10月27日 聖霊降臨節第24主日礼拝
「神の国を求めて生きる」隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書 12:29~34
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今朝の礼拝で取り上げる聖書箇所は、聖書日課よりルカによる福音書12章を選ばせていただきました。その中で新共同訳聖書の小見出しで「思い悩むな」と書いてある部分の「後半部分」からメッセージをとりつがせていただきます。この部分は、わかってはいても、「恐れ、思い悩むことをやめない、私たちに向けて」のイエス・キリストのメッセージが語られています。
最近、私の敬愛するある牧師が、所属教会の100周年記念誌を書きましたが、その巻頭言に「教会の直面する弱さや、思い悩み」について印象的なことを書いていましたので、少しそれを紹介させてください。
「この世にあって、強さは憧れです。富むこと、豊かになることが喜ばれます。逆に弱くなること、貧しくなることは嫌がられます。実際、人は自らの衰えを痛感させられると、人生に望みを持てなくなってしまいます。 教会の思うところもこの世と同じなのでしょうか。
教会が大きくなり、強くされ、その持ち物において豊かにされてゆく。それを喜び、感謝するのが当然とされています。でも、問題はその先にあります。その教会もやがて衰え、弱くなり、貧しくなってゆく…」
一旦ここで読むのを止めますが、いかがお感じでしょうか?
どこの教会も、教勢や財政が落ちて、高齢化が進んでいます。弱さや貧しさを肌身で感じる時も増えていると思いますが、そんな私たちには希望はないのでしょうか?
そんなことは無い!ということを皆さんは知っておられると思います。今日は、皆さんのその思いと、イエスが実際に語られる「弱さの中での希望」の御言葉が、響きあう時になることを望みます。
御言葉を味わってまいりましょう。
まず29、30節の一つ目の文を読んでみます。
「何を食べようか、何を飲もうかということは、世の異邦人が求めているものだ」ということがイエスによって語られます。
ここで言われる異邦人のことをイエスは「自分の命と体とを養い、装い、守って下さる唯一のお方を知らない人たちである」というような話をなさいます。だから異邦人は「食べ物や衣服やその他の様々なものを切に求めていくことになり、そこに、思い悩みが生まれる」とイエスは仰るのです。
世界に多く存在する「神々」の多くが「五穀豊穣の神」「多産で、豊かさを求める神」です。しかし30節の後半、「あなたがたは世の異邦人とは違うのだ」とイエスは仰います。
「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」。
聖書の教える「神への信仰」と「異邦の神々への信仰」の違い、それはこういうところにもあらわれます。 異邦の神々は、人間が都合よく作り出した物なので、自分の願い事をその通り聞く設定になっているものがほとんどです。 だから、必死に願い求めたり、多くのささげものをすれば「自分がさらにほしい者を得ることが出来る。繁栄がもたらされる」と教えます。
しかし、聖書は真逆です。神は必要なものをご存じなのですから、「ちょうどよい恵み」を与えようとされます。自分にとって、与えられているものが「少なく不満に」感じることは誰でもあるでしょう。私も「なぜ自分はこんなに貧しいのだ」と不満を感じることが正直あります。
でも!そんな私の心の小ささをそれでも心にとめ、愛し、必要なものを与え続けて下さるそんな神が共におられるのです。
こんな神を知っていることに最大の恵みがあるのではないでしょうか。
神が、私たちの天の父として、私たちを大切に思い、愛していて下さるのです。そして私たちに必要なものを必要な時に必要なだけ与えて下さいます。
その最たるものが「イエス・キリストの十字架の贖いによる罪のゆるし、そして天国の永遠の命」です。これらは、自分の力でどうすることもできないことを、聖書を読めば読むほど、また教会に通えば通うほど、分かってきます。逆に「天の父なる神との交わりを通して生きていことしかない!」ということを心の底から味わうことになってきます。
その過程をとおしてイエスは「自分の命と体を自分で養い装おうとして思い悩む必要がないのだよ…」と私たちに語りかけてくださるのです。
さて31節から後でイエスは、それまで語られた「あなたがたは父なる神を信じることで思い悩みから解放されるのだ」ということに加えて「ある大切なこと」を語られるのです。
31節に「ただ、神の国を求めなさい」とあります。「思い悩むな」というのは否定的消極的な命令なのに対し、これは、「肯定的で積極的な命令」です。思い悩みから解放されて「神の国を求めて生きるとは」具体的にどのように生きることなのか…それががこの言葉によって教えられているのです。
それが、33、34節に示されています。(※大切なので33、34節をお読みします)
自分の持ち物を売り払って貧しい人々に施すことによって、盗まれることも、虫に食われることもない天に富を積むことが、思い悩みから解放された私たちの生き方だと教えられています。
この言葉を読むと、反射的に「自分の持ち物を売り払って施すことなどとてもできない!」と私などは思ってしまいます。
しかし、これは、今読んできた文脈からすれば、「自分の持っているもの、蓄えているもので自分の命と体を養い、装う必要はもうない、父なる神様が私たちの命と体を養い、装って下さるのだから、もう、自分が持っているものに縛られるのではない」という意味で語られていることが迫ってくるのではないでしょうか?
つまり!!どういうことかというと「自分の所有物を守り抜かなきゃ!、とか、増やさなきゃとか!」そういう思いに支配されなくてよいよ!とイエスご自身が勧めてくださっているのです。
そして大切なのは「施しをしなければならない」という義務が語られているのではなくて、「神があなたに与えてくだっているものを、あなたはもっと自由に用いることができるのだよ」という勧めがなされていることを覚えましょう。
「自分のためよりも、神のみ心がこの世で実現されるそのために献げていくことができる」そんな「互いに愛し合い、励まし合い、支え合う」「神の御国がなるために、自分の命が用いられる」そんな生き方が教えられているのです。
34節で教えられている通り、「富」というのは、それをどこに置くのか…が問われているのです。
それを天に積むとは、神により頼むことであり、神の創造された、神の愛するすべての命と共に生きることを志すことに繋がります。一方で地上に富を積むとは、自分中心に生きること、自分さえ豊かであればそれでよいという生き方です。
人生を養い装うのは自分自身だ、と思っているならば、その人は自分により頼んでいる。つまり富を自分に積もうとしていて、その心は地上にあって天にはないのです。
一方で、「神の国を求めて生きる」こととは、父なる神様が自分の命と体を養い、装って下さることを信じ、その神様により頼むことですが、それは「自分の命だけしか見えない」のではなくて「神の国全体を見つめ、神が創造され、養われている一つ一つの命を見つめて生きること」なのです。
大切なのは、神が創造された「世界全体」を愛し、受け入れて行くことです。そうするならば「心は地上ではなく、天に向くこと」が増えます。思い悩みや不安から解放される瞬間も増えます。
そして何より!「自己実現の貪欲」から自由になって、自分に与えられているものを他者のために用いていくことができる新しい歩みが与えられるのです。
最後に、冒頭でお分かちした「私の敬愛する牧師」の「弱さの中での教会の希望」について、先ほどの続きの文を分かち合ってからメッセージを閉じさせてください。
さきほどは「教会が世の中の常識とおなじであるならば、教勢や財政が確実に落ちている今、希望はないはずなのではないか…」という問題提起でした。しかし、その続きにこのように綴っておられます。
「そうだとすれば、教会も衰えを恐れねばなりません。貧しくなることを恐れねばなりません。教会が勢いを回復できないうちは喜びなどないはずです。
でも、そうではありませんよね!」
教会はこの世の誰よりも弱く、誰よりも貧しくなられた十字架の主キリストによって救われた者の集いです。そして教会は、主から次の御言葉をいただいています。自身の弱さに悩むパウロを希望に溢れさせた言葉です。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」(コリントの信徒への手紙二12章9)
そもそも命は衰えてゆくもの、弱ってゆくものです。考えなければならないのは、「その身に強いられた不自由、衰え、そして貧しさ。それらを克服できなければ、人は喜びに与れないのか。弱いままでは、貧しいままでは、幸せになれないのか。」ということです。
幸せになれるよ、とキリストは仰せなのです。」
ここまでが「ある牧師の言葉」なのですが、最後の「幸せになれるよ」ということばと、今日皆様と味わったルカ12章29節以下の言葉が重ねると私は感じました。
弱さ、貧しさを感じる中でも、「これまでの人生において必要なものを与え続けてくださった創造主である神に目を向け」その「神が創造された、同じ尊い命たちに目を向け」「共に支え合っていきていく」なら、幸いを感じて生きてくことが出来るのです。その幸いを胸に生きてまいりましょう。
(祈り・黙想)