「物分かりが悪く、心が鈍い私たちのために」4/11隅野徹牧師

  4月11日説教 ・復活節第2主日礼拝・聖餐式
「物分かりが悪く、心が鈍い私たちのために」
隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書24:13~27

説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 先週のイースター礼拝は「古の信仰者たちが抱いたであろう復活の喜び」を意識しながら守ることが出来ました。

特に午後から、高田重孝・花岡聖子ご夫妻によって、この日本ではじめて福音宣教がなされた頃「厳しい時代にあって信仰を守り抜いた方々」のお話、そしてその方々が大切にした讃美歌をお聞きしました。私たちも、苦しみの中にある多くの信仰者たちが抱いていたであろう「復活されて、ともに居ましたもう主にある希望」を共に味わうことができた…そのように感じます。

また創立130周年の年の「イースター」ということで、ちょうどこれに合わせて、教会の創立当初のことが詳しく記されている「復刻版の記念誌」が出来上がりましたが、皆様読み始めていただいているでしょうか?

信徒伝道者だったケイト・ハーラン女史によって伝道が開始された頃、周りから石が投げられる、などの迫害もあった様子が2頁に詳しく記されています。林健二牧師は次のように記しておられます。

「ハーランは湯田での聖書講義をしての、ある雨の日の帰り道、殊に投石が激しく、あまりにも危険だった。この若い女性はまず堀江みよを人力車で先に帰し、自分は青年たちと共に、雨の中迫害を恐れず、猛然と歩みを進めて帰宅した。

雨にうたれ、投石の危険の中にありながら、青年たちの心は熱く、燃え始めていた。彼女への尊敬、この女性をここまで強くし、高めているキリストの福音に対する驚き…このようにして私たちの教会の最初の受洗者たちが誕生することになる。」

最初に「キリストが救い主であることを受け入れて受洗を決心した」のは12名の青年たちでした。彼らは迫害もある中で「どんな思いをもって洗礼を受けたのか」…それはハーラン女史の中の生き方を通して「キリストが今も生きて働いておられる」ことを感じ取ったからではないかと私は信じます。

イースターの喜びは「苦難の中にあればあるほど」迫ってくるということを先週お話ししました。今週も与えられた聖書箇所を通して、ただ漠然と喜ぶのではなく、じっくりと噛みしめるようにして「主の復活」を自分のこととして喜んでいただいたら幸いです。

今年はルカによる福音書から続けて読んでいます。今回の箇所は「エマオ途上の物語」として有名な箇所の前半です。13節から順を追って見てまいりましょう。

 13節14節をご覧ください。婦人たちが「復活の主」にお会いしたその日曜日の夕べ、二人の弟子がエルサレムからエマオに向かって歩いていたと記されています。

一人はクレオパという弟子で、もう一人の弟子は名前がないので分かりません。イエスの弟子は、十二使徒を筆頭に100人以上いたと考えられていますので、その中の二人であったことでしょう。

 二人が向かっていたエマオという村については、今日どこにあるのか特定することはできません。60スタディオンというのは、約12キロだそうです。この二人は「エマオ出身の弟子だったのではないか」といわれていますが、もしそうであるならば、エルサレムを離れて、故郷に戻っている…要するに「都落ち」の場面なのです。

「ああ残念でならない!」「無念だ!」そのようなことを語り合っていたであろう、そんな失意の二人のもとに、復活の主が近づいてこられます。それが15節です。

そっと近づき、一緒に歩いて下さる、まさに「インマヌエルの主」「私達と共にいて下さる主イエス」がここでも表れています。

 続く16節には「二人の目が遮られていて、イエスだとは分からなかった」ことが記されています。 なぜ遮られて分からなかったのか、そしてどうしたら分かるようになったのか、についてはエマオ途上物語の後半の来週のメッセージで取り上げさせていただきます。

 17節からの部分で、二人の弟子と復活の主イエスが「どのようなやり取りをなさったのか」が記されています。

ここでイエスは「聞くことに徹して」おられます。この二人がどんなことを考えているのか、全てを分かっておられるであろう主が、あえて何も知らないかのごとく、彼らの心にあるものを吐き出させておられるのです。

主イエスは最高の「心の医者だ」だと言われることがありますが、ここにも表れています。

 一方の弟子たちが「どんなに悩みの中にあったか」そして「主によって心の中を癒していただかねばならない状態だったか」を聖書ははっきりと示しています。

二人が「暗い顔をしていた」というだけでなく、18節にある、「柔らかく尋ねてこられた主イエスに対しての言葉の返し方」にも「心の闇」が表れています。

「この数日に起こったあの大事件を、あなただけは何も知らないのでいたのですか!!」つまり私たちがこんな大変な思いでいるのに、あなただけは別世界なのですか?という批難の言葉、怒りの言葉をぶつけているのです。

普通なら「なんだその態度は!」と喧嘩になりそうですが、イエスは愛のお方であり心の癒し主です。19節で「どんなことですか」と重ねて問い、彼らの心の中にある「ヘドロのようなドロドロした思い」「癒されねばならないその思い」に触れて下さるのです。

19節から24節に二人の弟子が「心から吐き出した思い」が記されています。

彼らの言葉から読み取れることが大きく3つあります。いずれも25節でイエスが仰るとおり「物分かりが悪く、心が鈍く」そして「神から遣わされた預言者の言った約束が信じられていない」状態を表すものです。 

①つ目は、イエスに対して「間違った期待をしていた」ということです。

これは19節後半の「イエスが、行いにも言葉にも力のある預言者でした」と答えていること、そして21節の「あの方こそ、イスラエルを解放してくださると望みをかけていました」と語っていることから分かります。

イエス・キリストを「一人間の預言者」だと誤解し、ローマ帝国の支配からイスラエルを解放してくれるリーダーだと期待していたことが分かります。つまり「自分に好都合なリーダー」としてイエスに期待していたという「自己中心の罪」を持っていることが分かるのです。

②つ目は、イエスを十字架にかけた人々を恨んでいたということです。それは20節で表されています。

二人は「祭司長や議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです」と言っていますが、これまでのルカ福音書の内容から分かるように、イエスを十字架にかけて殺したのは「特定の誰かのせい」ではありません。すべての人間に「神の子イエスを殺してしまった原因はある」のですが、それを二人は理解していません。

このように、自分の罪を棚に上げて「あいつさえいなければ…!」と怒っている状態は、神に癒されなければならない状態なのです。   

最後の③つ目に読み取れること、それは復活の約束が信じられないばかりか、「イエスの亡骸が見つからない」ことにばかり目がいっている様子です。

23節には「婦人たちが遺体を見つけずに戻ってきた」といい、24節では「仲間の何人かが墓に行ったが、あの方は見当たらなかった」といっています。23節後半にある「イエスは生きておられる」というみ使いの言葉・約束を「あるはずのない、うわ言」のように受け取っていることが、彼らの言葉から見て取れます。

Ⅰコリントの15章に「もしキリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰は空しい」とある通り、キリストが死の力を打ち破り、生きて働いて下さることを信じられないならば、どんなに「イエスの弟子」という自負があって行動しても、それは空しいのです。やはり彼らは「暗く失望した心の状態」から、現状は変わらずとも、心に確かな希望をいだく、そのような状態に変えられねばならなかったのです。

以上二人の弟子の言葉から3つのことを見ましたが、いずれも「物分かりが悪く、心が鈍く」そして「神から遣わされた預言者の言った約束が信じられていない」状態です。

いかがでしょうか。これは私達一人ひとりも同じようなところがあるのではないかと思うのです。「イエスに対して間違った期待をかける」、「自分の罪を棚に上げて一部の人だけを恨む」そして「目の前の現実ばかりに目が行き、復活の主が生きて働いて下さるという希望を持たない」…これは私達の日常が厳しい状況になればなるほど、このような思いを持ちやすくなるのだと思います。すべての人が持つ弱さなのです。

しかし、そんな弱く、心が鈍く、物分かりの悪い私達一人ひとりに対し、死や罪の力を打ち破って復活された主はそっと近づいてくださるのです。そして「心の中にある汚いもの」を出させ、そして癒して下さるのです。

この続きはまた来週お話ししますが、特に今朝、復活の主イエスは私達が失意のどん底にあるとき、そっと近づき共にいて下さること、そして罪に傷ついた心を癒してくださるお方だ、ということを覚えていただいたなら幸いです。

(祈り・黙祷)

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