「だれも暗闇の中にとどまることがないように」1/15 隅野徹牧師

  月15日 降誕節第4主日礼拝
「だれも暗闇の中にとどまることがないように」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書12:44~50

 先週から再びヨハネによる福音書の箇所を続けて読むことにしています。

先週皆様と味わった箇所は、ヨハネによる福音書の中で大きな分岐点となる箇所だとお話ししました。それまでの箇所では「イエス・キリストが公に、業を表されたり、お語りになったり」して「救いに至るために、各々自らの罪を悔い改めて、ご自分を救い主として受け入れる」ことを薦めてこられました。

 しかし、前回の箇所である36節以下では「人々がイエスを信じなかったこと」また「信じても、それがただ自分の心の中で止まっていた」人が多かったことが書かれ

ていました。36節には「イエスは身を隠された」とあり「民衆の前で語るのは、いったん終了された」という意味合いの言葉が語られていることをお伝えしました。

いよいよ「十字架に向けての苦難の道を神の子キリストが歩まれる」のですが、今日の箇所の初めの44節では「イエスは、叫んでこう言われた」と書かれていて「あれ?」とお感じになった方もおられることでしょう。「身を隠されたはずなのに、誰に向かって、叫ばれたのだろうか…」と。

これは「群衆に対する御業とみ言葉のまとめ、しめくくりがここでなされている」と理解するのが良いと私は考えます。先ほどからお話ししているように、12章の最後は「ヨハネ福音書の大きな分岐点」です。そのことを踏まえるならば、44節の「イエスは叫んで、こう言われた」というのは、イエスがここで突然叫んだというのではなく、「これまで人々に対して大きな声で語ってこられた言葉を、ヨハネがまとめている」のです。

内容的にも何か新しい教えが語られているわけではありません。しかしイエス・キリストが人々に語られた教えの要点は何だったかを確認できる大切な箇所なのです。深く味わってまいりましょう。

44節から50節で、語られていることはいくつかのポイントに分けられると感じます。

 一つ目は、イエスは「ご自分が天の神から遣わされたこと」です。

その目的は46節にあるように、すべての人間が「暗闇に留まることがないように、心の闇に光を当てるために、天の父なる神から遣わされたのだ」ということが教えられます。

これは、ヨハネによる福音書が繰り返し語ってきたことです。

クリスマスによんだ「ヨハネ1章」にも、9節で「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」とありましたし、そのほかにも、同じようなことが何度も語られてきました。それだけ「大切なこと」なのです。

皆様も「イエス・キリストとは一体何者なのか」という質問を周りから受けた時、今回の箇所であるヨハネによる福音書12章46節をお答えになるとよいと思います。

「暗闇のようなこの世を罪から私達一人ひとりを救い出すために、イエス・キリストは光として来られた」このことは、アドベントの「クリスマスツリー点灯式」のときに語ることが多い箇所です。

 なぜクリスマスに「イルミネーションなのか」の一つの根拠ともなる箇所ですので、ぜひ覚えていただいたらと思います。

さて今回の箇所で教えられる二つ目ポイントは、イエスが語られる言葉は、自分勝手に語られたものではなくて、「父なる神が命じられたままの御心をそのまま語られている」ということです。そして「イエスの言葉を信じる者は、遣わされた天の父なる神を信じることになる」ということです。 44節、45節、そして49節などからそれが分かります。

ここまでヨハネ福音書では、人々がイエスを「神の子、救い主として受け入れず」に「神を冒涜するものだ」として攻撃していたことが記されてきました。また「神の子であるならこれこれをしてみろ」といったり、「神の子であるならば、もっともっと奇跡の業を行え」と迫ったり、遜って神の子を心に迎え入れるのとは程遠い「自分に都合のよい存在」としてイエスを見る人々の姿が描かれていました。

しかし、イエスの語られた御言葉、なさった御業はすべて「天の父なる神」の御心を表すものであって、イエスの言葉、御業を信じ受け入れることは神を信じることなのである!ということを、ヨハネは今回の箇所で示そうとしているのです。

このように、いままでのイエスの宣教のダイジェストと言える今回の箇所ですが、もう一つ大切なこととして語られているのが「47節、48節」に語られている「裁き」です。

1イエス・キリストが、人間を罪から救い出すために、天の父なる神から遣わされた救い主であること、2そのイエスは神の御心をそのまま表されるお方であって、イエス・キリストを信じることは、そのまま「天の父なる神を信じること」であるという二つの大切なことに加えて「裁き」のことが出てきているのです。

 ある牧師は「救いと裁きは表裏一体」と言っていますし、他の牧師は「神の裁きが語られなければ、何から救われるのかがぼやけてしまう」といっています。

神の裁きと聞いてよい気持ちになる人はいないでしょう。神の前での裁きは、信仰をもった人にとっても「本当は大変に恐ろしいものである」ということを忘れてはならないと思います。

すべてのものは「罪人」です。その罪人が「特別にイエス・キリストによって救われる」のです。残りの時間、そのことが詳しく教えられた47節と48節をじっくりと味わって、メッセージを閉じます。

48節から先に読みます。

ここでは、イエス・キリストの語られる言葉・教えの「重さ」が改めて示されます。イエス・キリストの言葉、教えは、この世のすべての創造主である「神の言葉」であり「神の思い」を表すものです。ですので、これを「拒み、受け入れない」ことは、私達の造り主である「神」を拒絶することなのです。

 ローマの信徒への手紙の1章19節と20節、開けられなくて結構ですが、このような言葉が出てきます。

「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現わされます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。」

 「彼らにも」というのはすべての人間を指します。たとえば聖書を読んだことがない人でも、正しくないこと、神のみ旨でないことは、神がはっきりとお示しになっているということが語られるのです。

 今のローマ1章の教えは、今回の箇所のヨハネ12章48節と繋がると、私は考えます。イエス・キリストの言葉は、今もこの世界で生きて働いているのです。

 何が「正しいことで、何が罪なのか」それはイエスによって証され、それが世界中に伝えられています。それは人間の側が「知らなかった」で済まされることではないと聖書は教えます。

 イエス・キリストが語られる「言葉・教え」それを私達は拒むのではなくて「心を開いて聞く」必要があります。私達は、自分が何者であるのか、終わりの日、神の前に出た時に「本当はどう審判されるものなのか」そのことが「キリストの言葉」を聞くことで心に迫ってくるのであります。畏敬の念をもち、遜って、歩んでまいりましょう。

 しかし一方で、本来造り主である神の前に、「裁かれる罪人である私達一人ひとり」がそれでも救われる道があることが47節ではっきりと示されるのです。

(※最後に残った47節を、ゆっくりとよんでみます)

48節で確認したように、私達すべての人間は「イエス・キリストの言葉」を聞く必要があります。しかし、私達は弱さをもっていますから、その言葉や教えをそのまま守ることができない者です。

 そんな「教えを聞いても、守ることができない私達が」裁かれることなく、救われるために、イエス・キリストはこの世に来てくださったのだ、とはっきりと教えられています。

神の御心を行えず「神の御前に罪を犯してしまう私達一人ひとりに代わって」神の御子が十字架にかかり死んでくださいました。さらに死を打ち破って復活してくださったことによって、私達も「罪からの救い」に与ることができるのです。

 このことをイエス・キリストは人間を愛するがゆえに「大きな声で、叫ぶようにして」伝えられたのです。

 私達は、その思いを受け取るとともに、イエスの「愛ゆえに一人でも多くの人を罪から救い出したい」と願っておられる、その思いを、人々に伝えてまいりましょう。

(祈り・沈黙)