「霊のとりなし」5/5 隅野徹牧師


  5月5日 復活節第6主日礼拝・聖餐式・役員任職式
「霊のとりなし」隅野徹牧師
聖書:ローマの信徒への手紙 8:26~30

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 先週、キリスト教界にとって大きなニュースが飛び込んできました。

皆さんもご存じだと思いますが、クリスチャンで画家の「星野富弘さん」が天に召されたというニュースです。

 不慮の事故によって首から下の自由を失い、闘病生活の中で「絵手紙風の詩画」を書かれるようになり、それが多くの人の励まし、慰めになったことは世の中全般に知られていますが、星野さんがどういう道のりをたどって洗礼を受け、クリスチャンになられたのかについては、あまり知られていないように思いますので、メッセージの最初に少し紹介させてください。

星野さんには「事故に遭う前の体育教師時代」からクリスチャンの友人がおられたそうです。そのご友人は星野さんが入院してすぐに「聖書」を差し入れとしてもっていき、読むように勧めたそうですが、星野さんは「全く読む気にならず、荷物の奥にしまい込んだ」のだそうです。 もともと体操部で「自分の体を鍛え上げて生きてきた星野さん」には、「聖書を読んで神に頼るほど自分は弱くなっていない」という思いがあったからだそうです。

転機となったのは、同じ病院で大きなケガをして入院しているクリスチャン女性から「三浦綾子さんの小説を読むように」紹介されたことだったようです。やがて三浦綾子さんの言葉に心を動かされるようになり、ご友人が持ってきた聖書を読み始めるようになってということです。

そして星野さんが「イエス・キリストを救い主として受け入れるある出来事」が起こります。それは、ご自分と同じような大けがを負った少年が、ケガから回復したとき「強い嫉妬を覚えた」という出来事だそうです。 もともと、その少年を心配し、励ましていたのに、僻みからか「治らなければよかったのに」とさえ思うようになったというのです。

星野さんはその時の心情を、後年「自分が正しくもないのに、人を許せない苦しみは、手足の動かない苦しみをはるかに上回ってしまった。」と記しておられます。

本当の自分の姿に向き合うようになった結果、星野さんがイエス・キリストを信じ受け入れる決心があたえられたのが、ちょうど山口信愛教会が5月の聖句として外の掲示板に掲げているマタイ11:28の言葉でした。「疲れた者、重荷を負う者はわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

星野さんは、1974年12月22日、事故が起こった4年半後に、病室で信仰告白をし、洗礼を受けたのです。その後入院生活は9年間にも及びましたがキリストにあって、新たな生きる意味を見出しました。そして恵みを自分で留めておくのではなくて「絵や詩を書きくことでキリストによって生かされている喜びを、まだキリストを知らないでいて苦しんでいる人々に伝える」使命に生き、そして先日天へと凱旋されたのでした。

 さて、今日の聖書日課の中にローマの信徒への手紙8章があり、予め選んでいましたが、この中で最も有名なのは28節でしょう。「万事が益となるように、すべてのものが共に働く」というこの言葉が愛唱聖句だという方も多いことでしょう。そして、これまで話してきた「星野富弘さんの生涯」と結びついてイメージした、という方もおられるのではないでしょうか?

しかし、今日わたしが皆さまにお伝えしたいのは、このローマ書8章は「苦しみが結局は益となった」という人生訓が教えられているのではない!ということです。

きれいな美談というより、26節にあるように「言葉に表せないうめき…」があって、そこで「イエス・キリストの霊である聖霊のとりなしがあって」それではじめて「万事が益となった」といえる、大変に深いことが語られているのです。

限られた時間ではありますが、ここで聖書が語ろうとしていることを皆様と共に、深く味わいたいと願います。

 今日中心的に皆さんと味わうのが28節ですが、その言葉がどういう流れで出るかを確認しましょう。26節、27節をご覧ください。

26節の中頃に「私たち人間は、どう祈ったらよいかを知らない」という言葉がでます。

回心する直前のパウロも、そして「嫉妬の思いにかられていた星野富弘さんも」、そして多くの人が「自己嫌悪に陥るようにして、自分の罪に気づかされ、赦しを乞いたい」と神に祈ろうとする。しかしながら…どういのってよいのか「祈りの言葉が出てこない」という経験をするのです。 

でも、その葛藤の中で「神との関係が築かれる」ことを経験するのだ!と私は理解しています。

どういうことかというと…「わたしたちは神の御心がわからない罪深くて弱い者ですが…神の霊の執り成しによって「祈ることができ、神との人格的な交わりを深めていくことができる」経験をするのです。

今でも私のいのりは「たどたどしいもの」であります。しかし、そんな私の祈りを「神は聞いていて下さる」「イエス・キリストが天にお届けくださる」そういう確信が与えられるのは、本当に「聖霊のとりなしがあればこそ」だと思っています。

26節後半には「聖霊がうめきをもって執り成す」という言葉が出ますが、これも私たちにとって大変慰め励ましの言葉です。

聖霊が「私たちと共に、私たちに代って祈って下さる、その祈り」が「言葉に表せないうめき」だと表されているのです。それは私たち人間が、様々な弱さをかかえながらこの世をうめきつつ歩んでいることの表れだと理解されています。

神学生にいた時より、むしろ現場にでてからの私は「意気揚々祈る」ことはほとんどなかったように思います。「弱さでうめきながら祈る」そんなの日々の連続です。

それでも神の霊が、祈ることができずにいる弱い私と「同じ場所に立ち、その弱さを担って共に歩んで下さった」と今思うのです。

自分の弱さや罪と深く向き合わされるの中で祈りの言葉を失い、うめくしかない。しかし、神が私たちの内に遣わし、宿って下さっている「聖霊」が私たちと共にいてくださるのです。

次の27節には「神は私たちの心をすべてご存じである」ことが教えられます。「聖霊は私たちのうめきをよくわかっておいでのうえで、祈りとして神に届けて下さっているのである。

つまり!どう祈るべきかを知らない私たちのうめきが、聖霊によって神への祈りと変えられるのだということです。そのことによって弱い私たちと神との交わりが本当の意味で築かれるのです。なんと驚くべき恵みでしょうか。

つぎに今回の中心の28節を見ていきますが、前半ではなく、後半の「わたしたちは知っています」という言葉が理解のキーになると考えます。

「わたしたち」とは誰をさすのかというと、それは「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たち」を指すのだと伝統的に理解されてきました。今日はあまり深く見ませんが、続く29節や30節には「神が前もって召しだそうと定められた者があること、つまり神が特別に一方的な憐れみによって選ばれた者を義とし、特別に栄光を与える」ということが教えられています。

 このことから分かるように「神を愛する者たち」とは「万事が益となるよう、すべてが共に働くことを知っている、者たち」なのであり、それが「パウロやローマの信徒たちを含むわたしたち」なのです。

28節だけを切り取って「万事が益となる、というような人生訓」として読み取ってしまいそうになりますが、29節、30節で語られている「神の特別な憐れみによる選びを確かに受け取って、その約束に生きる者」の人生について語られている、ということがお分かりいただけるのではないでしょうか。

「神を愛する者」とは…「愛される資格のない罪人である自分を神が愛して下さり、キリストの十字架の死と復活によって罪を赦して下さった。義とされ、将来、天において栄光をいただける」そのことを感謝して生きる者なのです。

神の救いの恵みに感謝すること抜きに「苦しい出来事が役立って自分の願い事が叶えられる」のを期待することが語られているのでは決してありません。

「神を愛するわたしたち」が求める「益」とは、自分の願望ではありません。私たちの願いや望みは実現しないかもしれない…それでも神のみ心が全てのことにおいて実現する!それこそが「本当の益」なのだ、ということです。

28節の「御計画に従って召された者たち」という言葉にも、深い意味が隠れています。これには「神を愛して生きることが、人間の努力によってなされるのではなくて、神からの一方的な恵み・召しによるのだ」ということがよく表われています。

 神は救いの御計画によって、独り子イエス・キリストを人間としてこの世に遣わして下さり、その十字架の死によって私たちの全ての罪を赦し、復活によって永遠の命の約束を下さいました。この「キリストによる救いの恵み」に今、わたしたちは招き入れられています。

自分の願望をはるかに超えて、神の御計画によって召され、神を愛する者として生かされていることを喜んで生きることができる。だからこそ!!この世を生きる中で苦しみに直面していても、「神のみ心によって万事が益となるように」すべてのものが共に働くことを確信して歩むことができる!そのことを聖書は教えます。

冒頭にお話しした星野富弘さんはまさに、そういう生き方をされ、天へと凱旋されたのだと私は理解します。私たちも「神に愛されていることを知っている」ことで得ている恵みを、もう一度確認しながら、歩んでまいりましょう。 (祈り・沈黙)