4月4日説教 ・復活節第1主日礼拝・イースター礼拝
「約束された主のご復活」
隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書24:1~12
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今日は主イエスの復活を喜ぶイースターです。私たち山口信愛教会にとっては創立130周年の年の「いつもと違うイースター」です。
私は今回準備する中で、イースターの喜びが「苦難の中にあればあるほど」迫ってくるということを感じました。ただ漠然と喜ぶのではなく、じっくりと噛みしめるようにして「主の復活」を自分のこととして喜ぶことが大切なのではないかと。
130周年前、山口信愛教会が誕生したときのことを「復刻版の記念誌」で改めて学びましょう。信徒伝道者だったケイト・ハーラン女史によって伝道が開始された頃、周りから石が投げられる、などの迫害もあったようです。
そんな中で、キリストが救い主であることを受け入れて受洗を決心した12名の青年たち。彼らは迫害もある中で「どんな思いをもって洗礼を受けたのか」想像してみましょう。
日本語が十分に話せなかったハーラン女史。きっと「聖書の教えに心から共感した」というよりは、ハーラン女史の中の生き方、証しなどを通して「キリストが今も生きて働いておられる」ことを感じ取ったからではないでしょうか。
迫害もあり、先も見えない中で、それでも主を受け入れたのには「十字架にかかり、罪をあがなってくださったイエス・キリストが復活され、今も生きて働いておられるからだ」という希望が与えられた、心から救い主として受け入れたからだ…私にはそのように感じます。
昨年度から聖書研究会・祈祷会では、激しい迫害下で記された「ヨハネの黙示録」を学んでいます。激しい迫害で希望が見えない中で、「イエス・キリストが死に打ち勝ち、復活なさった」ということがどれだけ大きな希望だったのかを思います。
今日は午後から、高田重孝・花岡聖子ご夫妻によって、この日本ではじめて福音宣教がなされた頃「厳しい時代にあって信仰を守り抜いた方々」のお話、そしてその方々が大切にした讃美歌をお聞きします。私たちも苦しみの中にある多くの信仰者たちが抱いていたであろう「復活されて、ともに居ましたもう主にある希望」を共に味わってまいりましょう。
今年の受難節はルカによる福音書から続けて読みました。まず先週の聖書箇所を振り返ってみたいと願います。
50節から56節までをご覧ください。
イエスは金曜日の3時ごろ、十字架の上で息を引き取られました。その遺体をアリマタヤのヨセフという「議員」が引き取りたいと願って、自分が所有する「まだ誰も葬っていないお墓」に急いで埋葬しました。土曜日は安息日であり、すべての労働を止めなければならず、葬りもしてはいけない決まりになっていたからです。
55節をご覧ください。その埋葬の様子を見ていた人たちがいます。それが「ガリラヤ地方からずっとイエスに従って着いてきていた婦人たち」でした。
彼女たちは、「まだ誰も葬られていないアリマタヤのヨセフのお墓」にイエスのお体が入れられるところを確かに目撃しました。
先ほどお話ししたように、土曜日は安息日のため、ほとんどの作業ができません。だから「日曜日になったらお体が傷まないように薬を塗って差し上げよう…」婦人たちはそのことだけを考えて過ごしたのです。
先週瞳牧師も語ったように56節の後半に大きな意味があります。
新共同訳では24章の「復活する」の小見出しのほうに入れられてしまっていますが、「婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。」と記されています。
彼女たちの心には、愛する主イエスの死に対する深い嘆きと絶望があったことでしょう。この日は安息の日と言うよりも、無力感の中で主イエスの死を悼み、ひたすら喪に服する日となったはずです。安息日があけたらすぐに香料と香油を持って主のお墓に行き、お体を改めて丁重に葬る。その予定だけが、彼女らの心の唯一の支えだったのだろうと思います。
しかし絶望の淵にあったこの女性たちが、主イエス・キリストの復活の証人になるのです。聖書は「絶望の先にあった希望」として主の復活を描いているのです。 それでは、本日の聖書箇所である24章の1節から12節を見てまいりましょう。
まず簡単に1~12節のあらすじをお話しします。
婦人たちは、日曜日の夜明けとほぼ同時ぐらいに、イエスが埋葬されたあの墓へ向かいます。先ほどお話ししたように、彼女たちにとって「安息日があけたらすぐに香料と香油を持ってお墓に行き、イエスのお体を改めて丁重に葬るのだ」というそのこと以外は何も考えられなかった様子が「夜明けとともに墓に向かった」という行動から読み取れます。本当に!絶望の淵にいたのです。
しかし2節、3節にあるように、墓をふさいでいた石が横に転がされていて、イエスのお体は見当たらなかったのです。彼女たちはその光景をみても、イエスご自身が予めなさっていた「復活の約束」を全く思い出せなかったのです。
想像してみましょう。愛する主イエスのお体に薬を塗り丁寧に葬りたい…それしか考えられなかった婦人たちが、空になったお墓を見た時の気持ちを。4節の途方に暮れているというのは、言葉以上の状態を表しているのです。
しかし!そこに神のみ使いが現れます。そして6節、7節のことを伝えます。
この6節7節、さらに8節は今日の中心ですので、後程深く掘り下げます。
9節から12節には、婦人たちが、自分が目撃したこと、またみ使いが教えてくれたことを使徒たちや弟子たちに伝えた様子が記されています。
弟子たちもまたイエスご自身から以前、復活の約束を聞いていましたが、婦人たちの言うことを信じることができませんでした。一番弟子のペトロは、墓まで行って、婦人たちの言っていることが本当かどうか確かめにいったのです。
彼らもまた、イエスの約束が全く思い出せないほどの「暗闇」にいたのです。
以上が今日の箇所の流れでした。
残りの時間、今回の中心箇所である5~8節を味わいます。
大切なことは2点です。①つ目は、婦人たちはどんな約束の言葉を思い出したのかということ。②つ目は、生きている方であるキリストを死者の中に探してはならない、ということです。
一つ目の「婦人たちがどんな約束を思い出したのか」は、6節の中盤から8節に書かれています。ここをご覧ください。
よく見ると、復活だけが約束されているだけではないことに気づきます。
そうではなくて「罪人たちの手に渡され、十字架につけられる」ことがあったうえでの「主の復活」であることが示されているのです。
私は思います。婦人たちがイエス・キリストから直々に教えられた「復活の約束」。それを悲しみの中で思い出すことができたのは「自分を含むすべての人間の罪の身代わりとなって死なれたのだ」ということが心で理解できたからではないでしょうか。
つまり「ただ世の悪者たちによって無残にも処刑されてしまった」と考えるのではなく、「すべての人間を罪から救い出すために、死の力に勝利されて復活されたのだ」ということが分かって初めて、「復活が何のためなのか」「自分にとってどんな意味を持つのか」ということが自分自身で受け止められるようになるのです。
よく「イエス・キリストの復活を本当のこととして信じることができない」という世の声を聞きます。ある意味当然かと私は思います。
しかし!「イエス・キリストの十字架の死は、この私の罪のためだったのだ。」と心から受け止められたとき、「神の御子の死はただの死で終わらない。罪の力、死の力を打ち破って復活なさったのだ」ということを心から理解できると私は信じています。
聖書全体に書かれている神による救いの約束。それは「神による罪の赦し」と「神が罪の力、死の力に勝利される」ことの両方があるのです。私たちも、イエス・キリストの復活が何のためであったか、私とどうつながるのかを深く考え、そしてじっくりと噛みしめるように「主の復活の喜び」を感じましょう。
最後に②つ目の大切なことを味わって、メッセージを閉じます。「生きている方であるキリストを死者の中に探してはならない」というこの大切な教えは5節と6節前半に示されています。
イエス・キリストは偉人ではありません。復活された生ける神なのだということが強く迫ってきます。
世の人々の中には、キリストを「もっとも美しい死を遂げた宗教指導者、哲学者」などと理解する人がいます。でも、そのような理解の仕方はまさに「世の中一般の死者と同列」にイエス・キリストを置くことなのです。
イエス・キリストは神の御子だ。人の姿をとって私たちと共に歩んでくださる愛のお方であるが、しかし!死の力さえ打ち破る生ける神なのだ!そう信じられるところに生きた希望があるのではないでしょうか。
この希望は迫害下のクリスチャンたちや、130年前の苦しい時代の私たちの信仰の先達を支えたのです。
私たちの歩みにも色々な苦しみがあります。どうか主の復活の希望が皆様の支えであるようにお祈りいたします。(祈り・黙想)
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