8月25日 聖霊降臨節第15主日礼拝
「キリストはあなたを照らされる」 隅野瞳牧師
聖書:エフェソの信徒への手紙 5:8~20
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本日はキリストに照らされた者の歩みについて、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉に与りましょう。
1.私たちは主によって、暗闇から光となった。(8節)
2.キリストに照らされて、私たちはよみがえる。(14節)
3.聖霊に満たされた者は賛美によって語り合い、感謝する。(18~20節)
エフェソの信徒への手紙は、パウロがローマの獄中からエフェソの教会に送った手紙です(使徒言行録18:24~19:40、20:17~38参照)。エフェソはアジア州とヨーロッパを結ぶ重要な港があり、女神アルテミスの信仰が盛んな地でした。パウロは数年にわたってこの町を拠点としてアジア州の伝道に仕えました。後にテモテをエフェソ教会の牧会者に任命するなど、パウロときわめて親しい関係にある教会でした。
1.私たちは主によって、暗闇から光となった。(8節)
「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(8節)
エフェソの豊穣の女神アルテミスの祭は性的に乱れたもので、それを目的に多くの人が訪れ、莫大な富をもたらしていました。エフェソはまた荘厳な神殿の模型やアルテミスの像を作って、利益を得ることで成り立っている町でした。そのような中で主を信じるエフェソの信徒たちにパウロは、神を信じる前の堕落した、自分中心の生活をしてもかまわないという言葉に、惑わされないよう励まします。そのような生き方をしていた時に、あなた方は闇そのものだったが、今は主に結ばれて、光となったのだと。光とは主に結ばれて主の中にいること、闇とは神から離れている状態のことです。御子イエス・キリストを私の救い主として受け入れた時、私たちは光の子となるのです。
光の子とは、光である神の子という意味です。光なる神は命を与え、まったく聖なる方であって、御自身の光にさらされたものをきよめます。主の光は御言葉によってキリストの恵みを示し、罪を罪として明らかにしてくださいます。
主を信じた私たちは神の子とされ、天に国籍を持つ者になりましたから、その生活は神のものとされる前とは違ったものになっています。意識していようとしていまいと、私たちは神と共に生きているキリスト者なのです。ただ日本のキリスト者は少数派ですから、信じていない方との違いを感じることは多いと思います。生まれたばかりのエフェソ教会に集う人たちも、キリスト者としての生活を堅固に形作っていかなければ、すぐ以前の生活に飲み込まれてしまいそうな中にあったのでしょう。
光なる神を離れて生きていた時、私たちは「暗闇」でした。しかし悔い改めて救い主キリストを信じ、私たちは神のもとに帰り、「光」とされたのです。そして私たちは光の子として「歩む」のです。第一にそれは、光なる主と共なる歩みです。いろんなご家族に会うと、やっぱり子どもは親に似るのだなと感じます。外見だけでなく、どんなことを大切にしているのか、行動も似ています。一緒に生活することは無意識のうちにも、とても大きな力があるのです。
クリスチャンはこの世から遠ざかったり、自分だけが光の中を歩むのではなく、キリストがしてくださったようにこの世界のただ中で、世の光として生きます。それは、私たちを照らしてくださった光、神の救いを運ぶためです。主は私たちを通して、キリストの光を、罪からの救いを人々にもたらそうとされるのです。
光の子は相手のために良いことを願い、主イエスによって義とされた恵みにおいて、自分また世の罪と闘い、神に喜ばれる生き方を選びます。偽りのない真実をもって人に接します。これらは光である神の命が実らせる品性です。ひとりひとりが主体的に、何が主に喜ばれることかを、主のみことばに照らして見分けるようにと勧められています。
2.キリストに照らされて、私たちはよみがえる。(14節)
「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。…すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。『眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。』」(11、12~14節)。
パウロは当時洗礼の際に用いられていたといわれる賛美歌を引用します。神はキリストの贖いによって私たちの罪を赦し、永遠の命によみがえらせてくださいます。「明るみに出しなさい」と言われていますが、それは人を上から裁き責め立てることではありません。かつて闇であったが光とされた私として、ただ感謝をもってキリストを証することです(Ⅰペトロ2:9)。
パウロはここで一つの大きな慰めを語っています。「明らかにされるものはみな、光となる」のです。光は前向きな思いや希望を与えてくれます。また、隠れているものを明らかにする性質があります。御言葉は私たちの魂を照らし、罪を明らかにしますが、それは自分のうちにはよいものも救いのための力もないことを知り、ただ救い主により頼んで救われるようになるためです。
光のもとにいきたい、しかし私たちの内には、光なる神を避けようとするもう一人の自分がいます。神の光から切り離された暗い場所、神の光から自ら遠ざかろうとしている状態。聖書はそれを暗闇と呼びます。暗闇は私たちの社会に、そして私たち一人ひとりの心の内にあります。神と共に生きることが喜びであったのに、神に背いたアダムとエバは自らの罪と弱さを知って恥じ、隠れました。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」(創世記3:10)
私たちは皆心の中に、人には見せない部屋があるのだと思います。そこには心の傷や失敗、負の感情、決して人には知られたくない秘密がしまい込まれています。打ち明けることができれば楽になり、道が開かれるかもしれません。けれどもこの人にわかってもらえるとは思えない、むしろ傷つくだけだから、言えないのです。神の光に照らされるということは、私たちが人には見せたくないと思う部分がすべて、光のもとに明らかにされることです。人との間で傷を負い続けてきた私たちは、神に心を開くことが難しいのです。
しかし覚えてください。神は御前に一歩進み出た自分を、その暗闇を、怒ったり裁いたりはなさいません。先週の説教で主イエスは、罪に問われている女性に語ってくださいました。「わたしはあなたを罪に定めない。」私があなたの罪を担ったから、と。
以前ある牧師先生の就任式に出席し、ヨハネ21章からの説教でした。主がペトロに「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。…わたしの羊を飼いなさい。」と語られる、何度も聞いた箇所です。しかしその時主が私に一対一で語りかけてくださっているのを感じました。そのころ私は罪の誘惑に陥りそうになっていたのです。「わたしを愛しているか」現実から離れて自分の楽しみを満たそうと、闇へ引きずられていく私に、限りなくあたたかい主の御声がかけられました。私のために十字架にかかってくださったこの主に、私はなんということをしたのだろうか。ゆだねられた羊や家族を忘れて、自分の喜びのことだけ考えていた…。光の主に触れられた私は悔い改めて、一緒に出席していた牧師の友人とともに泣きました。彼女は私のために祈ってくださり、御心にかなわない道を離れることができました。
私たちは光の子として、歩みを続けている途上です。それは閉ざされた部屋を少しずつ、神の前に差し出していく歩みです。洗礼を受けた瞬間に、すべてを神の前に差し出すことができた人は、おそらくいないでしょう。できたという人がいるなら、それは嘘だと思っています。ふるえながら自分の暗闇をキリストの光のもとに差し出す時、「つらかったでしょう、あなたが来るのをずっと待っていたよ」とすべてを十字架の御手に抱いてくださる主に出会います。主は私が恥じていた暗闇を、光としてしまわれます。きよめられ、聖霊が満ちてくださいます。主の御手が癒し、主の願われることが喜びとなります。主に従いたいと願い、主がわたしの内に生きて力を与え、愛し導いてくださるようになるのです。
「起きよ、立ち上がれ」と主は呼びかけてくださいます。暗闇の、自分では立ち上がることができない私であっても、主の御声には立ち上がらせる力があります。キリストの復活の光があなたを照らしてくださいます。神の御前だけは、格好をつける必要はありません。そのままのあなたで御前に進みゆきましょう。
パウロは続けて、光の子とされた者の歩みについて勧めます。神の知恵をいただいた者は、罪の闇がこの世を覆っていることを知っています。自分がどのように歩んでいるかを省み、自らの内にも攻撃をしかける悪の力に、主の助けによって立ち向かいます(6章)。神に与えられている時を生かして主の御心を行っていくのです。
自分の喜びを求めてはならないということではありませんが、私たちは神の子とされたのですから、父なる神の御言葉に聴き、思いを知ることに努めましょう。すると、神の喜ばれることが何であるかが分かってきます。従っていきたいと願う積み重ねの中で、神の喜ばれることと自分の喜びが一つになっていきます。それは同時に、主が悲しまれることと決別することでもあります。主のために、また隣人のために何かを手放すことを選ぶ。光の子としての大切な証です。手放したものの幾倍もの恵みが、主御自身とともにある喜びが、私たちに満たされるでしょう。
3.聖霊に満たされた者は賛美によって語り合い、感謝する。(18~20節)
「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」(18~20節)
パウロはエフェソの信徒たちに、酒に酔いしれてはならないと語ります。異教の礼拝では神々と一体になる手段として、恍惚状態になるために酒をあおりました。欲求不満やさみしさ、虚しさを少しの間でも忘れて幸せな気分になろうと飲む方は多いと思います。しかし泥酔すると自制心を失い、人との関係を壊し、自分の体をむしばみます。パウロは酒を禁止しているのではなく、本来聖霊が満たすべきところを他のものが満たしていることに問題があると語っているのです。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:13~14)主イエスは聖霊についてこのように約束してくださいました。聖霊を受ける時に私たちははじめて満たされ、神の子としての本来の命を取り戻します。そしてその命はまわりにあふれ、潤していくのです。
神の霊である聖霊が満ちてくださる時、私たちは賛美によって語り合い、主に向かってほめ歌を歌います。これらは詩編にメロディをつけた歌、初代教会で用いられていた定型的な賛美歌、聖霊に導かれるままに自由にわき上がるコーラスなどと言われていますが、はっきりと違いはわかりません。ただ、礼拝を背景として語られていると推察できます。聖霊の満たしは、心に湧きあがる喜びを与えます。
賛美は自分が気持ちよくなるために歌うのではなく、主御自身とその御業のゆえに、主に向かって賛美します。賛美によって私たちは主を仰ぎ、御言葉の約束を確かにされ、平安が与えられます。苦しみを乗り越える力、魂への愛と御言葉、罪に対する勝利に導いてくださいます。そしてここで賛美は「語り合う」ものと言われています。一緒に賛美歌を歌うだけでなく、主の恵みを語り合いましょう。一人で光の子の歩みはできません。同じく光とされた兄弟姉妹とともなる礼拝、信仰の歩みを通して、どんな境遇であってもキリストの御名により、神への感謝が生まれるのです。
私たちに聖霊が満ちて下さる時に、神のみこころを悟り、感謝へと導かれます。感謝の人生に変えられたいですね。神の子とされた人には、父なる神の御心を悟る恵みが与えられているのです。苦しいこと、悲しいこと、嫌なことで頭がいっぱいになってしまって、神の恵みなどなかったかのように思ってしまう私たちですが、神の恵みを数えましょう。聞き届けられた祈りを覚えていますか。祈りを記してふりかえり、一番よいように祈りを聞いてくださった主を賛美しましょう。
聖霊に満たされるとは、何かのエネルギーでいっぱいになってすごい人間になれるとか、現実を逃避して恍惚状態を求めることではありません。私たちの心という器にある自分中心の思いや願いをいったんおいて、自分の心を治めてくださるようキリストにゆだねることです。そこには御心との衝突が何度もあるでしょう。御声を無視したり、そんなことはおかしいと反抗したり、嫌ですできませんと逃げたり。しかし礼拝につながり御声を聴き続ける時に、私たちは変えられます。
キリスト中心に生きる時、今まで気づかなかった神のご計画や恵みに気づかされていきます。賛美によって語り合うことに現れているように、聖霊に満たされた人は現実の生活の中で、出会う人たちと協力し共に生きることを願います。謙遜で平安であり、恐れが取り除かれて自由に主に仕えることができます。
キリストを主と受け入れるとき、聖霊は私達の心に入り、住んでくださいます。しかしこの世にある限り私たちは弱い者ですから、聖霊を悲しませることをたびたび行ってしまいます。「聖霊なる神よ、あなたが私に何を願っておられるかを教えてください、お従いします。どうぞ従う信仰をもお与えください。」と祈り始める時、主は私たちを用いて、人の考えを超えたすばらしい御業をなさるでしょう。
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)
光の主に照らされた者として、感謝をもってそれぞれの場に遣わされ、主の光を輝かすことができますように。私たちではなく主を宣べ伝えることができますように、どうぞ私たちをきよめてお用いください(Ⅱコリ4:5~11)。