「主を愛する人に与えられる約束」2/26 隅野瞳牧師

  2月26日 受難節第1主日礼拝
「主を愛する人に与えられる約束

隅野瞳牧師
聖書:ヨハネによる福音書 14:15~31


 本日は御子の昇天によって聖霊が遣わされ、救いの新しい時代が開かれていくことについて、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉にあずかりましょう。

1.父なる神は別の弁護者、聖霊を遣わしてくださる。(16,18節)

2.主を愛する人は主の掟を守る。御子はその人に御自身を現し、共に住まわれる。(15,21,23節)

3.聖霊は福音の真理を悟らせる方である。(17,26節)

 

1.父なる神は別の弁護者、聖霊を遣わしてくださる。(16,18節)

最後の晩餐において、主イエスはくり返し「父のもとへ行く」と語られます。これから主は十字架で死なれ、復活し、昇天されますが、それは目に見える形では弟子たちのもとを去ることでした。主は恐れの中にある弟子たちを強め、彼らを通して建て上げようとされている教会を御心において、語られました。

「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(16節)

主イエスは、たとえ私がいなくなっても別の弁護者、聖霊を送ると約束されました。この方は主イエスのように十字架にかかり天に昇られることなく、永遠に共にあってくださいます。聖霊は肉体をもった主イエスに代わる方であり、信じる私たちと御父をつないでくださいます。「弁護者」と訳されている言葉は「傍らに呼ぶ」という言葉から出たもので、私たちのそばにあって慰め、語り、力づけてくれる存在です。

「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8:26) 

私たちが助けを必要とする時、孤独である時、迫害されている時、自らの罪に苦しむ時に、聖霊は私たちを助け、慰め、弁護してくださいます。御子が私たちの罪を全て背負って十字架にかかり裁きを引き受けて下さったゆえに、私たちの罪はもう帳消しにされていると、明らかにして下さるのです。

人となられた御子イエスの最も重要なお働きは、十字架の死と復活によって救いを成し遂げることでした。インマヌエル…神が私たちと共にいてくださることの具体的な現れとして、御子は愛とは何かを、身をもって示されましたが、人としての時間や場所の制約、弱さを抱えておられました。しかし聖霊は私たちの内に働いて、御父のもとに帰られた御子の地上でのお働きを限界なく継続し、推し拡げてくださる方です。聖霊が遣わされる約束はペンテコステに実現し、そこから教会が始まっていきます。

「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」(18節)

 主がみもとに帰られるという不安の中にいる弟子たちに、主は必ず戻ってこられると約束してくださいました。みなしごというのは、保護者がいない子供のことです。自分の力で生きていくしかないのですから、底知れぬ孤独、恐れと不安を抱えていることでしょう。私たちは誰かに愛されて、初めて人として生きることができます。その愛は通常、最初は肉親の親から与えられるものですが、親もまた罪や欠けを持ち、癒されない傷を抱えていて、難しいこともあります。そして私たちは友人や夫婦などに、満たしを求めるようになります。

しかしただ神お一人が、私たちを真の愛で満たしてくださる方です。神は私たちの罪を赦すだけでなく私たちを子とし、永遠の命を受け継ぐものとしてくださいました。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」(ローマ8:15~16)聖霊を受ける時、私たちに「あなたは神の子とされている」という確信が与えられます。親の愛のもとにある幼子のように、私たちは恐れることなく自分らしく命を輝かせ、困難の中でもいつも主の愛に守られて生きていくことができるのです。

「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」(20節)

「かの日」とは弟子たちに約束の聖霊が注がれたペンテコステの日のことです。そして私たちにとっての「かの日」とは、私たちが御言葉を通して主に出会い、信じた時です。主は弟子たちに、御自身が父のみもとに帰られても、交わりが終わるのではないと語られます。それは愛の交わりの新しい形が始まったということです。その日には、御子が御父の内におられるという愛の交わりが、驚くべきことに私たちにももたらされ、御子が私たちの内に、私たちが御子のうちに愛し合って一つとされるのです。

人としての主イエスに直接お会いした弟子たちだけでなく、彼らを通して御言葉にあずかる者たち、私たちもまた信仰によって、復活し今も生きておられる主との交わりに入れられます。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(Ⅰペトロ1:8~9)教会は聖霊によって、復活の主との交わりが与えられる場所なのです。

 

2.主を愛する人は主の掟を守る。御子はその人に御自身を現し、共に住まわれる。(15,21,23節)

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。…(15)わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。」(21節)  

聖霊を送る約束は、「主を愛する者はその掟を守る」という御言葉に囲まれています(15節,21節)。聖霊によって主と教会に連なる者とされた私たちは、主イエスを心から愛し、その掟を守りたいと願うようになります。主が弟子たちにお与えになった新しい掟は「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34~35)というものでした。「わたしがあなたがたを愛したように」ですから、まず主イエスによって与えられた神の愛を誰かと共に受けることから始まります。同じ主を信じる者たちが共に主の恵みを喜び、祈り、賛美するところに聖霊はお働きくださいます。

主が何かを命じられる時、必ずそのための主の約束があります。主が愛されたように互いに愛し合うために、聖霊が注がれるのです。私たちの内に信仰を与え主との交わりに与らせてくださった聖霊は、引き続き私たちのうちに働かれます。聖霊は神の救いに対するあふれる感謝を起こさせ、その感謝は私たちから神と隣人への愛、福音伝道、神に喜ばれる生涯を「実」として生み出します(ガラテヤ5:22~23)。私たちが主の掟を守るから神に愛されるのではなく、神の愛の中で生かされている時にその現れとして、主イエスの掟を守るようになるのです。

「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか。」…イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。」(22~23節)

イスカリオテでないユダとは、タダイという弟子であると考えられます。彼は主イエスが救い主であるならば、御自身の栄光をなぜ世にも現して、すべての人が救われるようにされないのかと疑問を投げかけました。私たちは礼拝また日々の生活において、主イエスが現れて下さることをしばしば経験します。しかしどうしてこれが、私の周りの方々には分かってもらえないのだろうか。このユダのような疑問を私たちももっているのではないでしょうか。復活の主がもっと現れてくださったならば、皆主を信じるのにと思う方もおられるかもしれません。しかしここに主が言われているとおり、信じていない者の前に現れていても、復活の主は見えないのです。

ルカ24章では、主の復活を信じられずエマオに向かっていた弟子たちの箇所にこの真理を見ることができます。論じ合っている弟子たちに復活の主御自身が近づいてきて、一緒に歩き始められましたが、「二人の目は遮られていて、イエスだとはわからなかった」のです(ルカ24:16)。しかしここで大切なことは、絶望の中で主から離れて行こうとしている弟子たちに主の方から近づき、共に歩き、信じることのできない彼らの話を聞き続けてくださったということです。なんという希望でしょう。すでに主は、私たちと共に歩いておられるのです。彼らが変えられたのは主が聖書全体を通して、これが御自分について書かれていることであると説き明かし、二人の霊の目を開いてくださった時でした。

神は心を開いて御自身を受け入れる者に、御自分を現されます。けれども心を開かない世は愛さないということではありません。「神は…世を愛された」(3:16)のです。かつて神を信じることなく知ろうともしなかった私たちです。しかしそのような私たちを主は愛して独り子をさえ惜しまずに与え、信じる者に永遠の命を与えてくださったのです(ローマ5:8)。

御父と御子は御言葉を守る者のところに行って、一緒に住んでくださいます。「一緒に住む」は、「彼と共に(私たちは)住む場所を建てる」という意味です。私たちは聖霊を受けて主のものとされます(Ⅰコリント6:19~20)。そして主の救いを受けた一人ひとりは一つの聖霊に結ばれた教会となり、キリストにおいて組み合わされて成長し、神の住まいとなるのです(エフェソ2:21~22)。

 

3.聖霊は福音の真理を悟らせる方である。(17,26節)

「この方は、真理の霊である。」(17節)「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(26節) 

 弁護者なる聖霊は「真理の霊」です。聖霊は私たちに真理であるキリスト、またその福音を明らかにしてくださいます。弟子たちは主のお言葉を聞いたその時には、理解できませんでした。しかし主の十字架、復活を経て聖霊が降ると、彼らは福音の真理を悟りました。

「腑に落ちる」という言葉があります。腑とは内臓のことで、昔はここに心が宿っているとされており、頭だけでなく体全体、心の底から深く納得できたことを表します。聖霊が霊の目を開いてくださると、主の十字架が、まさに私の肉を食べ血を飲みなさいと言われた御子の命をいただくことだとわかります。私と一体となって御言葉がこの身に入ってくる感覚です。聖霊によってわたしたちは御言葉を今、私たちに語られた主の御声として聞き、主御自身に触れていただくことができるのです。聖霊を受け、後に世界中に遣わされていった使徒たちは、律法学者のような教育を受けていませんでしたが、聖霊によって主イエスが救い主であることを聖書から説き明かし、その福音によって救われる人が起こされていきました。

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(27節) 

主は「わたしの平和」を残すと約束されました。私たちが考える、また世の支配者が与えようとする平和は、経済的な安定、健康、戦争がない状態などをいうのでしょう。それは一時的なもので、環境を変え、一つ乗り越えたと思っても、また別の問題が起こります。

しかし、主イエスがここでおっしゃっている「わたしの平和」とは神との平和です。単に争いがないという状態ではなく、何物によっても阻害されることのない自由、満たされている状態、調和を意味します。キリストの十字架によって罪赦され、新しく生まれた者は、裁かれる恐れなく神とともに生きることができるようにされます。そして主によって新しく生まれ、隔ての壁を砕いていただいた者たちが一つの体、教会とされて、そこに平和が実現します(エフェソ2章)。神と和解させていただいた私たちは、和解の言葉である福音を委ねられて世に遣わされます。神と人とが和解するために仕える、つまり平和を作り出す者とされるのです。

主の平和は上から私たちの内に与えられる、どんな状況でも奪われることのない平和です。先ほど神は私たちを子としてくださり、聖霊がそれを証してくださるとお話しました。親に抱かれてすやすや眠っている赤ちゃんは、「明日はどうやって生きていったらよいだろうか」と悩んでいません。親を全く信頼しているからです。神の子どもとされた私たちもまた、主に信頼する時に真の平和が与えられます。不安や恐れがある時、心を静めて聖霊の助けを求めましょう。聖霊はわたしたちの心の目を開き、御父と主イエスがわたしたちと一緒に住んでおられることを思い出させてくださいます。

「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」(30~31節) 

世界は父なる神のご支配の中にありますが、ここで世の支配者と言われているサタンには、限定された範囲で私たちを試みることが許されています。サタンは人々の罪の中に働いて主イエスを十字架につけようとしますが、それによって御子を滅ぼし、救いのみ業を打ち壊すことはできません。主はご自分の意志で父の御心に従い、羊のために命を捨てて救いを成し遂げられます(10:18)。

主イエスのみわざは聖霊を受けた弟子たち、また私たちを通して続いています。私たちは一人ではありません。よみがえり今も生きておられる主が、聖霊によって共にいてくださいます。ここから立ちあがって、主イエスと共に神を愛し、人を愛する道へ、神の平和を運んでいきましょう。