2月7日説教 ・降誕節第8主日礼拝・聖餐式
「いつも目を覚まして祈る」
隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書21:34~22:6
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続けて読んでいますルカによる福音書ですが、21章の後半まできました。いよいよイエスキリストが十字架にかけられる場面が近づいています。ここを読む私たちも「緊張感をもってしまう」箇所です。
今日のメッセージのテーマは、その「緊張感」についてです。心の中で良い意味での緊張感を保ち、「心が酔っぱらったような状態にならないように」教えられています。早速読んでまいりましょう。
今日の箇所は新共同訳聖書では2つの小見出しがついていますが、場面として3つに分けられます。
一つ目が34~36節、2つ目が37節から~22章2節まで、3つ目が3~6節です。
このうち結論的なメッセージが語られているのが「34~36節」ですので、そこを最後にみます。
はじめに37節から22章2節から読んでまいりましょう。(※よんでみます)
今回の箇所を理解する上でカギとなるのが2節だと思います。
ここの前半には「当時のイスラエルの宗教的指導者だった祭司長や律法学者たち」が妬みから、また自らの保身のためから「イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた」ということです。つまり、どういうことかというと、イエスを妬み、憎んでいた宗教的指導者たちは「イエスを殺したいのだが、なかなかそれを実行に移す機会がなくて困っていた」ということです。
なぜそれを実行できなかったのか、その理由は2節後半に出ます。
「彼らは民衆を恐れていた」からなのです。つまりイエスの話に夢中になっている「民衆」を恐れるがゆえに、イエスに手を出すことができなかったのです。38節に「民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た」とある通りです。
エルサレムに来られて以来イエスは、毎日、多くの民衆が集まる「神殿の境内」で教えておられました。それを人々は喜んで聞いているのです。民衆の支持を失うことを恐れている宗教的指導者たちは、そんな事情でイエスを捕えることができず「ああでもない、こうでもない」と策略を練っていたのです。
このことを頭に入れて、次の場面である3~6節を読みます。この箇所はいわゆる「ユダの裏切りが、具体的に始まった箇所」です。(※よんでみます)
イエスをどうやって捕えて殺せばよいのか、悩んでいた宗教的指導者のもとに、イエスの十二人の弟子の一人であった「イスカリオテと呼ばれるユダ」が訪ねてきたのです。そしてイエスを彼らに引き渡す相談をもちかけたのです。
5,6節にその詳細が明らかになっていますが、「ユダは、群衆のいないときに宗教指導者たちにイエスを引き渡し、その見返りに金銭を受け取る」という相談です。
イエスの側近であるユダの手引きがあれば、民衆の見ていない所でイエスを捕えることができる、そしてこの時ユダヤを支配していたローマ帝国の総督ピラトに引き渡してしまえば、後はローマの権力によってイエスを殺してくれるのではないか…」そのように考えて喜んだことが分かります。このように作戦をあれこれ考え実現しながら、なかなかできなかった「イエスの抹殺」は、弟子の一人であるユダの裏切りによって進んだということを聖書は教えるのです。
さて、12弟子でありながらイエスを金で売った「ユダという人物」については、様々な興味がもたれてきました。そもそもなぜユダはイエスを裏切ったのか、その心にあったのは何だったのか…ということについて様々な説が飛び交っています。例えば、イエスを社会的な改革者として期待していたのにそれが違うと分かったから」とか、イエスが「ローマの支配からイスラエルの民を解放する救い主として立ち上がるのを促すため」に裏切ったのだとか、色々言われます。
しかし、聖書が語るユダが裏切った理由」は実にシンプルです。それは3節にあります。
「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」
ユダの裏切りはサタン、つまり悪魔の働きによって起ったということです。そのことは、例えば他の弟子にも同じことが起こり得たということを教えているのではないでしょうか?
ユダだけを「特別な悪人」と考えてしまうことは違うのです。私たちの誰もが、サタンに支配されてイエスを裏切る者となり得るということを、聖書が示している、ということを心に刻みましょう。
しかし、一方で忘れてはならないことがあります。それは、何も悪くないユダが「サタン・悪魔の攻撃によって突然、悪人に凶変したのではない」ということです。つまり、この前から「悪行を重ねていた」のです。
イエスが選ばれた12人の弟子たちは皆欠けがあり、間違いを犯すことがありました。しかし、ユダはとくに「感覚が鈍っていた、良心が麻痺していた」その違いがあるのです。
以前からあったユダの「感覚の鈍り、良心の麻痺」を物語る聖書箇所を一カ所開いてみましょう。
新約聖書のP191をお開き下さい。 ヨハネによる福音書12章1~8節です。(※よんでみます)
6節で、ユダは「イエス一行の会計係であったにもかかわらず、この時すでに中身をごまかしていた」という事実が語られます。もちろんこれはまずいことですが、さらに問題なのは、私は5節だと思います。正論をマグダラのマリアに振りかざし、善人ぶっているのです。
イエスを差し置いて、教えるこの態度。そして「いかにも慈善活動の大切さを訴える」ことをして善人のように見せる。しかし、マグダラのマリアの苦しかった気持ちに寄り添おうとはしていないところからも、それが本心でないことは見抜けます。
他の弟子たちは「ユダが裏切る」ことを誰一人わかっていなかったことが他の箇所から分かりますが、それだけユダは「外見上は立派にみせていた」ということなのかもしれません。
お金の管理ができるなど、仕事は有能。しかも、口では立派なことを言える…。そんなユダはいつしか自分に酔うようになったのではないか…私は今回の箇所から、そんな風に感じました。
仕事ができることも、立派なことが言えることももちろん悪いことではありません。しかし、そこが「サタン、悪魔が付け込む隙」であることを、私たちは聖書の大切な教えとして胸に刻む必要があると感じます。
イエス・キリストは私達が「罪の誘惑に負けやすく、実際に罪を犯す者であること」をよくご存知です。しかし、自ら罪の身代わりとなってくださったことにより、私達を罪から救い出そうとしてくださるのです。御自身を救い主として心から受け入れることで「罪から清められるチャンス」を下さるのです。
しかし、せっかくのそのチャンスを逃させるのが「自己中心」であり、「自己絶対化」「自己陶酔」など、自分が神様より上に立つ思いです。
ユダ以外の弟子たちも、失敗をたくさんし、罪も犯しました。でも最終的にユダとの違いは何だったのかというと、「悔い改め、間違いを認める素直さ」だと理解します。いつでも神の前に謙虚であり、悔い改められること。それがイエス・キリストによる救いに与るか、それとも「サタンの餌食になって、滅びに至るのか」の分かれ目になるのです。
このように、ユダの裏切りの背景を詳しく学びましたが、そのことを頭に入れて、残った21章34節から36節を読んでみます。
ここは、先週の聖書箇所である25節から31節で教えられた「キリストが再びこの世にこられ、救いが完成する、終わりの時」について教えられている箇所です。
繰り返しお語りしているように「終わりの時」は、キリストによって救いが完成する日ですから、私達にとっては「新しい命に更新される、恵みの時」なのであります。そして36節にあるように「キリストに相まみえる恵みの時」です。
しかし、すべての人にとって「恵みになる」のではなく、ある人々にとっては「襲いかかる日でもあるのだ」ということを聖書は教えます。
そのことは今回の箇所ではとくに35節で表されています。
終わりの日がいつ、どのようにして来るのか、それはだれにも分かりませんし、聖書も詳細は語りません。でもはっきりと示されていることは「終わりの時が恵みの時、感謝な時」となる人と、「苦難が襲い掛かる時」となる人と、二つに分かれるということです。
その時が「恵みの時」となるためのイエスからの教えがこの箇所にあります。それが34節の「心が鈍くならないこと」と36節の「いつも目を覚まして祈っていること」です。
私はこの2つの教えが「ユダの生き方に対して反面教師的」に教えられていると感じるのです。
ユダは「それなりに仕事をしていた」かもしれませんが、心は「酔ったような状態」で「目覚めた状態」ではありませんでした。実際の深酒もまずいですが、よりまずいのが「心が酔った状態」なのです。
その状態では祈れません。罪を認めて悔い改めるチャンスも逃してしまいます。
いつでも祈っていることは不可能ですが、「いつでも祈れる、つまり神の心を向けられるように、心の中が目覚めている」ことは可能なのです。
私たちはどうでしょうか?常に神の前に目覚めていて、悔い改めるべきところは悔い改め、神によって日々新たにされて歩んでまいりましょう。(祈り・沈黙)
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