「暗闇の中を歩かず命の光を持つ」6/26隅野瞳牧師

  月26日 聖霊降臨節第4主日礼拝
「暗闇の中を歩かず命の光を持つ

隅野瞳牧師
聖書:ヨハネによる福音書 8:12~20


説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 本日の箇所では、私たちを新しい命に生かす光として来られた主イエスについて記されています。3つの点に目を留めて、ご一緒に御言葉に聴きましょう。 

1. 世の光である主イエスに従う者は、命の光を持つ。(12節)

2. 主イエスはご自身を知り、御父と共におられる方である。(14節)

3. 主イエスは人間のようには裁かない。(15節)

 本日の箇所は7章から続く、仮庵祭の出来事です。奴隷であったイスラエルの民がエジプトを脱出し、約束の地を目指して40年間荒野を放浪した時の、神の守りと救いの御業を覚えて、感謝をささげる祭です。仮庵祭が最も盛大に祝われる終わりの日、水を汲んで祭壇に注ぐ儀式が行われている時に、主イエスはだれでも御自身のところに来て飲むならば、その人の内から聖霊の生きた水が流れ出ると語られました。

そして祭の夜にはもう一つの儀式がありました。主イエスはこの時献金箱のある婦人の庭という場所におられ、そこには燭台が設けられていました。20mを超える高さの黄金の大燭台に祭司たちが灯をともし、その光はエルサレム中を照らし、踊りと賛美が夜通しささげられました。この儀式もまた、イスラエルの間に住まわれる神の臨在、夜に神が火の柱としてイスラエルの民を照らし導かれたことを象徴しています。その輝かしい光のもとで主イエスは人々に、私こそがこの暗闇の世を照らす光であると宣言されたのです。

 

1. 世の光である主イエスに従う者は、命の光を持つ。(12節)

「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(v.12)

ヨハネ福音書において「世」とは、神を知らず、神に背を向けている堕落した世界、また私たち一人ひとりを指します。神なしで自分勝手に歩み、自分や他者の存在価値がわからない。平安がなく、傷つけあい、願わないのに悪を行ってしまう。それはこの世で勢力を振るう悪の力に支配される生き方です。そして世にはもう一つの意味があります。神が創造し愛しておられるすべてのものです。神に造られたのに神から離れ敵対するようになってしまった世、私たち一人ひとりを、神は愛されました(ヨハネ3:16)。この世界、そして私たちの内側は暗闇に覆われています。しかし主イエス・キリストはこの世に、まことの光として来て下さいました(ヨハネ1:4~5)。

キリストの光は、神の臨在(神がここにおられること)です。私たちの世界を覆う罪と死の暗闇が、恐れや争い、孤独をもたらします。しかし主は、私たちが暗やみの中で一生を終わらないでほしいと願っておられます。闇を消し去るには、光を招くことです。部屋に朝の光を入れるためにカーテンを開けるように、もし、まだキリストをお招きしていない心の部屋があれば、そこにお招きするのです。光が入ると部屋の汚い部分がわかるように、見ないふりをしてきた、どうすることもできなかった心の汚さが見えるかもしれません。けれども主は、ご自身を迎え入れた者を清めて光としてくださいます。何も心配せず、感謝をもって主をお迎えしましょう。

光はまた、神の導きです。火の柱をもって神がイスラエルの民をカナンへ導いてくださったように、主イエスは私たちを神の国へと導いてくださる方です。主に救われた者は自分が天に向かって神を仰いで生きていることを知ります。そして光は神の命です。聖書においては、神との交わりが断たれていることが「死」であり、命である神との関係が回復することが救いです。主イエスを信じる時永遠の命が与えられ、神が私たちのために用意しておられる本当の人生を、神と共に歩むことができるのです。

聖書で光は重要な言葉として何度も出てきますが、特に大切な箇所として創世記1章をあげたいと思います。地は初め、混沌と闇、虚無の世界でした。その世界に神は「光あれ」と命じられると、光がありました。そこから光と闇とが分けられてこの世界が形を取り、秩序と意味をもつようになっていきます。この御言葉は、神から離れて混沌と暗闇に戻ってしまった世界、どんな絶望的な状態の私であっても、立ち帰るならば、神は再創造してくださるということを伝えています。

ヨハネ1章はこの天地創造を念頭に置いて書かれています。キリストは万物を創造された「言」(ヨハネ1:14)であり、ナザレのイエスという人間として、神に背いて混沌となった世界に来られました。それは神が再び「光あれ」と言われたことではないでしょうか。神の言、神の愛がその通り成ることを、神は御子の十字架と復活によって見える形で現わしてくださいました。光なるキリストを私たちの人生にお迎えするならば、その時から新しい創造が始まり、完成へと向かっています(Ⅱコリ5:17)。主イエスと共にあるならば、私たちは命の光を持ち、もはや混沌の暗闇の中を生きていく必要はありません。

主イエスが進んでいかれる道を、主の助けをいただいてついていきましょう。生活の中で日ごとに御言葉に聴き、神は私に何を語られているのかを問いながら、その導きに従っていくのです(詩編119:105)。エフェソ5:8にこのようにあります。「あなたがたは、以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」私たちは闇そのものでありました。しかし恵みです、もう「光となって」いるのですね。光の子とは、本日の箇所の「命の光を持つ」とほぼ同じ意味です。主の光を受けて歩むなら、私たちはその光を反映することができるのです(マタイ5:14,16)。キリストに従う者を、闇は支配することができません。闇がどんなに深くてもこの命の光に照らされたとき、そこには命だけがあるのです。

この地上の歩みは、明日はどうなるか分からないという不安と隣り合わせです。それもまた闇のように私たちを覆いつくそうとします。しかしそのような中にあっても、主は生きておられ変わらないお方です。その命の光は必ず私を生かし、その光が隣の人を照らしていくのです。

 

2. 主イエスはご自身を知り、御父と共におられる方である。(14節)

さて主イエスがご自身を世の光であると語られると、ファリサイ派の人々は、それは自分で言っているだけだから、証言してくれる人が他にいなければ真実ではないと反論します。それに対して主イエスは、「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ」。(v.14)とお応えになりました。どこから来てどこへ行くのか、それはその人の本質を表しています。主イエスはここで、ご自分が父なる神から来られた神ご自身であると言っているのです。主イエスは、ご自分が何者で何のために生きているのかを完全にご存じの方です。だから、ご自身の証しは真実であり、またその裁きは真実です。

律法の教師たちが自己証言を否定したのは、人間には偏見があるからです。自分が何者かがわかっていない私たちが「わたしは○○である」と言っても、そうでないかもしれません。ですから確かにこの人は○○だ、と証ししてくれる人が他に必要なのです。しかし主イエスは完璧な自己認識を持っておられました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。主イエスはご自身が、世(私)に永遠の命を与える(罪から救う)ために、神によって遣わされた神の子、救い主であることを、はっきりと知っておられました。主イエスが、世の光、命の光であることを、自分の体験に基づいて証言できる人は、当時の社会の中ではいませんでした。当時だけでなく今も、イエスは救い主であると証言・告白できるのは、洗礼者ヨハネのように、聖霊の示しによるしかありません(Ⅰコリ12:3,ローマ10:9)。

光なる主を受け入れその命を生き始める時、私たちは初めて自分が何者であるか、どこから来て、どこへ行く存在であるのかを知ります。かつて罪の闇の中に座り込んでいた私たちですが、今は私のために死んでよみがえってくださった主イエスを知り、この方を通して神を知っています。私が神に愛され神の子とされたこと、やがて神の御もとに行くことを知り、感謝と希望のうちにこの世に遣わされて生きることができるようにされたのです。

さらに17節で主イエスはファリサイ派の人々に、確かに律法では2人以上の証言が一致していれば、信じるに値すると書いてある、そして私が世の光(救い主)であることは、私だけでなく御父も証ししておられる真実なのだ、と語られました。御父は御子と常に一つであり、永遠から愛の交わりのうちにおられます。そしてすべてをご存じですから、その証言は完全です。

 「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」(v.19)ファリサイ派の人々は、それではあなたの父はいったいどこにいるのかとたずねました。これは、主イエスに対するあざけりを込めた質問だったのではないかと思います。私たちは主イエスを通してだけ神を理解することができます。これもまた、主イエスが光であるということの現れです。主イエスは御父がどのような方かを示す、啓示の光です。しかしファリサイ派の人々のように、主イエスの言葉に耳を傾けようとしない者には、神に対する事柄が理解できません。彼らにとってイエスはガリラヤ出身の大工の息子であり、どんなに聖書を読んでも、彼らに命の光は届かなかったのです。

主イエスが世の光であると証しできたのは、この時には主イエスご自身と父なる神しかおられませんでした。しかし今は、主イエスを信じ従うすべての者がそれを証することができ、使命としてゆだねられています(使徒1:8)。いよいよ御言葉と祈りをもって主との交わりをいただき、主を証する恵みにあずかりましょう。

 

3. 主イエスは人間のようには裁かない。(15節)

続けて主は言われました。「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。」(15~16節)

「肉」とは「人間的判断」のことです。ファリサイ派の人々は主イエスを人間的な基準でのみ判断し、その本質を見ることができませんでした。彼らは律法を熟知していましたが、神と人を愛し皆が幸いに生きるために与えられた律法を、自分を正当化し人を断罪するために用いていました。それに対し、主イエスはだれをも裁きません。終わりの日に御父の裁きを執行されますが、今は罪に定めるようなことはなさいません。なぜなら主イエスは罪人を救うために来られたからです。しかしもし主イエスがお裁きになるなら、その裁きは常に正しいものです。主イエスお一人ではなく、父なる神とともに裁かれるからです。

聖書においての罪は、人に対して犯した見える形のものだけでなく、神に対して犯すものをいいます。神なしで生きようとする、神の御心に背く性質が罪であり、そこから見える形の罪も生まれます。神を知らなければ、神の前に何が義しく罪であるかは分かりません。罪は善意において犯すことの方が実は多く、本人も周囲も気づかないことが多いので、深刻な結果をもたらすものです。「神の名による正しい裁き」といわれるものが、どんなに多くの人を傷つけていることでしょう。しかし罪の中にある者は、自分が何をしているのか知らないのです。

 そのような私たちに主は、私たちの本当の姿を照らしてくださいます。先週の箇所で語られたように、主は訴えられてきた女性や人々の罪を暴いたり、責め立てることはなさいませんでした。けれども「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」とのお言葉によって主の光に照らされた時、人々にはそれまで見えなかった自分自身の罪が顕わにされていったのです。その場にいた人々は心が刺されたかもしれませんが、主イエスから離れて再び闇の中に消えて行きました。その場に留まった女性だけが、赦しを受け取り、新しい命の光の道に「行きなさい。」と送り出していただいたのです。裁きというと「断罪し罰を与える」ことだけを考えがちですが、そうではありません。神の裁きは、人を救うためのものです。神に対する罪は、私たち人間には到底償うことはできません。しかし御子が十字架で私の罪の身代わりに裁きを受けてくださったことにより、私たちの償いは成し遂げられたのです。

なぜ私たちは主イエスの光の中で悔い改めることが出来るのか。それは、主イエスはすべてをご存じの上で、私たちを赦してくださるお方だからです。そういう方であると、関わる中でわかっていくのです。私たちがどなたかに自分の弱さや苦しみ、本当の姿をさらけだすことができるとすれば、それは真剣に聞いてくださりつつも、何も聞かなかったかのように、今までどおりに接してくださる方ではないでしょうか。「あなたのこういうところが悪い」と責められたり、アドバイスしてくる人であったら、心をわって話せません。

主イエスは私たちの罪を責め立てるのではなく、かえって私たちのすべての罪を担い、十字架で裁きを受けてくださいました。その愛の前に立つ時、決して自分の力によるのではなく、ただただ感謝と畏れの中で、自らの罪を告白する自分がいることに気づくのです。

「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(ヨハネ3:19)。ユダヤ人たちが主イエスを拒んでいるのは、彼らが裁きを自分で選んでしまっていることなのです。神の愛、救いは強制的なものではなく、それを拒否するならば、暗闇の中をそうと知らずに迷い続けることになります。自分は正しい、自由だと思っていますが、暗闇の中にいることを見分けることができません。しかしこれは最終的な裁きではもちろんありません。神は立ち帰る者を、いつでも救おうと願っておられます。

 私たちは逆に、自分の汚さや行ってしまったことを責め続け、主の赦しを受け取れないこともあると思います。しかし私たちはもう、自分を裁くこともしなくてよいのです。私たちの罪の裁きは主イエスが十字架ですべて受け、死んでよみがえってくださいました。私の裁きではなく、「あなたの罪は赦された」との主の御声を信じ受け取りましょう。

終わりに、私たちが光の子として歩むということは、いつも元気、笑顔でがんばって証して…ということではありません。Ⅱコリント4:6~11をお読みします。「「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」主のものとされるとは、なんと静かな強さをもつことでしょう。最も低くなられた御子に、私たちは神の栄光を見ます。私たちもまた、土の器のようにもろく欠けたる器です。けれども私たちの内にこのキリストがおられるから、私たちは倒れません。小さな私たちだから、私たちの内にある主の光を妨げずに表すことができます。小さな光は、弱っている人にも届くことができます。そのままの姿で、主に従ってまいりましょう。

 

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