毎年この時期(11月の中旬)に、西中国教区(島根、広島、山口県)の教会の牧師たちが集まり、研修会を行っています。
昨年は、松江でしたが、今年は尾道で開催されました。
今回のテーマは、「現代を生きる宣教(者)の課題を考える」で、牧師を養成する、農村伝道神学校校長の高柳富夫先生が講演してくださいました。
先生は、旧約聖書がご専門で、初日は「ルツ記」から主に、境界を越える「越境の神学」について御講演頂きました。
といっても、一般の方には、「ちょっと。。。」という感じだと思いますが、平たく言えば、聖書は、様々な境界線を消しゴムで消すようにして、皆が同じ地平に立つ神に造られた尊い人間であるという視点に立って人間を、そして創造主なる神を理解している、ということです。
これを「ルツ記」の言語であるヘブライ語から丁寧に紐解いてくださり、御講演くださいました。
久しぶりに神学校の授業にもどったようで、エキサイティングでした。牧師は時に立ち止まり学ばなければならないことを再度痛感しました。
二日目の御講演は、境界の神学Ⅱとして、聖書の創世記の原初史(創世記)を中心に、やはり言語的アプローチを丁寧に解説くださることで、聖書が、平等で対等な地平で人間社会を理解し、互いに助け合う(相互扶助と分かち合い)共同体を目指していることをお話しくださいました。
大変印象的だったのは、全体主義に陥り、自分で考えることを放棄してしまうのではなく、自分で考え、全体主義を克服していく聖書の指向を提示なさったことです。現代の私たちが決して失いたくない視点だと深く共感しました。
イスラエルの民は、北はアッシリアやバビロニア、南はエジプトの大国に圧迫された弱小の民でありましたが、「弱小であり、マイノリティーであるからこそ果たすことの出来る使命がある」との先生の主張は、順風満帆ではなく、様々にぶつかりながら、時に自分の小ささや醜さに向き合い生きていた私にとって、非常に胸のすく思いが致しました。これを福音と言うのでしょう。
二日目には、お隣の牧師として大変懇意にして頂いた、草地大作牧師(防府教会)の講演を聴きました。
来年4月から別れてしまいますが、草地牧師家族の新たな飛翔にエールを送ります。
最後のプログラムは、分科会に別れての協議。様々に刺激を受けた研修会でした。