広島の原爆のことを実は何も知らなかった、と恥ずかしい思いになったのは、今から8年前です。神学生の夏の実習として日本基督教団広島教会に行き、櫻井重宣牧師(当時)からヒロシマについて知らされたことによってでした。それまでは、原爆が投下された地として、広島、長崎を文字として知っていただけで、深い関心を寄せることはありませんでした。
広島教会は、爆心地に最も近い被爆教会であることを知りました。当時の四竃一郎牧師が、被爆後の焼けるような大地をおそらく裸足で踏みしめながら、家族を残した教会を目指し約4〜5キロの道のりを歩いたことを聞きました。そして、櫻井牧師とともに、同じ午後2時頃の炎天下の同じ道のりを自転車で、追想しつつたどる機会が与えられました。
実習中、生まれて初めて広島の地で8月6日を迎えたことも、私の魂に強烈なインパクトを与えました。いままで経験したことのない空気が、街中に流れていました。早朝、平和記念公園を目指して自転車をこいでいきながら、その雰囲気にのみ込まれそうであったことは忘れられません。
日本基督教団の牧師として、西中国教区(広島、島根、山口)に牧師として赴任してから、8・6には、できうる限り広島で祈り、自分の中で反戦の思いを風化させたくないと思い、今年も、8・6キリスト者平和の祈りへ出席しました。
はじめて伺いました。
祈りへと自ずと導かれるような荘厳な聖堂に、息を飲みました。
またヨーロッパの聖堂とも違う何かを感じました。
その理由は程なく肥塚侾司神父(カトリック広島教区司祭)のメッセージによって理解できました。
それは、この聖堂が、世界の平和を祈るために献堂されたものである「世界平和記念聖堂」であるということでした。
1950年に献堂された聖堂の正面には、死を乗り越えてご復活なさり、再びお越しになる再臨の姿が祈りをこめて描かれていました。
式のなかでは、会衆であの有名な、アッシジの聖フランチシスコによるものと伝えられている「平和を求める祈り」を神父と交互に朗読しました。
この祈りのひとことひとことが、深い意味をもって、私の胸に迫って参りました。