「主の住まわれるところ」9/15 隅野瞳牧師

  9月15日 聖霊降臨節第18主日礼拝・敬老祝福礼拝
「主の住まわれるところ」 隅野瞳牧師
聖書:詩編 103:14~22

(画像が開くのが遅い時は「Reload Document」または「Open in new tab」を押してみて下さい。)

Loader Loading...
EAD Logo Taking too long?

Reload Reload document
| Open Open in new tab

 本日は、天の主に目を注ぐ時に賛美が広がっていくことについて、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉に与りましょう。

1. 主は天におられ、すべてを治められる。(19節)

2. 塵から造られた人間を、主は御心に留められる。(14節)

3. 造られたすべてのものと共に、どこにいても、主をたたえよ。(22節)

 

本日は福音の恵みが随所に感じられる詩編103編の後半から御言葉にあずかります。この詩が作られた理由について2節では、「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」とあります。新改訳の「主が良くしてくださったこと」が原語に近くわかりやすいと思います。記憶して忘れないというより、高慢になって神から与えられたものを当たり前に考えてしまわないようにということだと思われます。

103編全体に、主が良くしてくださった内容が記されています。詩人は自分を振り返り、すべての罪を赦し病を癒す方である主をほめたたえます(3~5節)。そして歴史、特に出エジプトの出来事を振り返り、イスラエルの民を救い忍耐をもって導き続けられた主の慈しみに感謝します(6~13節)。救われたにも関わらず民がどれほど早く、たびたび主を捨てて偶像についていったか。イスラエルがどれほど祝福にふさわしくないかを振り返りつつ、しかし主はそれでも民を見捨てることはなく憐んで罪を赦してくださったと賛美します。この過ちを繰り返してはならないという意図もあったのでしょう。そして人間のはかなさと神の永遠性を対比し、イスラエルを超えてすべてを治め慈しむ主への賛美となります(14~22節)。

 

1. 主は天におられ、すべてを治められる。(19節)

「主は天に御座を固く据え 主権をもってすべてを統治される。」(19節)

聖書日課では本日のテーマが<キリストの住まい>となっています。私たちが信じ祈りをささげる主は、どこに住んでおられるのでしょうか。この御言葉を見ますと主は天の王座にとこしえに就き、世界を治めておられるとわかります。主が常におられるのは天です。しかし主は私たちを愛されるゆえに、この地にも住んでくださることが聖書に記されています。一つは幕屋や神殿といわれる聖なる場所、もう一つは主を信じる私たちの内にです。

神は霊なる方ですから、地上に住まいをもったり誰かに養ってもらう必要はありません。ですから幕屋や神殿は神御自身のためではなく、人間のために備えられたものです。具体的な場所があることで、主がここにおられるという信仰が強められます。幕屋や神殿に主が臨在されると言う時、「天幕を張る・宿る」という言葉が使われます。つまり神が常に住まわれるところは天であって、一時的に幕屋や神殿にご自身を顕してくださるということです。神殿は賛美と感謝のため、また神との交わりが可能とされるための、贖罪の献げものをする場でもありました。

福音の時がおとずれ、神の御子イエスが私たちのもとに人となって来られました。御子は救いを成し遂げ、信じる者に聖霊を与えてその内に住み、宮としてくださいました。ですから私たちは御子によって神に近づき、いつどこにあっても礼拝をささげることができます。生きることすべてが礼拝、主に栄光をささげて生きる歩みの始まりです。主に招かれ集められた者の群れが教会です。教会はキリストのからだとして、幕屋や神殿の果たしてきた礼拝の場としての機能を継承します。教会は周りにいる方々にとっての証でもあります。建物を超えて私たち一人ひとりが教会であり、私たちの愛し合う間に主がおられます。主が共に住み生きてくださるから、私たちは決して独りではありません。主は喜びも悲しみも共にし、最後まで担い救ってくださる方です。私たちを通してこの主が証されるなら幸いです。

主がおられる「天」は宇宙や天体のことではなく、この世に属さない場所です。私たちが知り尽くすことも制服することもできない、神が完全に支配しておられる領域です。私たちは天を仰ぐことによって謙虚さと神への信頼を学び、希望が与えられます。復活の主も天に挙げられ、全能の父なる神の右の座についておられます。主は教会の頭となられ、肢(えだ)である私たちに豊かな賜物を注ぎ、私たちのために執り成してくださいます。ですから私たちは恐れることなく御言葉を宣べ伝え、信仰の歩みを続けることができます。

主の祈りは、天におられる父なる神に呼びかけることで始まります。私たちは自分の周囲しか見えませんが、天の父はずっと広く深い視野をお持ちです。私たちの心が神がおられる天に引き上げられ、主の自由をもって現実に向き合えるよう祈るのです。

天はどこか遠くにある抽象的な場所ではなく、いつもの場所で祈る私たちに開かれます。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。…天におられるわたしたちの父よ、…」(マタイ6:6~9)捕囚の中にあったエゼキエルや(エゼ1:1)迫害を受けたステファノなど(使徒7:55~56)、特に苦難のただ中にある私たちに希望を与えるために、主は天を開いてご自身を見せてくださることがあるのです。

 

2. 塵から造られた人間を、主は御心に留められる。(14節)

「主はわたしたちをどのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことを御心に留めておられる。」(14節)

主なる神が土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられると、人は生きる者となりました(創世記2章)。塵に過ぎないという表現は、人間の価値が塵ほどしかないと言っているのではありません。主が人間を塵から造られた、その成り立ちを忘れてはおられないということです。私たちが自分を知る以上に、主は私たちのことを知っておられます。私たちの弱さや罪深さをすべて知り、なおも主は私たちを愛されます。

弱さをもって造られた私たちに、主が「極めて良かった」と言われたことを覚えましょう。御自分にかたどって形作り、命の息を吹き入れてくださったのです。どんなに私たちを大切に思っておられるでしょうか。自分から神に背くことを選び、空しい存在となってしまったにも関わらず、神は燃えるような愛をもって人間を救おうと願っておられます。

 「人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消えうせ 生えていた所を知る者もなくなる。」(15~16節)。

詩人は自分も含めて人の命のはかなさを見ます。どんなに成功し栄えた人であっても、必ず死は訪れます。

年齢に関わらず、私たちはむしろ若い時にこそ創造主に心を留め、自らの弱さや終わりがあることを知る必要があります。その時私たちは神により頼む姿を取り戻し、本当に大切なものを見極め、隣人と共に生きる道に踏み出せるのです(箴言1:7、コヘレト12:1)。

これまで人がやっていたこと、人ができないことをAIが代わってやる時代になりました。さまざまな技術は進歩し続けています。時間や労力のかかる分野を助けるなど、大きな可能性があると思います。しかしこの世界そして私たちは主がお造りになったことを忘れてはなりません。欠けがありみんな違っているから支え合い、終わりがあるから美しいのです。もがきながら愛する日々にこそ、命の輝きがあると私は信じています。

「主の慈しみは世々とこしえに 主を畏れる人の上にあり 恵みの御業は子らの子らに 主の契約を守る人

命令を心に留めて行う人に及ぶ。」(17~18節)

主を畏れる人とは、はかりしることのできない主の恵みと慈しみに驚き、畏敬の念から生じる謙遜をもって主の言葉に聞き従う人です。主の慈しみと恵みの御業は、主を畏れる人の上に注がれます。自分が弱く罪深い者であることを知れば知るほど、私を知っていてくださる創造主の愛に圧倒され、この世の力を恐れることから解放されます。この主の恵みは世代を越えて注がれます。次の人が福音を受け取るかどうかは主におゆだねし、私たちは先に主の恵みを味わった者として、主の救いを伝えてまいりましょう。

ここに「慈しみ」という言葉があります。これは契約におけるゆるぎない愛を示します。結婚式の時に神と会衆の前で、いついかなる時も相手を愛する誓約をする場面が思い浮かぶのではないでしょうか。慈しみとは、契約を結んだ両方の者が相手に対して守るべき、忠誠と誠実の態度です。主の慈しみは永遠に変わることなく確かで、決してあきらめることのない熱心さをもって私たちに注がれます。主はイスラエルの民に慈しみを注ぎ、民もまた主の愛のうちに歩むことを約束しましたが、実際は主に背き続けました。しかし主の変わらない愛ゆえに、イスラエルの民は主に立ち帰り歩むことができました。民と契約を結ぶ慈しみの前に、まず主の根源的な、無条件の愛が注がれていたことは言うまでもありません(マタイ5:45、エフェソ1:4、ローマ5:8)。

主の慈しみとその御言葉は変わることがありません。この真理はイザヤ書で繰り返されています。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザヤ40:8) と語り、ペトロはさらにこの言葉こそが御子による救い、永遠に変わることのない神の愛そのものであると伝えました。「あなたがたは、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。」(Ⅰペトロ1:23~25)

主イエスは救いの御業を成し遂げられ、ご自身を信じる者に罪の赦しと永遠の命、神との交わりの回復をお与えになりました。これは主イエスが実現してくださった新しい契約です。神の恵みの御業(原語では「義」)は、主の契約を守る人に、神が求めておられることを心に留めて行う人に及びます。御子が御父にまったく従い罪を担ってくださったので、私たちは主の前に義しい者と認められました。主は恵みによって御心を行うことができるように、私たちを実質的にも神の子として変えてくださるのです。神の契約への忠実さ、その愛はこの地上に属するレベルのものではありません。神を私たちの範囲に引き下げてしまうことなく、ただ信仰と感謝をもってお受けしましょう。

 

3. 造られたすべてのものと共に、どこにいても、主をたたえよ。(22節)

「御使いたちよ、主をたたえよ 主の語られる声を聞き 御言葉を成し遂げるものよ 力ある勇士たちよ。主の万軍よ、主をたたえよ 御もとに仕え、御旨を果たすものよ。主に造られたものはすべて、主をたたえよ 主の統治されるところの、どこにあっても。わたしの魂よ、主をたたえよ。」(20~22節)

天使たちは主の御声を聞き、そのとおりに従います。それは真に力ある勇士です。この主の御言葉は私たちにも与えられています。御言葉に聞いて従っていくならば、私たちもまた力ある主の働き手として用いられるのです。土の器である私たちですが、御言葉に従う時に私たちの内に主がおられて御業を行われます。ですから私たちは力強いのです。それは人を打ち倒す力ではなく愛する力、生かす力、内なる闘いに勝利する力です。私たちもまた主のお与えくださった恵みの契約、命令を心に留めて行う、祝福された者とならせていただきましょう。

この詩編の最初も最後も、「わたしの魂よ、主をたたえよ」 です。恵みを思い起こし目を留めるたびに、詩人は主をたたえないではいられません。全身全霊をもって主を賛美せよと、自らに呼びかけています。主に栄光を帰すことは喜びであり、力です。詩人は自分だけでは賛美を抑えられず、御使いたちと造られたすべてのものを見渡して、あらゆる場所で主をほめたたえるように呼びかけます。私たちが自然や自分を見る時に、その命、仕組み、美しさにただただ驚き、創造主をほめたたえずにはいられません。見えるところも、またこれまで主が私たちをお取り扱いくださったご計画もそうです。主はすべての場所、時を治めておられます。主の御手が届かない場所はありません。暗闇にある時もです。そのような時に、主を仰いで賛美する思いにはなれないと思います。しかしだからこそ、自分の感情や状況がどうであっても、「時が良くても悪くても」主の助けによって主をほめたたえ、復活の主によって再び生かされましょう。

 私の内にも詩人と同じような礼拝の心があるでしょうか。習慣的に礼拝に参加しながらも、心の中には主への喜びがない。聖書の言葉を知っていても、普段の生活の中で神のみこころを行うことには関心がない状態に陥ることがあります。もしそうであるならば、詩人のように自分に神の恵みを言い聞かせる必要があるのです。自分に与えられた主の恵みを思い起こしましょう。聖書を読み、神の民の歴史を通して主というお方を知りましょう。まことの礼拝は主とともに生きる日ごとの姿勢であって、聖書のことばに対する信仰と、みことばを信じ従った時に体験した恵みが土台になったものです。詩人の賛美は心から溢れるものでしたが、決して感情や雰囲気に流されてささげたものではありません。神の真理に深く根付いた信仰と体験の結果でした。詩人はさまざまな角度から主というお方とその恵みの大きさを知的に理解し、実のある賛美をささげることができたのです。 

最後にエフェソ3:16~21をお読みします。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」

詩編に示されたメッセージをパウロは教会に与えられたものとして語っています。私たちの内に住んでくださるキリストの愛にしっかりと立ち、その愛が私たちの思いをはるかに超えていることを味わいましょう。そして私たちが主の忍耐のゆえに救われたのですから、このあふれる愛を周りの方にも伝えてまいりましょう。主に従うことを願うならば、それを成す力をも主は与えてくださいます。