「壺の粉、瓶(かめ)の油は尽きず」7/21 隅野瞳牧師

  7月21日 聖霊降臨節第10主日礼拝
「壺の粉、瓶(かめ)の油は尽きず」 隅野瞳牧師
聖書:列王記上 17:1~16

(画像が開くのが遅い時は「Reload Document」または「Open in new tab」を押してみて下さい。)

Loader Loading...
EAD Logo Taking too long?

Reload Reload document
| Open Open in new tab

 本日は神に養われる恵みについて、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉にあずかりましょう。

1.私たちの仕える主は生きておられる。 (1節)

2.神は小さき者を通して救いの御業をなさる。(4,9節)

3.神を第一とする時に、私たちの必要は満たされる。(15~16節)

本日与えられた御言葉は紀元前9世紀、イスラエルの王アハブの時代のことです。アハブ王は最も主の目に悪とされることを行った王で、イスラエルの多くの人々も主に背いていました。そのような時代に神に立てられたのが預言者エリヤでした。エリヤがアハブ王の前に立つまでのことは記されていませんが、彼は主に背を向けたイスラエルが主に立ち帰ることを祈り求めていたのでしょう。

 

1.私たちの仕える主は生きておられる。 (1節)

「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私が告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」(1節)

 アハブ王がシドン人の娘イゼベルを妻とし、バアル神を拝んでいると聞いたエリヤは、神の怒りに燃えてアハブ王のところに来て、主の言葉を告げました。パレスチナは乾燥地帯であり、雨が降らなければ直ちに干ばつ、飢饉になります。当時の人々にとって、雨は生死に関わる重大問題でした。かつてエジプトを出てカナンの地に入ったイスラエルの民は、その地の人々が礼拝していた、農耕を左右する雨をもたらすバアルに心ひかれていきました。ここでエリヤが告げたように雨が降らなくなるということは、主こそ真の神であり、万物を治め命をもたらす方であるとお示しになるということです。バアルは多産神でもあるとされ、バアル礼拝では神殿での儀式的な売春行為や、子どもを生贄にすることもありました。主なる神はこのような忌まわしい偶像礼拝から立ち帰るようイスラエルの民に命じておられました。

 偶像礼拝とは、自分に利益を与えてくれる神を拝むことです。イスラエルの民は主なる神よりも、偶像神に頼りました。預言者たちは繰り返し、バアルを拝んではならないと警告しますが、根絶できません。それは偶像礼拝が、人間の欲望を映し出したものだからです。偶像礼拝は自己中心の信仰、自分が変わる必要はありませんから、他者に対しては求め奪うだけ。社会的には不正と悪が横行します。バアル信仰がイスラエルに広がったとは、神を離れて経済的な繁栄のみを求める生き方が浸透していったということです。

私たちはここで、エリヤの告白した主への信仰を確認しましょう。「わたしの仕えているイスラエルの神」は、「わたしがその御前に立っているイスラエルの神」というのが直訳です。エリヤはイスラエルの救いを求めて、いつも神の御前に立っていました。私たちもまた、畏れ多くも主の御前に立たせていただいているのです。力強く聖なる方、私たちを愛してやまない主のご臨在のもとで、私たちのすべての営みはなされます。それは私たちが神と人との間にたってとりなし、主の御言葉を聞いて伝えるという立ち位置でもあるでしょう。

私たちの仕える神は主、生きておられる方です。「主は生きておられる」なんと大きな喜びでしょう。主はこの世界をご覧になり、声なき声に耳を傾けておられます。御手をもって高ぶる者を引き降ろし、小さき者を救い上げてくださる主に、私たちは望みを置きます。人を救い、必要を満たし、教会の業を前進させてくださるのは主です。

主が今も力をもって働いておられることを信じ、信頼し、この主に従っているでしょうか。「なぜ私が生きていないかのように、自分の中にあるものだけでやろうとするのか。私のもとに来なさい。」主の迫りに悔い改めと感謝をもってひれ伏します。このお方を信じ、従い、どんなことでも祈りましょう。

生きておられる主は、私たちが都合よく変えてしまうことのできる神ではありません。永遠に変わらないお方です。ですから主に出会う時に私たちのほうが変えられていきます。しかしそれはまことに私を生かし、造り変え、まわりをも生かしていくのです。主が生きておられるから、私たちは罪から守られ、誰に評価されなくても御旨を行う力が与えられます。教会も、私たちの日々においても、信仰が揺さぶられるような過程を通ることがあります。しかしその時こそ、主は生きておられると知る時です。それはまた私たちを通して誰かが、主は生きておられると知るようになるためなのです。

 

2.神は小さき者を通して救いの御業をなさる。(4,9節)

「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏(からす)に命じて、そこであなたを養わせる。エリヤは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった。」(3~5節)

エリヤはアハブ王に真っ向から神の裁きの言葉を伝え、王に憎まれ追われる者となりました。主はケリト川のほとりに身を隠すようにエリヤに言われました。命の危険があったというだけでなく、隠れたところにおいてエリヤ自身がまず準備されねばなかったからです。エリヤは主に寄り頼まなくては生きていけないところに置かれたのでした。エリヤは主の御言葉に従ってただちに行動し、故郷であるヨルダン川東岸のケリト川のほとりに逃れました。神は数羽の烏にパンと肉を運ばせて彼を養わせられました。律法で烏は汚れたもので、食べてはならないとされていましたが、神は烏を用いられました。

烏を待ち、川が日に日に枯れていくのを見つつ、彼はただ一人自然の中に飢え渇く体をもって、神を見上げ続けました。私たちは必要なものがすぐに手に入る生活をしていますので、神を信じなくても生きられるように思ってしまいます。しかし神は生きておられ、人間は神に生かされているという真理は変わりません。今日の命、必要が満たされているのは決して当たり前ではなく、主と多くの人の助けによるものです。エリヤのように主により頼むしかない状況に置かれた時、それは神が生きておられることを体験によって知る恵みの時なのです。

私は東京聖書学校で牧師になるための備えをさせていただきました。ここでは主が満たしてくださることを学ぶために、4年間アルバイトはできません。私は貯金を崩しながら、寮費と授業料で35000円でも滞納するような状況でしたが、諸教会の祈りとささげものによって支えられ、卒業することができました。卒業後遣わされた教会は、信愛教会の半分以下の規模で会堂建築返済もありました。けれどもいつも主が満たしてくださっていました。生活の必要だけでなく、孤独な時に友をくださいと祈ると近所のこどもたちが毎日遊びに来るようになったり、うつがひどい時に他教会の方が祈祷会に出席して、よい精神科を紹介してくださったりしました。神を信じることは、単なる心の拠り所や人生の道しるべではなく、現実に力あるものです。主が養ってくださる方であることを信じ、味わい、恵みを分かち合いましょう。

「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」(9節)

 川が涸れてしまった時に、再び主の言葉がエリヤに臨みました。今度はサレプタに行き、一人のやもめによって養われるように命じられました。サレプタはケリト川から100㎞ほど離れたところにあります。シドンは王妃イゼベルの出身地でバアル信仰の最も盛んな地です。そこに住み、しかも夫を失った女性に養われるようにエリヤは命じられたのです(シドン、ガリラヤの北東、地図⑤)。当時は夫に先立たれた女性が収入を得る場などほとんどありませんでした。社会における地位もないやもめは、聖書において弱い立場にある者の代表でした。干ばつによる飢饉が全地を襲っている時、弱い人ほど苦しめられるのは世の常です。主はそのような苦境にある者によって養われることを命じたのです。

エリヤが御言葉に従ってサレプタに行くと、町の入り口で一人のやもめに出会います。これが主の語られた人であることをエリヤは悟りました。エリヤは彼女に水を飲ませて下さい、パンも一切れ下さいと頼みます。すると彼女は答えます。

「『あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶(かめ)の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、私と私の息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」(12節)彼女は異邦人でしたが、イスラエルの神に対する信仰を持っていたのです。彼女はエリヤを見たとき、彼が主なる神を信じる者だと示されたのでしょう。しかし彼女も息子も飢餓寸前の状態でありました。

エリヤはおそらく大きな葛藤の中で、神の言葉を伝えてよいのか苦しんだはずです。この干ばつはイスラエルが神に立ち帰るためであると信じ、彼自身も飢えに苦しみながら祈っていたのです。しかしその干ばつによって、実際に死に瀕しているやもめに出会い、エリヤの信仰は大きく揺さぶられたでしょう。

「エリヤは言った。『恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。 主が地の面(おもて)に雨を降らせる日まで 壺の粉は尽きることなく 瓶の油はなくならない。」(13~14節) 

それでもなおエリヤは主を信じ、約束の言葉を告げました。主は彼女に命じて自分を養わせると言われました。ですからエリヤは自分が主に信頼するだけでなく、このやもめにも信じることを求めました。彼女はこの願いに驚き、反発したのではないでしょうか。現実には一握りの小麦粉、わずかな油しかありません。しかし彼女はこの約束の言葉を受け入れて従い、残されたわずかなものを差しだして、まずエリヤのためにパン菓子を作りました。彼女がエリヤを神の預言者だと理解したからでしょう。主は望みを失っていた彼女さえも、エリヤを養う大切な使命のためにお用いになったのです。

 

3.神を第一とする時に、私たちの必要は満たされる。(15~16節)

「やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。」(15~16節)

彼女はエリヤの言葉通りにした時に、そこに奇跡を見ました。主は約束のとおりにされました。三人の食べ物は不足することなく、飢饉の間を生きのびることができました。彼女はエリヤの言葉に従うことを通して神と交わり、神の命に直接触れるようになりました。神の言葉はイスラエルの中で聞かれず、この異邦人の貧しいやもめのもとに届けられ、力強く働かれたのです。

神はエリヤを真の預言者とするため、烏とやもめによって養われました。預言者は神の言葉を単に伝える者ではなく、その言葉を生きる者です。「主は生きておられる」、その信仰は経験から生まれます。御言葉を生きるために、エリヤは自分の力ではなく、神によって生かされている事を体験として知る必要があったのです。  

 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)と主イエスは言われました。「これらのもの」とは衣食住を始め、私たちに必要なすべてのものです。神は私たちを心にかけ、何が必要であるかをすべてご存じです。この御言葉はまたクリスチャンが、まず神の国と神の義を求める者であると示します。聖霊により新しく生まれた者は、自分を第一とする生き方から、私たちを愛してくださる神を第一とする生き方に変えられた者です。神が何を願っておられるかを求める者になるのです。

「自分の分を確保してその後に信仰生活」という人が多いですが、聖書は初めから終わりまで「神が第一」と教えています。初めに神が私たちを造り、愛して、御子をお与えくださいました。この方を私の主と告白するなら、残ったものでなく、いとも良きものを取り分けておささげするのです。時も、ゆだねられた賜物もそうです。

 神を第一とすることは、隣人をおろそかにすることではありません。神にのみ時や財をささげるとしたらそれは新興宗教であって、人として健全な生活ではありません。神を第一にする者は隣人を愛します。主は満たされているお方ですから、人に補ってもらう必要はありません。主にささげるのは恵みに対する私たちの感謝です。私たちの手に握っている限りわずかな一つのものですが、主にささげられる時、主はそれを何倍にも祝福して弱い立場の人を支え、ささげた私たちに喜びを満たして救いの御業に用いてくださいます。それは神を第一とし、私たちに御自身の命を与えてくださった御子イエスを見る時に、はっきりわかります。

こどもメッセージでは、五千人が五つのパンと二匹の魚で満腹になった御言葉が語られました。この出来事は、主イエスの十字架と復活を除くと、四つの福音書すべてが記しているただ一つのしるし(イエスが救い主であることを示す奇跡)です。それ程までに弟子たちの心に残り、重大なしるしであったのでしょう。このしるしにおいては、弟子たちは主の御業を見ているだけではありませんでした。自分がパンと魚を配ると、配っても配ってもなくならないことを、弟子たちは体験したのです。少年が差し出してくれたものの、わずかのパンと魚が何の役に立つだろうかと弟子のアンデレは言いました。しかし主にささげられ、主の祝福を受けて分かち与えられたパンと魚は、人々を満たし、主イエスが救い主であることを示したのです。

 エリヤとやもめの家族を満たしたパンは、主がお与えになる永遠の命、イエス・キリストを指し示しています。主イエスは私たちのために十字架にかかり、よみがえり、神とともに生きる永遠の命を私たちにお与えくださいました。主の命は、分けるほどに増し加えられていく壺の粉、瓶の油です。烏ややもめのような取るに足りない私たちですが、この教会を用いてこの地を救い主のご栄光を現すために、主はお選びくださいました。

「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(Ⅱコリント8:9)マケドニア教会の兄姉たちは極度の貧しさの中にありましたが、救いの喜びにあふれ、自分自身を主にささげる思いでエルサレム教会の救援金をささげました(Ⅱコリント8章)。キリストの恵みを知る時、自分の貧しさは、隣人に与えることを断る理由にはなりません。それは目に見える食べ物だけでなく、命の御言葉を伝えることもそうです。ささげずにはいられない、行って助けたい、誰かを遣わしたい。それが生きている教会のしるしです。私たちが持っているものがどれほどわずかでも、主はささげられたものを、私たち自身をお喜びになり、大きく用いてくださいます。主は生きておられます。その主に生かされて、喜びもって自分自身をおささげする、生きた教会とならせていただきましょう。