことです。主イエスが人となって来られ、私たちを罪から救う神の愛がこの世界に現れました。しかし神の国は完成の途上にあり、主が再びおいでになる時に完成します。この世界は神の愛とは程遠く、闇の支配に勝つことはできないのではないかと感じます。しかし私たちはこの世界に神の愛が満ちるように、希望をもって祈り続けましょう。「神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:21)私たちが愛し合う時、そこから神の国が広がっていきます。
三番目は「御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」1~3の祈りは、同じ内容を違う角度から祈っていると言えます。御言葉に聴く中で私たちは、神の御心があると知りました。神の御心はすべての者が神のもとに立ち帰り罪から救われること。神と人を愛し自分の使命を生き切って、天で永遠の命に生きることです。そして地上にも御心が行われますようにとの祈りは、平和を求め、弱い立場にある方々が守られる社会を求める祈りにもつながっていきます。
御心を考える時にとても大切なのは、神の御心は私たちの思いをはるかに超えているということです。私たちが願うことがすぐに、その通りに聞かれないことも多いのです。しかしこの祈りを祈る中で、自分自身が変えられます。神は私の思いを超えて最もよいようにしてくださると、おゆだねするようになります。
十字架の直前、ゲツセマネで主イエスは祈られました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:36)この後半の祈りに至るまでに、御子は御父に何度も苦しみの祈りをされました。すべての人の救いのために十字架にかかることが、御父の御心であることはわかっていました。けれども御心がわかることと従うことの間には、長い闘いがあるのです。だからこそ私たちは祈りますし、そこで信仰の成長があるのです。
3. 神に赦された者として、私も人を赦す。(12節)
「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」(11~13節)
主の祈りの後半は、人との関係の祈りです。食べる物と罪の赦し、悪から救い出されるよう求めなさいと主イエスは教えてくださいました。まず「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」「ほしい」ものではなく、本当に「必要な」ものです。自分で必要を見分けるのは難しいものです。すでに十分与えられているのになお欲しがり、他の人の分までにぎろうとする私たちです。私たちに必要なものをご存じの神が今日の必要を備えてくださることを信じて、必要でないものは手放せるように、私たちは祈るのです。今日も命や生活が保たれているのは、神がこの世界を保ち、食べ物や福祉、家族や友人、仕事や住む場所を備えてくださったからです。神はまた多くの人を背後に置いてくださり、その方々の手によって私たちは恵みを受けることができています。そのことを感謝いたしましょう。
この祈りは「わたしたち」の祈りです。私だけが食べ物を与えられればよいという祈りではありません。災害や戦争、貧困の中で飢えている人たちにも、食べ物や生活の支えが与えられることを祈るとともに、私自身が、五つのパンと二匹の魚を差し出した少年のようになることを願います(ヨハネ6:9)。今日までお守りくださった主が、必要な糧は今日、日ごとに与えてくださいます。明日のことを思い悩む時、この祈りによって今日を歩みましょう。
次に、罪の赦しを求める祈りです。「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」私たちが人を赦すことが、神に赦される条件ではありません。私たちはすでに赦されているのです。神に赦されてはじめて、本当に人を赦すことができるからです。主イエスの十字架によって罪赦された者として、人を赦し、愛する者として生きるのです。この祈りが祈れない時もあります。それでも主と兄弟姉妹の助けをいただきながら、心が伴わなくても祈り続けましょう。主が御言葉のとおりに私たちを変えてくださいます。この祈りも「わたしたち」の罪の赦しを求めます。戦争がやみ、人々が悔い改めに導かれて赦し合えますように。主の赦しの福音が伝えられるよう祈るなら、祈る人自身がこの福音を伝える者となるでしょう。
最後の祈りは「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」神に出会う前に私たちは自分の思いのままに生きており、自分が罪人であることを知りませんでした。ですから罪と戦うこともありませんでした。しかし私たちが神の子とされ御心に従って生きていく時に、自らの罪との戦いが始まりました。 そのような歩みをする私たちには、この祈りがどうしても必要なのです。
聖書には、私たちを神から引き離そうとする悪魔という存在があると記されています。心地よく幸せになれるようなものや人を通して、神に従う道から外れさせようとする強い悪の力が、私たちの内に働きます。この世にある限り誘惑に遭わないで生きることはできませんが、誘惑に気づくことはできます。自分は大丈夫と考えることなく、すぐにそこから逃げて関係を断つことです。これも「わたしたち」の祈りですから、誘惑に陥ってしまいそうな時には、信頼のおける方に話し祈っていただきましょう。
主イエスは私たち人間の苦しみをすべて経験されました。そのご生涯は誘惑の連続でありましたが、御言葉と祈りによって勝利されました。荒野において主イエスは、石をパンに変えよ(自分のために奇跡を起こし空腹を満たせ)、神殿から飛び降りよ(神が守ってくださるから何をやってもよい)、悪魔を拝むなら世の国々と栄誉を与える(十字架につくことなしに王になれ)という誘惑を受けました(4:1~11)。しかし主イエスはそれらを退けられました。十字架の時までも悪魔は人々の声を使って、神の子なら自分を救え、十字架から降りて来たら信じてやろうと攻撃をし続けました。しかし主は苦しみの極みにおいてもひたすらに御父に祈り、信頼し、私たちの救いのために叫びをあげて、十字架の道を歩み通してくださったのです。それはまさに主の祈りでありました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)
主イエスは弱い私たちのために、この祈りをお与えくださいました。ただお一人、悪魔に勝利された主が私に代わって戦ってくださることを、願い求めましょう。
父なる神にいよいよ信頼し、祈りにおいて神の愛を深く味わっていきたいと思います。神の救いがこの地に広がり、神のご栄光が現わされることを喜ぶ人が増し加えられますように。神に愛されている子どもとして、恵みに応えて、ともに主の祈りを生きていきましょう。