7月3日 聖霊降臨節第5主日礼拝・聖餐式
「神の御心に適うことを行うことのできる方」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書 8:21~30
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少し前から再びヨハネによる福音書8章を読み進めております。先週は12節以下を味わいました。ここでは律法学者をはじめとするユダヤ人たちと、イエス・キリストとの対話が記されています。
先週の箇所で最も有名なみ言葉と言えばやはり12節になると思います。
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
しかし!このイエスの言葉は彼らに全く通じていないことが直後の箇所の言葉から分かるのです。ユダヤ人たちは、イエスの言葉を理解できていません。それはイエスが「父なる神のもとから救い主として遣されている」ことを全く受け入れる気がないからです。
今回の箇所でも同じような「嚙み合わない対話」が続きます。その中で「イエスが父なる神のもとから来て、父なる神のもとに帰ろうとしている」ことや「イエスが上のものに属しているのに対して、ユダヤ人の彼らがこの世に属していること」がクローズアップされます。
そして最も大切なこととして「上のもの、つまり天に属しておられるイエスが、この世に来て、この世を生き、神の御心をそのまま行っておられるのだ」ということが示されるのです。
今日は大切なポイントを「3つに分けて」お分かちしたいと願います。
- つ目のポイントは、私たち人間は下のものに属していること、そして「自分の罪のうちに死ぬものである」ということです。
これが示されている箇所のうち、23節を読みます。
ここでイエスが仰っていること…それは、ご自分は天に属しておられる一方で私たち人間は下のもの、つまり罪の満ちたこの世に属しています。このように「上のものである天と、下のものであるこの世」とは隔たりがあり、神と人間との間には大きな隔たりがあるのです。
しかし注目すべきことは、この時イエス・キリストは一人の人間として「下のもの」であるこの世に身をおかれた!ということです。
有名な御言葉ですがフィリピ2章6節7節。イエスがここで言われている「上のものに属しているご自身が下のものであるこの世にこられた」ということと繋がりますので、お読みいたします。
「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました。」
このように、イエス・キリストは「神の身分である」「天に属するお方」であられました。罪を犯されない、完全なお方でありましたが、その方が父なる神に遣わされて「罪にまみれたこの世」に、人となって下られたのです。
この場面で対話しているユダヤ人たちは、イエスの仰っていることが全く理解できていません。しかし!私たちは「信仰をもって」ここでイエスが仰ったことを受け止めたいと願います。
2つ目のポイントは、イエス・キリストが「父なる神の御心をそのまま、この地上でなされた」ということです。これは28節の真ん中付近から29節に示されています。
1つ目のポイントで見たように、イエスは「神の身分であり」「天に属するお方」である完全なお方でありましたが、その方が「罪にまみれたこの世」に、人となって下られたのです。
しかし!父なる神の意に反する「勝手な行い」は一つもなさらず、すべて天の父なる神の御心を行われたことが、ご自身の言葉で示されるのです。今日の説教題は「このポイント」から付けさせていただきました。
ユダヤ人たちは、イエスを「神を冒涜する者だ」として訴えようとしていました。「いずれ来られると約束されている救い主が、このイエスであってたまるか!」そして「イエスの言動は、天の神のご意向と全く違うではないか!」という風なことを思っていました。
しかし!実際はそうではありませんでした。イエス・キリストの「この世での、人としての言動は、すべて神の御心どおり」だったのです。
先ほども引用したフィリピの2章の続きの言葉を紹介します。7節の後半から9節までをお読みします。
「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」
この言葉にあるように、イエス・キリストは「この世において」神の御心をすべて従順に行われたのです。 その最たるものが「すべての人間の罪を背負って、十字架で死ぬ」という神のご計画を、従順に受け入れられ、成し遂げられたことです。
主の祈りで私たちは、最初の方でこう祈ります。
「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」
まさにイエス・キリストは「天の神の御心が地上で、つまり罪にまみれたこの世で成し遂げられるために」、従順に神の救いのご計画を遂行なさったのです。
キリストの「この世での歩み」から、天の父なる神がどのようなお方かが分かりますし、天の父なる神の御心がどのようなものかが、「そのまま分かる!」このことを心に留めましょう。
3つ目、最後のポイントは、イエスがこの世から上げられるときになってはじめて「わたしはあってあるものである」ということが罪深い一人ひとりに分かるようになるのだ、と仰ったことです。 これは24節、28節の前半に示されています。
まず28節から見ましょう。とくに前半部分をご覧ください。
ここでイエスは「あなたたちは、人の子を上げたとき」と言っておられます。イエスが上げられる、それは「十字架の死を遂げるとき」のことなのです。
ここで注目したいのは「人の子を上げるのはあなたたちだ」と言っておられることです。
イエスを受け入れず、敵対している人々がイエスを十字架につけて殺そうとしていることをイエスはあらかじめ「予告」されているのです。しかし!そのイエスの死によって、ご自身を「わたしはあってあるものである」と証しされる「唯一の神」が、独り子なる神を遣わしたことが分かる。その方こそ「イエス・キリスト」だということがはっきりと示されるのだ、と仰っているのです。
イエスによる救いが実現するのは、イエスが十字架にかけられて死ぬことによってなのです。そして24節を深く見るならば、この時イエスを殺そうとしている者たちにも「罪からの救いの道がある」ことが示されているのです。
最後にこの24節を深く味わってからメッセージを閉じます。
ここでイエスが言われている言葉は一見「冷徹」に見えます。しかし!ご自分を殺そうと考え、やがて十字架にかける人々に対して「あなたたちは、罪深いから、その報いとして必ず死ぬ!」とは仰っていません。
彼らが「神の子救い主を受け入れないばかりか、殺そうと企む」者であることを承知の上で、罪から救われる道を示しておられるのです。
それこそが24節から分かります。モーセに対し「わたしはあって、ある者である」とその名を教えられた神。その神の御心にしたがって、救いのご計画を「この地上、この世にあって」行われるお方としてイエス・キリストを受け入れるなら「生きることができる」ということです。
イエス・キリストを神から遣わされたお方だ!それを真っすぐに受け入れることは簡単のように思えて、実は簡単ではありません。
それは「自分がこの世にあって罪深いこと」、24節にあるように「そのままでは滅びに至る者だ」ということをまず受け入れる必要があるからです。救う必要を何よりご存じだからこそ、神は、御子イエス・キリストを天からこの世に遣わされたのです。
ユダヤ人たちのように「神の子、救い主を品定めするような態度」が論外なのは言うまでもありませんが、「自分は神に救ってもらわなくても大丈夫」という心、思いを捨てることからまず始めましょう。
そのままでは滅びてしまう!その厳しい現実に心を向けつつも、「自分を殺そうと企む者にも、救いの道を指し示される」そのキリストの深いご愛に、身を委ねて歩んでまいりましょう。(祈り・沈黙)
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