「イエスの行かれる所」2/12 隅野徹牧師

  月12日 降誕節第8主日礼拝・信教の自由を守る日
「イエスの行かれる所」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書14:1~6

 

 今朝も、ここのところ続けて読んでいます「ヨハネによる福音書」の「十字架につながる場所から」語ることにします。先週は「新しい掟」という題で語りました。十字架が目前に迫った中、イエスが弟子たちに教えたのが「ただ仲間と仲良くしなさい」ということではなく、「イエスが、裏切る弟子たちを、それでも愛し抜かれたように、自分を傷つけて来る人、裏切った人をも愛し受け入れなさい」ということが「新しい掟」として教えられたのです。

 そのイエスの話の中で「わたしが行く所にあなたがたはついて来ることができない」という言葉が数回語られました。今回はその「イエスが行かれる場所」そして「人間がそのままではついていくことができない場所」について、御言葉を味わってまいりたいと願います。

 今日はこの後、ギデオン協会さんからの報告・アピールがありますので、いつもより短めにお語りしますが、今日は短く「人間にはよくわからない、天国という場所」について、とくに絞って「聖書は何と言っているか」を共に学ぶことといたします。お一人お一人にとって理解を深める時となることを願っています。

聖書を詳しく読む前に、皆さんで共有したいことがあります。それは「天国」が人間の知能での理解を超えた場所だ、ということです。このことは、よく祈祷会で話題になりますが、天国について一人ひとりがイメージしていることがまるで異なっている場合もありえるのです。天国はどんな場所か、それは人間がこの地上に生きている間「正確に捉えること」はできないのです。

しかし!聖書はいくつかのことを私たちに教えてくれます。

 今日の箇所で、イエスが仰っていることが、皆さんの心に残り「私は天国に行ける。そのことを希望にもってこの先生きて行こう!」そんな思いを持っていただけたら幸いです。

まず注目したいのは2節の最初の言葉です。

ここでイエスは「私達はまだ行ったことのない天国」について、一つのことをおして下さいます。それは「住むところがたくさんある」ということです。

コロナ禍で、「人数制限」とか「限定何名まで」という言葉が世間でアナウンスされました。それは「スペースに限りのある空間」で感染を防ぐうえで仕方ないことだったと思います。

しかし、天の父なる神のおられる天国は「空間的に無限の場所」であり、「すべての人間に対して、そこに住むチャンスが与えられている」そういう場所なのだということがはっきりと分かります。

最近ニュースになって騒がれましたが、宗教と称してこんな極端なことを教える人たちがいます。

「天国にいくには〇〇をしなければならない」とか「天国には全部で何人しか入れない。だから〇〇をした人だけが入れるのだ。そうでない人は…」という感じです。

人を恐怖に貶めて、そして信じ込ませようとする…本当に憤りを覚えます。しかし聖書は、そしてイエス・キリストはそうは言っていません。「住むところがたくさんある」と仰っていることをまずは覚えていましょう。

では、だれが天国に行くことができるのでしょうか?そのことも、今回の箇所に一つの答えを見出すことができます。次にこのことを考えてまいりましょう。

本当なら私隅野徹も天国にいくことができないのです。 牧師は行けるでしょう?と思われる方があったかもしれませんが、全知全能の聖なる神様がおられる「天国」に、罪のあるものは、行くことができないどころか「近づくことさえできない」のが本当です。

すべての人間が、罪をもっているために行くことのできない場所が天国なのです。自分の努力ではだれも行くことのできない場所、それが天国であることをまず確認いたしましょう。

しかし、私隅野徹は罪深いですが、それでも「天国に行ける、神のもとで憩うことができる」と信じています。それは「特別に私を天国へと導いてくださる、神の御子イエス・キリストを救い主だと信じているから」です。

先ほどから、天国は「空間が無限にあり、誰でもが入れる可能性がある」所でありつつ「そこは聖なる場所であって、罪深い人間が自分の力で行くことが絶対にできない場所である」ということをお話ししました。

しかし、神の御子、救い主イエス・キリストは「十字架と復活」を通して、罪深い私たちが、それでも天へいくことができる「道」となってくださったのです。

それは6節の「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」ということばに強く表されています。               

そして、天国で私たちが「住む場所・暮らす場所」が、ほかならぬキリストによって用意される、ということが2節と3節で教えられるのです。

イエスが弟子たちのもとを離れていく理由が語られます。つまりは十字架にかかり、死んで葬られ、三日目によみがえり、天にお帰りになる、「その理由」です。(※よんでみます)

 イエスが弟子たちのもとを離れられる理由、それが「あなたがたのために、場所を用意しに行く」という言葉に表れています。これは「この地上での歩みを終えた後、神と一つとなって生きる」ことが私たちの人生の大きなゴールであることを教えるものです。つまり「イエス・キリストが、十字架と復活を通して、私たちが地上の歩みを終えた後、完全に一つとなって生きることができるようにしてくださる」のです。十字架と復活は「私たちの天での居場所をつくってくださるためだ」と教えられているのであります。

今「私たちの天での居場所」と言いましたが…皆様、天国での「わたしたち一人ひとりの場所」それがどんな場所か想像してみてください。

 多分一人ひとり、描くイメージはまるで違うと思いますが、私はそれでよいと思います。この地上での旅路を終え、天に凱旋したときの「お楽しみ」なのではないでしょうか。

どんな場所か?も、もっと大切なことは「その天における、私たちの住む場所」が他ならぬイエス・キリストによって用意されると教えられていることです。つまり「キリストぬきに、天国での私たちの命は存在しえない」ということではないでしょうか。

私個人の考えですが、天国は洗礼を受けた人でないと絶対に行けないとか、そうは思いません。

もちろん、「キリストを信じて、罪の赦しの恵みを知って新しく生きるしるしとして」洗礼は多くの人が受けてほしいと切に願っています。しかし、洗礼は天国に入るための「手段ではない」のです。

イエス・キリストご自身は天に昇られるまえ、弟子たちに対し「多くの人に宣教をし、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と命じられました。 3

それは「天国に行く手段として、授けなさい」と仰ったのではなくて、救い主であるご自身と共に歩むための「しるし」として授けなさいと仰ったのだと理解します。

では、洗礼と天国が無関係かというと、そうではないと私は考えます。

今回の箇所のイエス・キリストの言葉から理解すれば「少なくとも、天国における人間の暮らし・命というものは「キリストと無関係では、存在しえない」ものであるということがはっきりするのではないでしょうか?

やはりイエス・キリストというお方に救いを求める、その「思い」が天国につながるのだと信じます。神、キリストは私たちの心のうちをご存じです。

「キリストによって罪から救われたい。そのキリストとともに生きたい」と心から願って洗礼を受けるならば、必ず天の国に行くことができる! 

それは今回の箇所から、はっきりと読み取れることだと考えます。

天国なんて行く必要があるかどうかわからない、そもそもあるのかどうかも分からない…そんな考えが蔓延している現代社会です。しかし、天国がイエス・キリストの十字架の赦しを通して「すべての人に開かれた場所」であることを、希望をもって伝えていきましょう。

そして「この世の人生を終えたら、もう何も希望はない」と思っている人たちにたいし「イエス・キリストを救い主として受け入れるならば、この地上の生活を終えたあと、キリストの用意された場所にいくことができる。そしてキリストと一緒にいることができるのだよ」そのように証しするために、今日の箇所をこの先も繰り返し味わっていただくことを願います。(沈黙・黙想)