「キリストに捕らえられているから」10/20 隅野瞳牧師

  10月20日 聖霊降臨節第23主日礼拝
「キリストに捕らえられているから」 隅野瞳牧師
聖書:フィリピの信徒への手紙 3:5~16

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 本日は、キリストに救われた人はどのように変えられるかについて、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉に与りましょう。

1. これまで頼っていたものが、価値のないものだったと気づく。(8節)

2. 私たちは救いの完成の途上にいる。(12節)

3. 後ろのものを忘れ前へ、神が備えてくださる復活に向かって走る。(13b~14節)

1. これまで頼っていたものが、価値のないものだったと気づく。(8節)
 本日の章でパウロは、フィリピ教会の信徒たちに警告をしています。フィリピの信徒たちはイスラエルの民と違い律法を知らず、福音によって、ただキリストを信じて救われました。しかしそこに、彼らのような異邦人も割礼を受けてモーセの律法を守るべきだ、信じるだけでは不十分だと教えるユダヤ主義者たちが現れました。イスラエルに生まれた男性は神の律法に従い、包皮を切り取る割礼を受けます。これは神がアブラハムとその子孫を神の民とする約束のしるしでした。

パウロはユダヤ主義者たちがキリスト以外のものを誇り、救いの根拠にしていることを「肉に頼る」と表現します(3節)。そしてもしそのようなものによって救われるのであれば、私はなおさらであると、自分が誇り頼ってきたものをあげていきます。パウロは恵まれた環境、血筋に生まれました。生まれて八日目に割礼を受けた生粋のユダヤ人であり、イスラエル初代のサウル王が出たベニヤミン族の出身です。タルソスというギリシャ文化の都市で生まれながらも染まることなく、イスラエルの信仰を守りました。さらにパウロは、自分自身が求め努力して得た誇りについて語ります。彼は厳格に律法を守るファリサイ派の中でも大変熱心であり、それはキリストの教会を迫害するほどだったのです。かつて誇りにしていたものをあげた後、パウロは語りました。

「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」(7~8節)
 あなたたちはこれらのものを頼りにしたいと思っているが、キリストに救われた私には損失、塵のように感じるのだと。この変化が起こったのはパウロがキリストを知ったからです。知るというのは人格的に相手を知っていること、つまり主イエス・キリストと出会うということです。キリストがわたしを愛し、救うために十字架にかかって死なれ、復活して今生きておられる。この方によって私は生かされていると、パウロは知りました。それと同時にパウロは、かつて持っていたもの、神を求めて熱心にしていたことは、むしろ自分を神から引き離し罪を犯させるものだったと悟ったのです。

自分が誇りにし、熱心に追い求めていたものは損失、塵あくただった。パウロはなぜここまで、たじろいでしまいそうな強い表現を使うのか。私はこの言葉の背後に、彼の深い悔い改めを感じます。彼は神の選びの民であり、自他ともに認めるほど熱心に律法を行ってきましたが、そのことは神に一度もほめられていないし、それらによって救うとも言われていないのです。ローマ7章でパウロは、律法によって自分が罪人であり、望まないのに悪を行っていることを示されるけれども、「わたしはなんと惨めな人間なのだろう」というところに終わるしかないことを吐露しています。そうです。律法は神の民の基準…神を愛し隣人を愛するように示しますが、それを見つめる時に、自分が遠くかけ離れた者であることがわかるのです。私には、愛がない。律法自体には、私たちを「愛し赦す者とならせる」力はないのです。

しかし御父は御子によって愛を示されました。愛は相手がどうであっても先に注がれること、共にいること、自分の命を与えることだと私たちは知りました。主イエスを信じる者には神の愛が留まり、満ちあふれます。復活のキリストは、教会を迫害する途上にあったパウロに出会い、真理に目を開かせてくださいました(使徒9章)。神の御心に誰よりも従っていると思い込み、パウロは大変な罪を犯していました。しかしそのただ中で、一方的に神の恵みは臨みました。何一つ、パウロの持っているものにはよりませんでした。主の光に照らされて自分の力が打ち砕かれた時に、パウロは神の前にやっと立ち止まり、倒れ伏しました。そして十字架で死んだイエスこそ私が信じてきた主、救い主であること。教会を迫害することは救い主を迫害するのと同じであり、自分は神と人に対して大きな罪を犯してきたのだとわかったのです。3日間断食しただ神に向かい続ける深い悔い改めを経て、パウロは新しく生まれました。

 

2. 私たちは救いの完成の途上にいる。(12節)

「キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(8後半~9節)

 かつてのパウロのように、律法を行うことによって神に義しいと認められる、救いを得ようとすることが「律法から生じる自分の義」です。神が定められたルールを守って合格点を取ろうと努力をしても、できない人がほとんどです。パウロのように表面上はできる人もいるでしょうが、心まで律法の要求を満たすことは誰にもできません。もし救いが私たちの能力や状況に左右され、いつもピリピリして維持しなければならないのなら、誰が救われることができるでしょう。それは神がもたらす本当の安息ではありません。

 しかし御子は私たちを愛し、私たちを罪から救うために十字架にかかってくださいました。罪なき方が私たちの罪の裁きを引き受けて死なれ、よみがえってくださいました。その救いを感謝と悔い改めをもって信じ受け取る時、ただそれだけで、私たちはキリストと共に罪に死に解放されます。御父に最後まで従いぬかれたキリストのゆえに神の目に義しい者とされて、神と共に新しい命に生きる者となるのです。それが「キリストへの信仰による義」です。

キリストと出会いその招きにお応えするなら、私たちはキリストを得る、私たちの内にキリストが生きてくださいます。キリストと十字架の死と復活のみ業が私のものとなり、キリストの命に結ばれます。信仰とは私を救おうとなさる神を知り、差し出された救いをただ受け取ることです。私たちのもつものには一切よらず、救いはただ神から与えられる恵みです。

そして主を信じる者は、キリストの内にいる者と認められます。原文では「彼の内に(私が)見出される」と訳すことができます。主イエスを信じる時に、自分がキリストの内にいることを発見するというのです。神のもとに帰った本来の自分、神の子である自分はこういう存在なのだ。この方によってこそ私は罪赦され、まことに生きるようにされたのだと知り、周囲の評価に流されず変わらないものをもって立つ者とされます。

生きることの根拠が変えられると、生きる目標も変わります。パウロは言います。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(10~11節)。

キリストは御父から来る、罪と死を打ち破る力によってよみがえり、私たちをとらえていた死を打ち破って下さいました。この御力によって、終わりの日に私たちもキリストと同じように、死ぬことも朽ちることもない霊の体へと変えられ、まったく聖(きよ)い者へと復活すると約束されています。私たちが「からだのよみがえりを信ず」と告白しているのはそのことです。「神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」(ローマ8:23)「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。」(Ⅰテサロニケ5:23)主イエスを信じた時から私たちは救いに入れられていますが、世にある限りこの体の内に、神に従いたいと願う自分と罪との激しい闘いがあります。けれども御子をよみがえらせてくださった神の同じ御力が、この体をも贖ってくださる。私たちもパウロとともに、その日を待ち望みます。

 復活の力にあずかることは、同時にキリストの苦しみにあずかり、その死の姿にあやかることです。救われるとは神と共に歩むことですから、信仰を持つことで苦しみや戦いを経験します。しかしそれはキリストが先に歩まれた道、今も共に担ってくださっている道です。御子の御跡に従う中で小さき私たちに、復活の主の御力が豊かに働いて下さるのです。

 「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」(12節)。 

 パウロは、自分はまだ救いの完成の途上にあると意識しています。聖書が十分わかっていないのでと、洗礼や証をすることをためらう方がおられますが、神を理解し尽くすことが人間にできるわけがありません。パウロですらキリストとその復活を「捕らえようと努めている」と言っているのです。小さきこの者も、読めば読むほど御言葉の深さに驚き、説教のたびに「主よ、わかりません。あなたがお語りになりたいことをお示しください」と必死で祈っています。ヨハネ3:16、神が私を愛しておられること、主イエスは十字架と復活によって私を罪から救ってくださったと信じておられるなら、それで十分です。

わたしたちがキリストを信じることが出来るのは、キリスト・イエスに捕えられたからです。それが信仰ですね。私は罪深く変わりやすいものであるけれども、キリストが私をしっかりとらえて離さないでいてくださるから大丈夫。この主が救いに導いてくださるという確信です。そしてキリストに捕らえられている人は、もう何もしないでいいとそこに留まることはありません。なおキリストを捕らえたい、主と隣人に仕えたいという心が燃やされるのです。

 

3. 後ろのものを忘れ前へ、神が備えてくださる復活に向かって走る。(13b~14節)

「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに前進を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。」(13後半~15節)

後ろのものとは罪の中にあり、自分で救いを達成すべくいろいろなものに頼っていた時のことでしょう。今パウロは主イエスと出会って捕らえられ、罪の赦しを受け取りました。もう罪に捕らえられてはいません。復活というゴールを待ちわび、神と共に生きる喜びをもっと深く味わいたい。隣人に仕え救いを宣べ伝えるためにいよいよ恵みに満たし、みそば近くにおらせてくださいとの願いに満たされています。

 パウロはかつて自分が教会の迫害者であったことを、決して忘れませんでした。しかし彼はキリストの十字架によって、主が担ってくださったことによって、罪の重荷から解放されていました。自分の罪の重さ、またその事実を多くの人が知っているのに、どうして福音を宣べ伝えられるでしょうとおののくパウロに、主は言われました。「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。」(使徒22:21)それはパウロが赦されたしるしでした。神が光に照らしてパウロに罪を認識させたのは、まだ見ぬ人々にこの赦しをもっていき、同じ喜びを伝えさせるためでした。パウロはどのような状況にあっても喜び、福音宣教に命をささげる燃えるような信仰を持ち、教会への愛と祈りが絶えることはありませんでした。多くの罪を赦されたことがその根本にあったことは、間違いありません。「わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」(Ⅰテモテ1:15~16)

 主イエスが成し遂げて下さった救いのみ業は完全です。そしてパウロは救いの確信を持っていましたが、すべてを得ているのではないと語ります。地上の歩みはいまだ完成の途上にあって、神が終わりの日に復活させ、神のご支配を完成させて下さるのを待ち望んでいるのだと。フィリピの教会には、自分たちが信仰において完成されたと主張した人々がいたようですが、本当に信仰に成熟した者なら、救いの完成を求め続けるのではないか、とパウロは言っています。

わたしたちは「赦された罪人」です。キリストというきよい衣を着て、実質はこれからキリストに似た者として成長させていただきます。後ろのものにたびたびひかれる闘いがあるでしょう。しかし主イエスが再び来られる時、神が救いを完成させて下さる約束を私たちはいただいています。主イエスが成し遂げてくださった救いの御業のゆえに、私たちは天へ招かれます。神が私たちの名を呼んで、罪と死に打ち勝たれた主のごとく復活させてくださるのです。何という喜びでしょう。

前のものに全身を向けつつという御言葉を、私は「与えられた使命に生きる」と受け止めます。私の使命の一つは、和解の恵みをお伝えすることです。私は親と交わりができなかった時期がありました。これではいけないと頭でわかってはいても、いざ親に会おうとすると体が硬直し、自分を正当化してしまうのです。恐ろしいほど自分はかたくなで、冷たい人間でした。しかし多くのとりなしの祈りがあって、ただ神の憐みによって奇跡が起こり、親の側から和解の道が開かれました。そして1か月後、母は天に旅立ちました。後悔はあります。けれども主の赦しを受けて私は、こんなどうしようもない自分を神がどのように憐れんでくださったかを、少しずつお話しするようになりました。この小さな証を通して大きな一歩を踏み出した方もおられて、ただ御名をあがめるものです。

過去や現在持っているよいものは、それを誇ったり救いの根拠にするなら価値がありませんが、主にあって用いられるならば決して無駄になることはありません。失敗したことや負の感情も無理に押し込める必要はありません。時間はかかるかもしれませんが祈り求めていく時に、それらを持ったうえで心はそこから解放されて進んでいけるように、主が力をくださいます。そして復活への道は「到達したところに基づいて進む」(16節)、それぞれのペースで行けばよいのです。大きな目標を確認しつつ、主と多くの方に支えられてここまで来た道のりを感謝して、御言葉をいただいて今日も一歩を重ねていきましょう。