「十字架に向かう真の王」
<聖書>ルカによる福音書19:28~40、45~48
隅野瞳牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
主イエスはご自分の使命をはっきりと意識して、十字架の場所となるエルサレムに進み行かれました。主は二人の弟子を使いに出し、まだ誰も乗ったことのない子ろばをほどいて引いて来なさい、誰かが「なぜほどくのか」と尋ねるなら「主がお入り用なのです」と言うように命じられました。「主がお入り用」とは、「このろばの(本当の)主人がろばを必要としておられる」ということです。私たちは最初、自分の人生の本当の主人を知らずに、自分中心に生きています。しかしそのような私たちに聖書は「あなたの本当の主はイエス・キリストです。」と告げます。あなたを愛し、罪から救うために十字架に死なれ甦られた主に従うことが、クリスチャンとされることです。そして救いを伝える働きのために「主はあなたを必要としておられます。」子ろばのように小さくても「どうぞお用いください」と差し出すなら、主は私たちを、また持ち物や能力を用いてご自身を現してくださいます。救われて終わりではなく、キリストの救いをまわりの人々に伝えるために、私たちは召されています。日ごとに「私は主のものである」ところに立ち返りましょう。ろばの子による入城は、ご自身が平和の王メシアである(ゼカリヤ9:9~10)とお示しになるためでした。十字架による罪の赦しは、神との平和が与えられることです。そこに国や身分を超えて主にあって愛し合う、神の国が実現します。私たちはこの平和の主の福音を運ぶ者なのです。
主は神殿の境内で商売をしていた両替人や鳩を売る者を追い出されました。彼らはローマのお金を神殿専用のお金に両替したり、傷がないと祭司に認定された鳩を売る時に、法外な利益を得ていました。また境内は異邦人が入れる唯一の礼拝場所でした。御父の家、人々が神に祈るための場である神殿なのに、神を忘れてもうけのために礼拝を利用する。本来神のものである献げ物や祈りを奪い取る行為に対して、主はお怒りになりました。主イエスを信じる私たち一人ひとりは今、聖霊が住んでくださる神殿とされています。私たちはいつでもどこでも主を礼拝し、主と共に生きることが許されているのです。そのような信仰者一人ひとりが主を中心として礼拝し交わる場が、建物としての教会です。私たちの内に、主との交わり、聖霊に従うことを妨げるものがあるならば、主に祈り取り除いていただきましょう。