「誰にでも与えられる約束」6/5隅野徹牧師

  月5日 聖霊降臨節第1主日礼拝・ペンテコステ礼拝・聖餐式・信仰告白式
「誰にでも与えられる約束」隅野徹牧師
聖書:使徒言行録 2:36~47

説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 今日は、キリスト教会の中で「三大行事」と呼ばれるものの一つ、ペンテコステです。ペンテコステは「神の霊である聖霊」が、神の独りキリストを信じ集まる者、つまり「教会」に対して下った日で、キリスト教会の誕生日ともいえる日です。

このペンテコステの日に、一人の兄弟が信仰を告白し、正式に「教会の仲間に加わることができる」ことを心から感謝します。

今日のペンテコステ礼拝に与えられた聖書箇所は、聖霊が降り、最初の教会が誕生したことが記されている使徒言行録2章のうち、最後に近い部分です。ここはペンテコステに神の霊である聖霊に導かれて誕生した教会という所が「どんな場所として誕生したのか…」それが表れています。とくに今日の箇所の最後の節である42節に「使徒の教え」つまり「聖書からの説教・メッセージ」と「信徒同士の交わり」と、聖餐と、祈りをする場所として誕生したことが分かります。これは2千年間、世界各地のキリスト教会が変わらずに「大切に守ってきた、教会の中心的活動」なのです。

「建物・会堂があるから教会」なのではなく「集まって、あることをするから教会」なのです。キリスト教会はどのようにして誕生したのでしょうか? 教会の原点ともいえるこの箇所を深く味わいましょう。

今回の箇所は37節からです。その前はどのような話が描かれているかについては先ほどの子どもメッセージでお話ししましたが、簡単におさらいします。2章の1節からをざっと目で追ってください

復活されたイエス・キリストが天に上られたあとのことです。エルサレムのある場所で心を一つにして祈っていた弟子たちの上に「聖霊が降りました。そして聖霊に満たされた弟子たちは「神の偉大な業について」語りだしたのです。

それを聞いていた人たちは最初「酔っぱらっているのだ」と馬鹿にしましたが、弟子たちは立ち上がります。そして、代表してペトロが多くの人々に向けて説教をします。

この説教の内容が記されているのが14節から36節までです。

今朝はここを詳しく掘り下げませんが、この説教の内容を見る時、「説教における聖霊の助け」というものを感じます。もともと「学が無かった」と言われているペトロが、イスラエルの人たちに対して「あなたたちが十字架に付けて殺したあのイエスが、神の送って下さった救い主であるのだ」ということを、旧約聖書を引用して、正確に伝えたのです。

そして36節の結論をもって閉じられています。

「神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたことを、あなたたちははっきりと知らなければならないのだ!」 

 この言葉を聞いて、人々が悔い改めたところから「キリスト者の群である教会」は誕生したということを、特に今日、皆さんには覚えていただきたいです。

この後、今朝の聖書箇所である37節以下を深く味わいたいと願います。

まず37節をご覧ください。 人々はこれを聞いて…とありますが、「これ」とは何を指すか…というと…その直前に語られた内容です。

「神が救い主として立てられたイエスを、あなたがたは十字架につけた」という、ペトロが聖霊に満たされて語った言葉です。これに対して多くの人々の応答が37節の「わたしたちはどうしたらよいでしょうか」という言葉なのです。

私は、青年期、教会に通い始めて間もなくな頃、「イエス・キリストを十字架につけたのはイスラエルの宗教指導者たちだ!あいつらだけが悪いんだ!」と思い込んでいました。しかし、今は思います。「イエス様は、この私の罪深さ故に、十字架にかかられたのだ」と。

教会という場所は、「世の悪人を見つけ出し、糾弾する場所」では全くありません。そうではなくて「他人ではなく、自分自身の罪を深く見つめる場所」であります。もっと言えば「イエス・キリストが、自分の犯した罪のために、身代わりとなって十字架で死んでくださった」ことを深く心に刻み付ける場所なのであります。

そういう意味でも、ペトロがこの場面で「神が救い主として立てられたイエスを、あなたがたは!十字架につけたことを知らなければいけない」と語ったこの言葉が教会の原点であるのです。また、この言葉への応答「わたししたちは救われるためにどうすればよいか」と本気で求める者の群れが「教会なのだ」ということも言えます。

自分の罪に対して、目を向けず無関心な人が多い世の中にあって「自分の罪をしっかりと見つめ、その罪から救われることをしっかりと求める群れが教会である」ということを心に留めましょう。

 つづいて38節から40節です。「罪から救われるためにどうしたらよいか」という人々の求めに対して、ペトロが教えた内容がここに記されています。

ここでのペテロの教えは、神の霊である聖霊に導かれたものです。本当に大切な教えで「教会は何の目的でこの世に存在しているか」、その教会の存在意義ともいえる「根幹」が示されています。

まず①つ目、「神の前に悔い改めて、イエス・キリストを救い主として告白して罪を赦していただくこと」が教えられます。そしてその次の②つ目に「罪を赦していただいたことのしるしとして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けること」が勧められます。そうすることによって③つ目、「だれでも賜物として聖霊を受けることができる」と教えられています。

この部分から「教会が授ける洗礼とは一体どんなものなのか」がはっきりと分かるのです。

洗礼はただの水浴びではなく「自らの救い主としてイエスの名を告白する洗礼」なのです。

 悔い改めの気持ちをもって「イエス・キリストこそ、この自分を罪から救い出して下さる救い主なのです」と信仰を告白する。そうすることで神の霊である聖霊が働き、ただの水浴びではなく「赦しのしるしとしての洗礼」になる。また、「新たな命の誕生」としての洗礼になるのです。

このように教会は、洗礼を授けることで「イエス・キリストの名によって人々を罪からの救いに導き」「新しい命を生み出す場所」として存在し続けたのだということが分かります。 

この後信仰告白式を迎えられる井上道生さんは、生まれてすぐ、東京の教会で「幼児洗礼」を受けられました。もちろんここまでも聖霊に導かれて歩まれてきましたが、今日、ご自分の口で公に「イエス・キリストを赦しに導く救い主だ」と告白されることで、さらに豊かに聖霊に満たされ、正式に「新しくうまれることができる」のです。

皆さま、その「新しい命の誕生」に立ち会うことで、お一人お一人も、新たな気持ちで歩んでまいりましょう。

信仰告白式もある今日のペンテコステ礼拝を通して、教会が「イエス・キリストの名によって人々を罪からの救いに導き」「新しい命を生み出す場所」として誕生したことを心に留めましょう。   

 最後に40節、41節をよんでメッセージを閉じます。

「邪悪なこの時代から救われなさい」…という言葉が強烈に感じます。ここで何が語られているかというと、教会という場所が、この世に根差しているが、一方で「この世から清め別たれた場所だ」ということなのです。

そこに集う者が、自らの罪を悔い改めて神へと立ち返り、洗礼を受け、聖霊に導かれつつ共に歩む場所であり続ける…これが教会に対して神が望んでおられることです。

41節に「3千人が仲間に加わった」とありますが、この3千人の多くはイスラエル人でエルサレムに住んでいた人たちだと考えられます。

少し前までイエスを罵り、ペトロをはじめとする弟子たちを嘲っていた彼ら。しかし彼らは、聖霊の力で自分の本当の姿を知り、悔い改め、イエスを救い主だと信じ受け入れて「生まれ変わった」のです。

彼らは再び「邪悪の世の中」に戻りませんでした。イエス・キリストを受け入れた者同士が愛し合って共に生きる道を選んだのです。

私達も「この世の中に根差しつつ」、しかし!世の中にどっぷりと浸からずに「主に在って共に愛し合うこと」を願い求めましょう。

そして、この「主にあって愛し合う輪の中に、新たに加わる方が起こされるように」祈り願いましょう。井上道生さんに続き「悔い改め、イエスの救いを心から受け入れて、告白する方」が起こされるように、そのためにまず一人ひとりが聖霊に満たされて、「新しい命を生み出す雰囲気のある」そんな山口信愛教会でありたいと願います。

(祈り・沈黙)

 

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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