7月31日 聖霊降臨節第9主日礼拝
「ただ一つ知っていること」
隅野瞳牧師
聖書:ヨハネによる福音書 9:18~39
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本日の箇所では霊の目が開かれて、主イエスを救い主と信じられるということが記されています。3つの点に目を留めて、ご一緒に御言葉に聴きましょう。
1.主イエスによって私の罪が赦されたと知るだけで、十分である。(25節)
2.追い出された者に、主は出会ってくださる。(35節)
3.主イエスを見た者は、信じ、自らをささげて生きる。(36~38節)
1.主イエスによって私の罪が赦されたと知るだけで、十分である。(25節
前回は、生まれつき目の見えない人が、主イエスによって見えるようにしていただいたことを聞きました。主イエスが泥をこの人の目に塗り、それをシロアムの池に行って洗いなさいと言われ、彼がその通りにすると見えるようになったのです。しかし見えるようになった彼が帰って来た時には、主イエスはもうそこにはおられませんでした。
さて、この人を以前から知っていた人々は大変驚きました。よい知らせと受け取りつつも、安息日に癒しがなされたこともあり、ユダヤ人指導者たちにこの出来事を判断してもらおうと、彼を連れて行きました。ファリサイ派の人々の意見は分かれ、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいました。
彼らは命の危険がないのに安息日に癒しを行ったり、土をこねて泥を作ることは、律法違反であると解釈しました。安息日はそもそも、神がお造りになったすべての命を感謝し喜ぶ日(出エジプト記20:8~11,申命記5:12~15)、またエジプトで休む間もなく重労働に服していたイスラエルの民を神が救い出し、肉体も魂も生きるための休みをお与えくださったという、神の憐れみによって与えられた規定でした。それがいつの間にか、安息日に働く者が処罰される苦しみの日になってしまいました。主イエスは安息日を軽んじたのではなく、本質を見失っていたファリサイ派の人々に、真の安息日の守り方をお示しになったのです。
主イエスについての意見が分かれたファリサイ派の人々は、癒された人に、「いったい、お前はあの人をどう思うのか」と問いました。癒された人は「あの方は預言者です」(17節)と答えました。この場合の「預言者」とはモーセのような神と人との仲介者、直接神の言葉を受けて伝える方、来るべき救い主を示唆しています(申命記18:15~18)。
ユダヤ人指導者たちはこれを認めたくなかったので、この人が本当に目が見えなかったことを疑い、とうとう彼の両親を呼び出しました。両親は、これが私たちの息子であって生まれつき目がみえなかったことは本当だが、どうして見えるようになったかはわからないので、本人に聞いてほしいと答えました。親であれば、イエスという方が癒してくださったのも当然知っていて、その方を探して感謝を申し上げたい。息子と心から喜び合いたいと思っていたはずです。しかしこのようにあります。
「両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」。(22節)会堂から追放されるとは、経済的、社会的、宗教的基盤を失うことでしたから、両親は恐れて口をつぐみました。結果的にそれは、息子との関係を断つことにもなってしまったのです。
これはヨハネによる福音書が記された、1世紀終わり頃の状況を反映していると考えられます。厳しい迫害を受けているこの福音書を読む人々に対して、この両親のように生きるのか、癒された人の道を選ぶのかと問うているのでしょう。両親を責めることはできないと思います。彼らはまだ主イエスにお会いしておらず、脅しを受け、しがらみの中で波風立てずに生きることを選びました。しかし主イエスは、恐れによってではない自由と平和をもたらすために来られたのです。
聖書は決して、信仰を持つと家族や地域と疎遠になるとは言っていません。ただ、主イエスと出会う時に私たちの第一とするお方が変わりますから、周りの人との関係も変わってきます。そのような私たちに反発する方もいるでしょう。しかし逆に、私たちが平安、喜びを持つように変えられていることを不思議に思って、主に導かれる人も出てきます。今まで身を置いていた場所を客観的に、神の視点から見るようにされる時に、私たちは主にあって新しく絆を結びなおし、それらの方々を主の愛によって愛する、より豊かな関係となるのです。
さてファリサイ派の人々は、もう一度男を呼びだし尋問しました。イエスは罪ある人間であり、神のもとから来た救い主などではないと認めよ、と。しかしその脅しに対してこの人はこう答えました。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」(25節)
わからないことはわからないでよいのです。主イエスのことを罪があるとかないとか、そんな判定をすることは自分にはできないという彼の言葉は真実で、勇気があります。ファリサイ派の人々は物知りで、終始一貫して断定的な物言いをしてきました。一方、癒された男は彼らのように聖書を深く学んだことはなく、分からないことだらけでした。しかし彼は、ただ一つはっきりと知っていることがありました。それは、目の見えなかったわたしが、今は見える。これはイエスというお方によるのだということです。これがこの人の知っているすべてでした。そして、それで十分なのです。神が私たちのことを知っていてくださるからです(Ⅰコリント8:3)。
この人は、それまで絶対に敵に回してはいけないと考えてきたユダヤ人たちを前に臆することなく、しっかりと自分の信仰を語っています。自分が体験したこの救いの出来事はまぎれも無い事実であり、そのことを否定することはできない。自分は主イエスのみ業によって目を開かれ、希望をもって生きることができる者となったのだ、と。私たちは自分の信仰の強さによってではなく、主イエスによる救いの体験によって証が与えられるのです。
2.追い出された者に、主は出会ってくださる。(35節)
ユダヤ人たちはイエスを罪人だと認めさせようと、彼にまた同じ質問をします。うんざりして彼は、あなたがたもあの方の弟子になりたいのですかと答えます。彼らはこの人をののしって、神がモーセに与えた律法に従っている我々こそ、正統的な信仰を守っている者だ。イエスは律法に従っていないから、神のもとから来た者ではないと言います。
ユダヤ人指導者たちは主イエスに出会っていますが、その御声を聞いていません。ですから彼らの知識は喜びを持った信仰告白にはならず、人を裁く道具となっています。目の見えない人が見えるようになる。それは救い主が到来した時に起こる出来事であると、預言者イザヤは語りました。聖書の専門家であるファリサイ派の人々は、当然それを知っていたはずですが、彼らは主イエスが神から遣わされた救い主であると認めようとしませんでした。
「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。」(31節)…「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」(33節)(参考…詩編34:16,箴言15:29)癒された人は自立して考え始め、自分の体験に基づき語ります。彼の言葉は単純明解、本当に主イエスに出会うというのはこういうことなのだと思わされます。
「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。」(34節)癒された人が思うように誘導に応じないだけでなく、事もあろうに自分たちに説教したことにユダヤ人指導者たちは怒りました。彼らは強引に男の言葉を否定し、彼を過去に縛りつけるひどい言葉を投げかけて、外に追い出しました。しかしキリストと出会った者は過去ではなく、未来に向かって生きはじめます。今の自分を形作ったものとして過去を見ますが、そこにとらわれることはありません。
ここで「外に追い出した」とあるのは、尋問を受けていた場所から外に追い出されたという以上に、彼の両親が恐れていた「会堂からの追放」、ユダヤ人の共同体から追い出される迫害を受けたことを表します。これは社会的な死刑宣告に等しい裁きです。彼は生まれて初めて世界を見ました。これからは神殿で礼拝をささげ、自分で働くこともできると喜んでいたと思います。ファリサイ派の人々にこんなことを言ったら会堂から追放されると、彼も分かっていたはずです。しかし変えられつつあった魂は、主に従うことを選びました。
「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。」彼は答えていった。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」(35~36節)
彼が追放されたことが、主イエスの耳に入りました。そして主の方から、彼を捜し出してくださいました。私たちが主に従う中で、外に追い出されるような経験をすることもあります。しかし主は、追い出された者を迎え入れ、ともにいてくださる方です。私たちの国籍は天にあります。隠れ家なる神の御前にすべてを注ぎ出し、その愛を受けて、私たちは歩み出すことができます(フィリピ3:20,ヘブライ11:13~16)。
「人の子」というのは「救い主」を意味する称号であるとともに(ダニエル7:13~14)、真の神でありながら真の人となられた方という意味です。「あなたは人の子を信じるか。」もともとの言葉では、「あなたは」が強調されています。人となって私たちのすべての罪や弱さを知り、十字架で救いを成し遂げられる方を「あなたは」信じるか。ぜひ、主にご自身でお応えになってください。まず主イエスによる恵みの御業があり、それを受け止める時に、主イエスに対しての信仰が与えられます。神なんて関係ないと思って生きていた私であった時から、神は私を愛して十字架にかかってくださったのです。私たちはずっと前からそこにあったその御業に、主御自身に、あとで気づくだけです。
3.主イエスを見た者は、信じ、自らをささげて生きる。(36~38節
イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言ってひざまずくと(37~38節)
今彼は主イエスを見ています。彼の目の前におられ話をしている方が、人の子、救い主なのです。これは単に肉体の目で見たということだけではなく、主イエスを救い主として見たということです。彼は「主よ、信じます」と言って、主イエスの前にひざまずきました。ユダヤ人が人間を礼拝することはありません。彼は心の目が開かれたので、主イエスが神であることを知って、信じ礼拝をささげたのです。「イエスという方」、「預言者」と呼んでいた方を、「主よ」と呼ぶようになる…誰かが神を信じ、礼拝する者になる。これこそ神の業です。
さて、私たちもこの人のように主イエスに出会い、救いを知る者とされました。癒された人は会堂の礼拝から追放されましたが、彼は開かれた目で主を見、自分自身を主にささげ、その信仰に生きたキリスト教会の枝とされたはずです。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12:1)私たちもまた、実際に癒された体や心をもって、あるいはすでに持っていた賜物をもって、主を仰ぎ仕えたいと願います。
「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(39節)しかし、今、「見える」とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。(41節)
主イエスがこの世に来られたのは、御子によって世が救われるためです。しかし主イエスに接する時に、救い主と信じる者と信じない者に分かれるということが起きます。ファリサイ派の人々は、自分が「見える」と思っていました。彼らは律法を徹底的に守ることによって、神の目に義しいと認められることを何よりも求めた人たちです。しかし彼らは「自分は知っている」というプライドをもち、主イエスを受け入れることができませんでした。
主イエスが言われたのは、「見える」、つまり自分は救いについて知っており、律法を守ることのできる義しい人間だと思っている者こそ、見るべきものが見えていないということです。逆に、自分は見るべきものが見えていない、私は救われるための力もよいものも何もない罪人だという自覚があるなら、主イエスに求めることができ、罪の赦しが与えられます。
自分は赦しを求めなければならないような、悪い人だとは思わない。人と比べるなら、私たちはそう感じるでしょう。しかし神の前に出る時、自分が照らされます。主イエスを十字架につけたのは特別に悪い人ではありません。これこそが正しいことだと信じて、何が本当のことかわからずに扇動されて、周囲の声に反対できなくてそうなった。私たちもまた、同じではないでしょうか。
自らの罪を認めない、神の御前にひざまずくことが出来ないかたくなさ。私たちは皆この思いを持っています。しかしこの壁を前に私たちは、ただ神の御業が現れることを祈り続けるのです。神は、悔い改めに導き、御前にひざまずくように私たちを変えることがおできになります。これこそまさに神の奇跡なのです。
神が私を愛しておられること、自分がどこから来てどこへ行くか、何が義で何が罪か…それらを全く知らず、霊の目が閉じていた私たちでした。しかし今私たちは、主イエスが私の罪の身代わりとして十字架に死なれ、よみがえり、永遠の命をお与えくださったことを知っています。それは自分の知恵によらず、ただ神が小さな私たちを選び、主イエスと出会わせて、救いの恵みを知る者にしてくださったのです。
私たちは一人ひとりが、主イエスとの出会い、救いの証を持っています。この証は、目が見えるようにしてもらった人と同じく、誰が否定しても否定できない。この身に刻まれ私と一体となって決して忘れないものです。そこにしっかりと立つ限り私たちは、主イエスが誰であるか、いつでもどこでも誰に対しても語ることが出来ます。私たちが知るべきことは、それだけで十分です。(ルカ12:12)
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