12月6日説教 ・降誕前第3主日礼拝・聖餐式
「インマヌエル(神は我々と共におられる)」
隅野徹牧師
聖書:マタイによる福音書1:18~25
説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。
先週から「主を待ち望む期間であるアドベント」に入り、今日はアドベント第二礼拝です。今年は、クリスマスまでの4回の礼拝を、初めての方に「クリスマスとは何を祝う日なのか」「クリスマスにご生誕を祝うイエス・キリストとは一体どんなかたなのか」が分かるような、「ザ、クリスマス」という感じの聖書箇所からメッセージを語ることにしています。
前回は、マリアが、天使ガブリエルから、イエス・キリストをお腹に宿していることを告げられる、いわゆる「受胎告知の箇所」でしたが、今回は、「ヨセフの側に天使からのお告げがある場面」を取り上げます。話のあらすじは先ほどの「こどもメッセージ」でお話しした通りです。
この主日礼拝では、天使の告げた内容の「言葉」を深めます。
マリアへのお告げを記したルカによる福音書1章と、ヨセフへのお告げを記した「マタイによる福音書1章では、内容が若干違っています。いくつも違いはありますが、とくに大きな違いの一つが、「ヨセフのお告げの方には、生まれてくる神の御子の名前が出ることです。
今朝は、この「救い主の名前」に注目して、クリスマスにご降誕をお祝いするイエス・キリストがどんなお方なのか、皆様と共に考えたいと思います。
まず、今も私が言いました「イエス・キリスト」という名前について確認しておきます。
イエス・キリストは、イエスが個人名でキリストが苗字ではありません。当時のユダヤ人の「名前・呼称」ですが、一般的には「出身地」が前、後ろに個人名を付けて呼んでいました。私の例えるなら、「山口市出身の徹さん」という感じでしょうか。
ですので、イエスは、この地上の生涯においては「ナザレのイエス」と呼ばれることが多かったのです。
では「キリスト」とは何なのかというと、呼称ではないのです。「キリスト」はヘブライ語の「メシア」のギリシャ語訳で「神に油注がれた者」を意味します。
旧約聖書の時代、神から特別な使命に任じられた人は、祈りの内に頭から油を注がれて「メシヤ」と呼ばれました。そこから、「キリスト」は、神が遣わされた救い主を指す言葉となったのです。クリスマスにお生まれになったイエスが「イエス・キリスト」とよばれるようになったのはかなり後のことです。
聖書では、弟子たち、使徒たちによって「クリスマスに人としてお生まれになり、ナザレという町でお育ちになった、あのイエスを救い主として信じるのだ」という、信仰の告白として「イエス・キリスト」という名が用いられ始めたことが分かります。
話が横道に逸れかけましたが、マリアのお腹に「聖霊の御業によって宿った神の御子」は「イエス」という名前を付けられたのですが、そのことにも大きな意味があるのです。まず一つ目のポイントとして「イエス」という名前に込められた意味を深めてまいりましょう。
イエスという名前ですが、当時はよくある名前だったようです。意味としては「神は救い」とか「神は救われる」という意味です。普通この名を付けるのは、「人々を救ってくださる神への信仰告白」としての意味合いを両親がもつ場合でした。しかし、イエス・キリストの場合、両親の信仰告白ではないのです。21節を読んでみます。
この「イエス」という名前は、天使がつけるように伝えたから、付いたことが分かります。つまり「神が予め定めた名前」だから、マリアとヨセフは「聖霊によってみごもった子」に対し「イエス」と名付けたのです。
神の側が名前を定めた理由、それは生まれる子が果たす特別な任務を示すためなのです。
「神は救われる」という意味の「イエス」という名を、聖霊によってみごもった神の御子が受けることによって「民たちを罪から救う」ことを成し遂げる子であることが表されているのです。
先週もお話ししましたが、聖霊の御業によって「罪のない人間としておとめのお腹に宿られ神の子イエス・キリストが、この世に来られた目的は、「人間を罪から救い出すため」に他なりません。
神のままの姿では人間のために身代わりになって死ぬことはできません。それゆえ、イエスは最初から「私たちの罪の身代わりとして死ぬために」、私たちと同じ肉体をもった人間として生まれてくださったのです。その後、十字架で死に、復活されることによって、私たちに罪の赦しと救いを与えてしてくださったのです。
クリスマスにお生まれになった「神の独り子キリスト」は、「イエスという名で、この地上を歩まれた」…そのことが聖書のこの箇所で強く語られているのです。
イエスという名は、神であるお方が、人間を罪から救い出すために、自ら犠牲となるためにお出でくださったことを表しているのです。このことを深く心に刻みましょう。
二つ目のポイントは、実際の名前ではない、別の「呼び名」のことです。
名前以外に「呼び名がある」人は多くいます。分かりやすい例えを、私の好きな「野球」で出してみます。
世界のホームラン王といえば「王貞治」、世界の安打製造機といえば「イチロー」のことを言っているというのが野球に詳しくない人でもわかるでしょう。他にミスタープロ野球といえば「長嶋茂雄」、鉄人といえば「衣笠幸雄」や「金本知憲」のことを指すなど、名前とは別に、その人の業績などを称えた「別の名称」がある人は多くあるのです。
ではクリスマスにお生まれにになった「イエス」の別の呼び名が何かというと、それが23節です。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
先程、イエスという名には「罪から救い出す業を成される」という意味があるとお話ししました。それともに、「人として誕生されるキリスト」が成されるもう一つの大きな内容が「神である方が、すべての人間と共にいてくださる、共感する心からの友として、一緒に歩んで下さる」ということなのです。
その神からのメッセージが、キリストが誕生される遥か前、預言者イザヤの預言の言葉に見ることができる…そう聖書は示しているのです。
神の独り子が、人として生まれ、罪の身代わりとなって死なれたというだけでも物凄いことですが、「ただ死なれた」言い換えるなら「ただ生け贄となるために生まれられた」のではないのです。
ともにいて下さる!私たちの心の友となる!そのために、この世に来てくださったのが神の独り子キリストなのです。
神であるのに、もっともみすぼらしい場所といえる「家畜小屋」でお生まれなさいました。そして生まれて間もなく、酷い権力者から命を狙われるという苦しみを味わわれました。
幼少期からずっと大工の子として汗水たらして仕事に励まれました。早くに父ヨセフを亡くしたと言われます。貧しい家庭を仕事で支える、という苦労も味わわれたのです。
神の子キリストは、王室や貴族の家に生まれて優雅で贅沢な地上の生活を送られたのではないのです。私たちの多くは、仕事や家庭で何等かの悩み、苦しみを持ちます。そんな私たちの苦しみを「神であるお方」が味わってくださったのです。
それは私たちと共にいてくださる!そのためなのです。
30歳を過ぎ、神の教えを宣べ伝えられるようになってからは、空腹や疲労を覚えながら、悩み苦しむ人に寄り添い、慰め、癒されたのです。それでも、指導者階級から妬まれたり、憎まれたりし、でっち上げの裁判にかけられ、死刑を宣告されたのです。
そして何も罪を犯されていないのに十字架の上で死んでくださったのです。それは本来「罪を犯した人が受ける苦しみ」なのに、「罪のない神の子」が代わりに苦しみを味わわれたのです。
私たちも生きていく上で様々な苦しみがありますが、そのすべてをキリストは味わわれたといっても過言ではないのです。
クリスマスにお生まれになった「神の子、キリスト」は「私たちを罪から救う、救い主」にして、「私たちと共にあゆむ心の友」であり「慰め主」であるのです。そのことをクリスマスの今のとき、深く心に刻めたらと願います。
最後に他の聖書箇所を1カ所味わってメッセージを閉じます。
私が読みますが、開ける方はぜひ新 書のP405をお開き下さい。ヘブライ人への手紙4章15節16節です。
冒頭の大祭司とは「イエス・キリスト」を表す言葉です。
この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐みを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
私たちもイエス・キリストの人としてのご生涯を深く心を留めることで、より大胆に神の恵みの座に近づいてまいりましょう。
(祈り・沈黙)
≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫