「十字架の血による平和~命どぅ宝~」8/7松尾登兄

 

  月7日 聖霊降臨節第10主日礼拝・平和主日礼拝・信徒奨励
「十字架の血による平和~命どぅ宝~」松尾登兄
聖書:コロサイの信徒への手紙 1:19~20



説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

奨励題「十字架の血による平和」コロサイ1:19~20

副題「命どぅ宝(命こそ宝)」

19 神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、

20 その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

頌栄475、奨励前536、応答賛美436

1.序

私たちはコロナ前の4年前、沖縄に行って、戦争で亡くなった方が記銘、祈念されている糸満の「平和の礎」を初めて見学してきました。多くの石碑が林立していて、その一枚一枚に大勢の名が記されていました。そのときは気づかなかったのですが、その名簿にはその地でなくなった敵軍の兵士も記載されていると云うことを後になって知りました。

沖縄戦の戦死者:総計20万余人

内訳

日本兵66,000人

一般県民94,000人

県下軍属28,000人  県民小計122,000人

米兵12,500人

さらに、当地の典型的な墓地を親友に所望して、現場に立ちました。ずっと過去から営まれてきた当地の生活を偲びました。彼らは、家族一同が有事には墓地前広場に集い、先達たちと共に話し合うのだそうです。

今日は教団カレンダーでは平和聖日礼拝と云うこととなっています。私たちも裏手の教会墓地に立って、まさに「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」(ヘブル12:1)。偽りない信仰と確信を持って、平和を語り、平和をつくる者となりましょう。

2.命どぅ宝(命こそ宝)

沖縄ではさる6月23日(木)「慰霊の日」が執り行われました。玉城知事は「健民多数が犠牲になった沖縄で大切にされてきた言葉「命どぅ宝(命こそ宝)」を語り継ぐと誓いました。

また、その式典にて当地の山内小学校2年、徳元穂菜(ホノナ)さんの詩が詠上げられたそうです。

少し長いですが、紹介します。

https://www.asahi.com/articles/ASQ6R3FKLQ6PTIPE01Y.html

題『こわいをしって、へいわがわかった』

びじゅつかんへお出かけ

おじいちゃんやおばあちゃんも

いっしょにみんなでお出かけ

うれしいな

 

こわくてかなしい絵だった

たくさんの人がしんでいた

小さな赤ちゃんや おかあさん

 

風ぐるまや

チョウチョの絵もあったけど

とてもかなしい絵だった

 

おかあさんが、

七十七前のおきなわの絵だと言った

ほんとうにあったことなのだ

 

たくさんの人たちがしんでいて

ガイコツもあった

わたしとおなじ年の子どもが

かなしそうに見ている

 

こわいよ かなしいよ かわいそうだよ

せんそうのはんたいはなに?

へいわ?

へいわってなに?

 

きゅうにこわくなって

おかあさんにくっついた

あたたかくてほっとした

これがへいわなのかな

 

おねえちゃんとけんかした

おかあさんは二人の話を聞いてくれた

そして仲なおり

これがへいわなのかな

 

せんそうがこわいから

へいわをつかみたい

ずっとポケットにいれてもっておく

ぜったいおとさないように

なくさないように

わすれないように

こわいをしって、へいわがわかった

 

あどけない少女の真っ直ぐな心に胸打たれました。大人たちも大いに見習うと良いでしょうか。「そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。』」(マタイ18:2~3)と主が語られた御言葉を覚えずにおれません。

と云いますのも、皆さま、すでにご案内のように今年2月24日にウクライナで戦争が勃発し、多くの悲しみと憎しみが渦巻くこの頃です。その背景には“止むに止まれぬ思い”があることは否定しません。が、その正義は殺戮を、さらに報復の連鎖を…数々の醜さを露呈しています。かつての日本もそんな時代があったことは、昨年の130周年記念事業の一環で催された「平和懇談会」でも、復刻版「私たちの教会の歴史」からも身近なこととして学びました。今年も午後から、そのような時を持ちたいと考えています。

3.主イエスのチャレンジワード

さて、私はこの場に立って、戦争を論じ、社会悪を取上げて、“裁判官”になろうとする者では決してありません。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)という主イエスの言葉だけをご一緒に考えたいのです。クリスチャンたちの中にもいろんなことを云う者があることを知っています。聖戦論(「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」出14:14などに見られる)や究極の平和を希求する預言者の言葉も存在しています。例えば、「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とする。槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(ミカ4:3)などです。

そして主イエスは、次のようにも語っています。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:43~48)と。現代のクリスチャンにとっては、主イエスの大いなるチャレンジワードとなるでしょう。

4.旧約に見る隣人愛の限界

イスラエルには旧約聖書の時代から隣人愛の戒めが存在しました。「復讐してはならない。民の人々に恨むを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18)とあります。民族同胞である隣人を愛することは、イスラエル共同体に属する人々が守るべき基本的規範であり、旧約聖書の戒めを総括する基本的な戒めです。しかし、この戒めには民族共同体という限界があったことは歪めません。他の民族との関係を律するものではなかったのです。イスラエルの歴史を振り返ると、ユダヤ民族は古来様々な周辺民族と対立し、戦争になることも多かった。民族主義的な主張が争いや戦争を引き起こす原因となることは、この民族の歴史が物語っています。

主イエスは律法の精神の総括として隣人愛を説く一方で、それを越えた「敵を愛する」教えを語ったのでした。福音書に取り上げられているイエスの「敵を愛する」の教えにおいては、愛の対象は、互いに愛し合う共同体内に限定されず、敵対する人々にも向けられたのです。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命ぜられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタ5:43~44)。

旧約聖書にも、「敵が倒れても喜んではならない。彼がつまずいても心を躍らせるな」(箴24:17)と宣べていて、むしろ親切にするように勧めは散見されます。

しかし、「もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない」(出21:23~25)という応報原理が支配的であり、重大な危害を加えた者に対して復讐することは当然の権利とされてきました。まさに今日と同じであるかも知れません。

5.イエス特有の教え

この応報原理の考えは、イエスと同時代のユダヤ教においても色強く、敵を愛するように勧める発言は見られないようです。従って、応報の原理や相互性の原理を越えた「敵を愛する」の教えは、イエス特有の教えであり、他には見られない初期キリスト教の特徴を形成していたことをしっかり押さえておきましょう。

事実、三世紀頃までキリスト教徒は、イエスの教えを文字通りに守って武器を取らず、戦争には加わらなかったのです。“マサダの砦”で皆さまもご承知の方も多いAD.66~73年の”ユダヤ戦争“の際にも、イスラエルのユダヤ人の多数の行動には組みせず、反ローマの武装蜂起に加わらず、ヨルダン川対岸のペラに避難したと、「エウセビオス『教会史』」に記されているそうです。

当時のキリスト教徒はユダヤ人世界においても、異邦人世界においても社会の少数者であり、社会全体の体制を支える役割はなく、イエスの教えを信仰者個人に向けられた宗教的・倫理的教えとして純粋に守ろうとしていたと言えるかも知れません。

去る5月末に上映しましたDVD「クォヴァディス」にも見られました。「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」(イザ53:7)をさながら再現するかのようでした。コロシアムで見世物とされ、ライオンの餌食となるも、しばらくすると静かに祈り始め、賛美する姿はこの世の光景でないかのようでした。脅しでは決して出来ないローマの人々の心に訴えたのでした。これは単に理想ではなく、現に歴史に刻まれた事実です。

6.キリストの平和とは

確かに、イエスに従う者が神のように完全な存在になることは不可能に近いでしょうが、神の寛容に顕された完全性に倣う努力をすることは出来る訳で、それは敵対する者たちも自分たちと同じ人間であり、かけがえのない存在として神の愛は彼らの上にも注がれていることを知り、彼らのために祈ることに他ならないのです。

尚、パウロ書簡や使徒たちの文書にも同様な「敵を愛する」の教えの反映が見られます。

「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」(ロマ12:14)と真っ直ぐな奨めがあり、実行の不可能性についての議論はそこには見られません。

当時のローマでは、政治的な統治と武力による「平和」しかなかった時代ではありますが、現代も類似した世界です。

しかし、声を大にして言いますけど、イエスがもたらす平和は「力による平和」ではありません。イエスは神の国の福音を語り、人々に対して愛に生きることを勧めることを通して、人と人が争うことがなく、互いに赦し合って生きる平和な世界の実現を語られました。

地上で実現される神の国の平和のイメージは、ナザレの会堂で主イエスが朗読したイザヤ61:1~2からの引用にも窺えます。

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(ルカ4:18~19)と、様々な圧迫や拘束や苦難からの解放の時として表現されています。

弟子ペトロは、主イエスのガリラヤにおける宣教活動を通して人々への宣教を、「神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を」(使10:36)と総括しています。新改訳2017では「平和の福音を宣べ伝える」と訳されています。

さらに、主によって世に遣わされた弟子たちにも、「平和の子がそこにいたらなら、あなたがたが願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる」(ルカ10:6)と言い含められて宣教活動を続けて、人々に神の国の平和をもたらす務めを自覚していました。

こうした非暴力的な手段による平和の実現は、軍事力による征服や威嚇に支えられた「ローマの平和」とは対照的です。

7.「キリストの平和」の実現には

使徒パウロも然りでした。本日の聖書箇所コロサイ書にやっと戻ります。

パウロも「人間は思いと言葉と行いを通して神に離反し、その結果、全被造世界が神との敵対関係に陥っていること」、「神と人間との関係を回復し、世界に和解と平和をもたらすためには、罪が贖罪の業によって取り除かれ、神が人間の罪を赦すということ」が不可欠であると語るのでした。初期のキリスト教会は、既に民族の壁を越えて広がり、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、キリストを信じる者は等しく神の子とされていったのです。

しかし、民族的帰属や文化的伝統や生活習慣の差を超えた“キリストにおける真の一致”を実現するためには、信徒たちの心の中にある相互不信や敵意を取り除くことが必要でした。

パウロはエフェソ書で信徒たちに、「心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです」(エフェソ4:23~25)と勧めています。かつ「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」(同5:1~2)と。そうして、私たちの祈りは大きくなり、神に届くのではないでしょうか。

8.不断の戦い

しかし、世界には悪の力が残存し、人の心に働きかけて神の御心に適わない悪を行うようにそそのかしているのも事実です。そのような中で、真理と愛に歩もうとすることは、不断の戦いとして意識されることになるのでしょう。次の言葉は、信徒たちが経験する日常生活における霊的戦いに言及しています。

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」(エフェソ6:10~17)と。

そうして、「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください」(エフェソ6:18~20)と続くのです。

これは読者の間に存在する同時代のローマの兵士の装備と戦闘行為のイメージを重ねて、それを信徒の霊的な戦いに転写したものでしょう。

初期のキリスト教徒は平和に生きる者として現実の戦争において武器を取ることを放棄しているのですが、平和の実現を妨げる悪の力に対する心の内なる霊的戦いには招かれていることになります。

9.結語

結論としてまとめますと、新約聖書ではイエスの生き方と教えを通して「平和」ということが強く語られ、平和思想は初期キリスト教の基本的な行動原理となっているのです。もう一度復習しますと「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)と主は語り掛けられました。

紛争解決の手段としてイエスは和解すること(5:23~25)、人を赦すこと(6:12~15、18:21~35)を勧め、復讐を禁じ(5:38)、敵を愛することを求めています(5:44)。イエスの平和主義は、徹底して非暴力であり、応報原理や民族共同体の限界を越えた普遍性を持つことにその特色があるのです。

そしてパウロ書簡には、キリストの十字架が、人間の心の中にある不信や敵意を克服し、神と人との和解と平和、人と人との間の一致を可能としたことを強調しているようです。本日の御言葉に取り上げた箇所にも「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」(コロサイ1:19~20)とあったとおりです。

初期のキリスト者はイエスの教えを守って武器を取って戦うことは決してしなかったが、信仰を守るために心の内なる戦いを続けていたと言えるでしょう。

随分と遠回しに申し上げてきたわけですけど、私たちクリスチャンの闘うべきは「信仰を守るための内なる戦い」をなすべきであり、兄弟愛や隣人愛に些かももとってはならないと云うことです。たとえ社会悪ゆえに身辺に危険が及ぶとしても、私たちクリスチャンは「平和の使節」であることを明確に証しすることこそが、使命であり、唯一のなすべきことなのです。

4世紀末(392年)にキリスト教はローマ帝国の「国教」として成立しましたが、さらになぜ「迫害」する宗教に変質しのでしょうか。旧態依然とした神学と権威・権力を保持した現在の「正統的キリスト教を解体し、歴史に生きた「イエスの生き方の核心」に立ち戻って、「キリスト教の在り方」を問い直さなければならない」とは、日基新発田教会牧師の清水和恵牧師の評論がありました(本のひろば7月号「ガリラヤに生きたイエス」より)。

私はかすかに覚えています。小さな頃、喧嘩で負ける時「負けるが勝ち!」と言っては悔しさを晴らしていました。しかし、クリスチャンは悔しさ紛れにではなく、“十字架の血によって平和をもたらした”御子なるイエス・キリストを信頼して、暴力に対して、いささかも復讐を思わず、イエスの「敵愛の教え」を互いに励まし合いながら遵守しませんか。暴力には「負けるが勝ち」です。主はご覧になっています。(執り成しの祈り)

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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