「励まし合いましょう」10/13 隅野徹牧師


  10月13日 聖霊降臨節第22主日礼拝・神学校日礼拝
「励まし合いましょう」隅野徹牧師
聖書:ヘブライ人への手紙 10:19~25

(画像が開くのが遅い時は「Reload Document」または「Open in new tab」を押してみて下さい。)

Loader Loading...
EAD Logo Taking too long?

Reload Reload document
| Open Open in new tab

 今年の神学校日礼拝ですが、聖書日課から「ヘブライ10章」から語らせていただくことにしました。それは現在、「神学生として学んでいる方々に対して」、そして私のように「かつて神学校で学んだものたちに対して」今から求められることがこの箇所に表されている、と感じるからです。

25節に「励まし合いましょう」という言葉が2回も出てきています。今日の説教題をここから取っているように「励まし合う」ことを導くことが、献身者に求められています。

 みことばを通して信徒を養うという「羊飼いとして、教会の代表として」の働きの一方、今までにも増して「信徒同士が主にあって、そしてみ言葉の恵みによって励まし合い、支え合う群を形成していくか」ということが求められるようになってきています。

あるプロテスタント教団の調査によると、教会を離れる人が多い中、教会に繋がり続けるひとは「教会の中で、何かしらの奉仕をするなど、役割があったり、壮年会シオンの会のような集まりだったり、家庭集会に属したり聖書研究会などに出席するなどして教会のコミュニティの中で言葉を交わす機会が多い人」は、何かの苦難があっても教会から離れにくい…という調査結果が出ているのだそうです。自分を霊的に励ましてくれる仲間をつくれるように促す、居場所をつくりだす…、大変ですがそれをすることが大切だというのは、キリスト教界全体の共通認識になっています。

神学校でも、そういった「説教学や神学」とともに「人間のコミュニケーション学」だったり、「寄り添いの学び」だったり、そういうものが新たに学びに加えられ、信徒の方同士が支え合えるように促す学びが進んでいます。ぜひ今日の礼拝を通して「今の時代の神学校、献身者の働きを覚え、祈り支えたい」という思いをもっていただくとともに、ご自身も「献身者とともに、周りの仲間と励まし合う働きを少しでも担いたい!」という思いをもっていただいたなら幸いです。

 さて今回の箇所のヘブライ書10章19~25節ですが、内容的には二つに区分できます。 前半が19から22節の1節目で、後半が22節二つ目の文から25節です。

 前半も大切なことを教えていますが、今日皆様に中心的に語りたいのは後半です。

 まず簡単に前半をみていくことにします。19から22節ひとつめの文の聖書の言葉を皆様追ってみてください。

 少し難しい表現で書かれていますが、ここで書かれていることは「イエス・キリストの十字架の死」によって罪深い私たちがどのような恵みを得たかということです。

 十字架の上で血を流して下さったイエス・キリスト。その死の瞬間「神殿の至聖所の幕が割けた」ことを聖書の福音書ははっきり伝えています。

 人間は例外なく皆「罪をもっている」ために、聖なる神に近づくことができません。神殿にも「至聖所」という、神の臨在される聖なる場所があり、そこは年にたった一度、民を代表して「罪の犠牲をささげる大祭司」が入ることしかできなかった場所でした。

 そこを仕切っていた幕が「イエスが十字架で血を流し、息を引き取られた瞬間に裂けた」のです。このことは「罪深い私たち一人ひとりが、イエス・キリストの贖いの死によって罪赦され、神の前にでることできる」そんな恵みが特別に与えられたことを表しているのです。

 教会で月に一度もたれる「聖餐式」では「ぶどう液」をいただくとき「これはイエス・キリストの流された血潮です。キリストが私たちのために血をながされたことを覚え、感謝して味わうべきものです」という制定文を皆で確認しますが、イエス・キリストの流してくださった血の故に私たちが、罪赦され、生きる恵みが与えられている、それほどに私たちは「神に愛されている」ことを今一度思い出して歩んでまいりましょう。

 さて後半部分の22節の2つ目の文からは、「罪深い私たちのために命をささげてくださった神・イエス・キリストの愛に対し、私たちがどう応答していくか」について教えられています。

 ここは大切ですので読んでみますが、とくにここで出て来る「4つの動詞」つまり「私たちに向けられた行動指針」に注目して御言葉を味わっていただきたく願います。

  それでは22節の2つ目の文から25節までを読んでみます。

 お分かりになったでしょうか?私が皆様に注目してほしい4つの行動指針、キリストの十字架と復活の業に対して、私たちがすることを勧められている「行動、行為」が並んでいるのです。

 ヘブライ人への手紙は「パウロが書いたのではないか」と言われていますが、はっきりと誰なのかは分かりません。しかし、書かれた背景については、ある程度分かっています。25節に「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず…という言葉がでますが、このころヘブライ人、つまり「ユダヤ人のクリスチャン」の中で礼拝や集会を怠ってしまった人が出たことを表しているといわれます。それは同胞であるユダヤ人やローマ帝国の迫害があったからなので、ある意味仕方ないとも思えます。

 そこでこの手紙の著者は勧めます。一つ目の勧めとして(22節)で「真心から神に近づくこと」が勧められています。これは「キリストを信じ始める時」のことを言っているのではなく、むしろ一度信仰を持った人が、そこから離れることの内容にとの勧めです。

 現在の私たちには「迫害」はないかもしれませんが、健康上の問題や、日ごろの忙しさなどから「礼拝に出ることへの喜び、恵みを感じられなくなる」ということも多いと思います。

そんなときは今一度「イエス・キリストが私の罪を背負って死んで下さったこと、そして犠牲によって、私たちは新しい命に生かされ、神の前に大胆にでることができるようになった」そのことを恵みに感じて、一度一度の礼拝を大切にしましょう。

もちろん礼拝は「ただ出ていればそれでよい」のではありません。そこで何を感じるかが大切ですが、この箇所ではそのことも教えています。

それが2つ目の動詞、(23節)の「公に言い表した希望を保つ」ということです。

「公に言い表した希望」とは「信仰を告白したときに語った希望」のことです。

 私たちの教会でも、洗礼式のとき、公に告白していただくことの内容の中に「罪の赦しと、新しく生まれて永遠の命を得て生きること」があります。この希望を保つように勧められているのです。

 この希望は「一人の力だけでは保つことができない」ものだと私は思います。人間は弱い者です。いろいろなことが起こる私たちの人生の中、自分一人の力で「神の前に真心から近づき」「永遠の命の喜び」を保ち続けられる人はどこにもいないと確信しています。

 だからこそ「互いに支え合って生きる」ことを聖書は勧めるのです。

3つ目の動詞、つまり「勧められている行為」は(24節)の「互いに愛と善行に励むように心がける」ということです。4つ目は同じ24節の最後に2回繰り返して出てきますが「励まし合う」ということです。

 なにか「ノルマのような感じ」で善行をするのではありません。それはただの「偽善的行為」になってしまいます。

 そうではなくて、ここで教えられているのは「まず教会の交わりに居続けて、その中で仲間と助け合って生きなさい」という勧めで、それは「キリストがあなたのために血を流して下さったその愛に基づいて、あなたも仲間を愛し、支えなさい」という勧めなのです。

 そのように「支え合い、共に生きること」を通して、目に見えるところを超えてある「キリストによってもたらされる永遠の命の希望」を感じて生きることが出来る…そのように教えられていると私は捉えます。

 22節にあるように、罪深いこの私の「良心のとがめを感じることなく」自然に、心の内に住んでくださるキリストに導かれるようにして「愛の内に生きることが出来る」ようになるのです。

 このように神学校日の今日はヘブライ10章のこの勧めを見ました。これは苦しい時代の教会の歩みに「絶対欠かすことのできない勧め」ですが…これは献身した牧師

だけではすることが叶わないことです。

 教会の皆が「真心から神に近づき、キリストにあって希望を持つ」そのことが雰囲気としていつも自然に醸し出されてこそ「励まし合い、愛と善い業が自然に行える」教会になっていくのです。 どうぞ、みなさまも一緒に、愛ある教会を形成してまいりましょう。(祈り・沈黙)